前編
お読みいただきありがとうございます。
星が降り出しそうな満天の日に、残念ながら星は降らなかったけど代わりに女神様からの天啓は落っこちてきた。
天啓という名の光の柱は藍色の空を震わし、誰もがこの景色を見たことだろう。
人々は歓喜した。魔王を倒す者が現れたのだと。ややこをあやす手を止め、仲間と語らい合う口をつぐみ、光の柱目掛けて祈った。
だからこそ、翌日訪れた王国の騎士団は落胆したと思う。
村人の誰もが、天啓を受けたのは自分ではないと首を横に振ったからだ。
真実が周知されれば、なーんだ、と昨日は必死になって祈ってた人たちは、何事もなかったようにいつもの生活に戻っていった。
――それから幾年もの時が流れた。数えたら丁度七年程。
新しい光が立った。
女神の天啓に導かれ、勇者が現れる。
勇者が魔王討伐に向かってから二年後。彼はまさしく、世界を救ってみせる。
魔王を討ったのだ。
そして勇者に討伐された筈の魔王は、今私の目の前にいたりする。
大樹に寄りかかり、葉と葉の隙間から落ちてきた光が真っ黒な彼の体をまだらに染めていた。
体は焼け焦げた炭を彷彿とさせ、空気に溶けていってる。
もう魔王は助からないのだろう。何故なら、勇者が討ったから。
私は茶髪をふわふわ風に漂わせながら、持参したバスケットをゴソゴソ漁る。
訝しげに、あるいは鬱陶しげにこちらを伺う魔王に、私はホールのミートパイを突き出した。
掲げられたミートパイに魔王は少し怯んでから、黒目を細める。
「なんだ、これは」
「ミートパイですよ。知らないんだ。魔王様って箱入りですねえ」
「それぐらい知ってる。なんでそれを作って、わざわざ俺の所に持ってきたんだと聞いているんだ」
「えーだって魔王様、『シニギワ』なんでしょう。最後の晩餐としゃれこもうよ」
思いっきり魔王は顔を顰めた。
もう首から下は動かせないのに、表情だけは品揃え豊かだ。
「絶対言葉の使い方間違えてるぞ。あと俺を憐れむのはやめろ。お前も一緒に朽ちさせるぞ」
「わあ怖い」
大袈裟な身振り手振りを交えながら驚いてみせると、魔王の顔はもっと歪んだ。
私はバカだから言葉の使い方も合ってないことが多々あるし、こういう時気の利いた一言もいえやしない。
けどだいじょーぶ。
お母さんが言ってた。
「お父さん、怒ってる時でも私のご飯食べさせたらコロッと機嫌直すのよ。単純よねえ」
扱いやすいわあ。高笑いをきめるお母さんの姿がまぶたの裏に浮かぶ。
私は事前に八切れに切り分けていたミートパイを、手で掴んだ。
「はい、あーん」
「おい、なにする気だ……っぐぶ」
ひしゃげた蛙が絞り出したような声を魔王が漏らした。
「美味しいですか」
「……まあ、それなりに」
意外と素直な魔王は、魔王というよりも私と同じ年頃の男の子みたいに目元を赤くした。
私は自身もミートパイに齧り付く。
うん、美味しい。味見忘れてたから美味しくて良かった。
むしゃむしゃ遠慮なく食べていると、咀嚼し終えたのか目線で促してくる魔王に、今度は丁寧にミートパイを押し込みつつ、私は笑う。
「明日も生きていたら、違うご飯持ってきますね」
「迷惑だ」
「またまたあ」
バスケットを持ち立ち上がった私は、服の上に転がったミートパイの欠片をはたいた。
なんて奴だ。
目線だけで巧妙にそう訴えかけてくる魔王はまるっと無視して、私は綺麗になった服を見下ろす。
日が落ちかけてきている。
またたきの間しか許されない蕩けたオレンジ色の陽を背に受け、魔王に手を振った。
満足した私は、特に返答は求めぬまま歩き始める。
冬は大地を踏みしめ、のんびり、だけど着実に近づいてきている。
温かい空気を切り分け延びてきた透き通った冷気が、私の髪をすいた。
バラバラと髪が四方八方にまとまりなく揺れて、手で束ねる。
不便だと心の中で愚痴りながら、ふと思う。
こんな想いをするのはいつぶりだろうかと。
――魔王が死ぬまで、あと四日。
◇◇◇
早朝、魔王は今日も生きていると仮定しグラタンを仕込む私は、起きた時から感じていた違和感の正体に気がついた。
「胸が……ある」
鍋が少し見づらいなー、と首を傾げていたのだ。
まさかの胸だったとは。
やったね。
「いやいや、そうやって流して良いものじゃないよね、これ……」
楽観的とお母さんになじられ、誰かには時折心配された私でも、今回ばかりは流せない。
でもとりあえず、胸があったらしてみたかったポージングを決めてみる。この為に、家から少し距離のある湖まで来た。
静謐な、ただ一つの波紋もない湖に凡庸な顔の少女が映る。
普段なら平々凡々な顔に嫌気がさしてくるが、今日の私は違う。胸があるから。
小一時間、私は魔王のことも忘れ湖に映る姿を楽しんだ。
「ごめんなさーい、遅くなって」
「別に待ってない」
「魔王様は、いつ死ぬかも分からない貧弱ということを知っていながら……でもあれに抗える人間なんて……」
「聞いてるか。俺は全くもって待ってないからな」
揺れる胸にある種の感動を覚える。
もしかしたら、魔王は生物の豊かな発育を促すパワーでも持っているのかもしれない。
「……なんだよ、気持ちの悪い視線を送るな」
「ふへへ」
「本当になんなんだっ」
怯える魔王に、今は大抵のことなら許せる無敵モードの私は寛大に微笑み、バスケットからグラタンを取り出した。
「はい、あーん」
「…………」
昨日の出来事から学んだのか、大人しく魔王はスプーンですくったグラタンを食べた。
「美味しいですか?」
「ああ、まあ」
歯切れが悪い。
グラタンを食べてみれば、自ずとその答えは知れた。
「味、うす……」
そういえば、胸に喜びすぎてグラタンの味を調えることを忘れていた。
これでは、ただとろみのついた牛乳に具材を入れただけだ。
「魔王様は本当は優しかったんですね……。料理のミスを指摘しないでくれるなんて」
昔から私はこうだ。悪い意味で将来への不安がないタイプ。
そんなタイプは味見などしない。将来への不安がないから。
切ない思いで味のないグラタンを食べる。
昔は、誰かが私を宥めながら味が薄かったり濃かったりする料理を平らげてくれた。
だがここにいるのは私と魔王だけ。
ため息が出てしまう。
「おい、何一人で全部食べようとしてるんだよ」
「え……」
昨日と変わらぬ尊大な態度で、魔王は私を顎で使った。
曰く、グラタンを寄越せと。
美味しくないことは知っている筈だ。
だけど魔王は、嫌な顔せず口を雛鳥がするように開けている。
思わず顔が綻んでしまった。
「魔王様って、良い人ですねえ。見直しちゃった」
「ふん」
少しずつ魔王はグラタンを胃に収めていく。
もう食べるの嫌になったかな、と魔王が咀嚼している間に顔色を伺うが、飲み込むとすぐに口を開けるから嬉しくなってしまう。
私の視線に気を割かず食べ続ける魔王の顔は、鍋の焦げが取れツルリと本来の輝きを覗かせた鍋のようだ。
黒い炭はほろほろと溶けていき、代わりに白い肌が姿を見せている。
この分だと、きっと髪と目も黒ではないのだろう。楽しみだ。
私はくだらないことを考えていれば、魔王は完食していた。
「わあ、完食。凄い」
「ふん。次は気をつけろよ」
「はい。それにしても、魔王様ってなんだか……」
言葉は震えてとまった。余韻は葉のざわめきに攫われていく。
誰かに彼を例えようとしたのに、肝心の誰かが出てこない。
「あれ」
そういえば、誰かとは誰なのだろう。
なんでずっと、当たり前の疑問に気づかなかったのだろう。
「どうしたんだ」
「……いいえ」
ヘラリと笑う。呆れたように、魔王も笑った。その笑顔はとても私が好きな笑顔だった。
――魔王が死ぬまで、あと三日。
◇◇◇
「魔王様、見てみて」
「……ああ」
なんとも鈍い反応に、私は頬を膨らませた。
「こーんな可愛いリボン付けてますのに。もっと褒めてよ」
今日の贈り物は水色のリボンだった。動く度にしなった所から放たれる光沢は美しく、澄んだ冬の空色はため息をつく程見惚れてしまう。
後ろの低い位置で一つに束ねられていて、とても過ごしやすい。
「んふふ。私癖っ毛だから嬉しい」
「そうだろうな」
そうだろうな、とはなんだろうか。
この魔王、もしかしてずっと私のことモサモサだな、なんて思っていたのだろうか。失礼な。
「サラサラ髪の魔王様には私の気持ちなんて分かりませんよねえ」
「おい、触るな」
黒い炭が剥がれかけた髪は、所々銀色が輝いている。彼の本来の髪色なのだろう。
私は魔王の頬に手を当てた。
「魔王様の瞳の色も、きっととても綺麗なんでしょうねえ」
魔王の瞳は、全ての光を吸収するように底なしの真っ黒で、身震いしてしまう。
彼にはもっと、違う色が似合う。
「おい、触るなって言ってるだろう」
「へーんだ。もう動けない魔王様なんて、ちっとも怖くないです」
不愉快そうに片眉を上げる器用な魔王に、私はキッシュを見せつけた。
「どうですどうです。美味しそうですよね。とっても美味しいんですよ」
「今日は味見したのか」
呆然と呟く魔王に、私は揺れる胸を張った。
「してませんっ。ただの勘ですよお」
ガックシと魔王が項垂れた。
ため息をついてから魔王はキッシュを口に含む。
「……ん、美味しい」
「ですよね、知ってました」
「凄い自信だな」
「んふふ」
呆れたように笑う魔王に残りも食べさせてから、私はバスケットを持ち家に帰ることにした。
日はまだ高い所にあって、煌々とあたりを照らしている。
「たっだいまあ」
家の中に入る。
と言っても、誰かがいるというわけではない。
ただの癖なのだ。
私は一人暮らしなのだ。たぶん。
「お母さんとお父さん、元気かなあ」
心に隙間風が吹く。
しんみりとした空気をどうにかする為に、魔王の所に持っていかなかったキッシュを食べることにした。
ふんふーん、と鼻歌を口ずさみながらせっかくだからとお茶も淹れることにする。
戸棚から、木のカップを取り出した。
だけど手が止まってしまった。
「わあ、なんで四つもあるんだろ。流石に一人暮らしの量じゃないよ……」
少しずつデザインの違う、だけど似通ったデザインのカップが整列していた。
その内の一つを手に取る。
むむむ、と見つめながら、私はついと周りを見た。
白い光が差し込む家は、どこもかしこも四つで構成されていた。
お皿も四の倍数で、椅子もテーブルを囲うように四脚並んでいる。
けれどスプーンだけは、法則性を破るように真新しい小さなスプーンがあった。
『ペネロペ』
愛おしさが滲んだ言葉が、私の耳をくすぐった。
『――早く帰ってきてね』
次に響いたのは私の声。憶えのない言葉が、静まり返った家にこだまする。
「そっか、私の名前は、ペネロペ」
雲で日は翳り、温かみを失ったように部屋がすうと暗くなった。
私の名前はペネロペ。
誰かが、きっと私の大切な人が呼んでくれた名前。
気づいた。
私は最近、一睡も寝ていないことに。
それどころか、人としての営みを全て失っていることに。
――魔王が死ぬまで、あと二日。
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