音会わせ-4
声が重なり、背中には温もりを感じる。まるで壊れものを抱きしめるように優しく、かといって弱々しさは感じられず、しっかりと大事なものを抱えるように――文字通り、ボクは抱擁を受けていた。
「こんにちは」
優しく、囁くように声が耳をくすぐる。
「また、会えましたね」
嬉しいです、と呟き、腕の力を少し強めた。
ふわりと舞ういい匂い。ゆっくりと舞う花弁は、流れてゆく時間がどんどん遅くなっていくようで……まるで世界から切り離されたようだった。
「あの」
「自己紹介がまだでしたね、私の名前は黒姫雪乃。紅坂高校総合音楽部吹奏楽団団長を務めさせてもらっています」
「んぅ、あ、あの!」
す――と、ゆっくりと唇の前に人差し指を持ってきて、
「人とお話をする時は?」
子供に言い聞かせるように、慈しむように言った。
ゆっくりと体を反転させると、ボクに目を合わせるようにその人がかがむ。
目の前いっぱいに顔が映る。綺麗な黒髪に、綺麗な目。輪郭は優しくて柔らかそうなのにどこか、なんて言うか……凛、とした綺麗な顔で、思わず、
「きれー……」
ぽーっとする頭で呟いた。昨日も見たはずなのに改めてじっくり見ると――、
「ふふ、惚れちゃいましたか?」
「へ……んぅ!?え、あああのその、きれーだなって思っただけでそのあの……」
「残念。そこまで期待させてポイ捨てだなんて酷いです」
よよよ、と泣くようなポーズでそのまま後ろに彼女は崩れ落ちる。
「えぅ!?そ、そういうことじゃなくてあの……え……んと……、あ!じ、自己紹介!!」
危うく流されるところだった。すんでの所で(黒姫さんの目が潤んでたような気がする……)路線を変更し、事なきを得た。
……それに、この手のことはある程度、母さんから……ね。
「ボクは常盤優活って言います。……あの、もしかして春香ちゃんの」
「はい。あなたのことは春香ちゃんから聞いていました。ピアニカが上手な女の子みたいな可愛らしい男の子だって」
嬉しそうに話してくれました、と穏やかな顔で微笑んだ。
「あぅ……」
それに対してボクは恥ずかしくなって顔を俯かせる。
「ふふふ。それで、昨日のことなのですが」
言われて思い出した。そうだ、昨日のこと!
「あ、あの!」
「?どうしました?」
「昨日のことは……内緒にしてもらえますか?」
昨日のこととはもちろん、校内に侵入してピアニカを吹いたということ。
いくらじいちゃんが大丈夫だと言ってもいつか騒ぎになって本当に退学、そして……。
うう、考えただけで震えが止まらない。そんな最悪のケースにならないためにこの話題を出したのだが――。
「……それはだめです」
「ぇう、そんな…………なんで」
「だって、内緒にしたら」
――あなたの「素晴らしいもの」が伝えられないじゃないですか。
――え?
黒姫さんはものやわらかな表情を――親が子供に向けるような優しい顔をボクに向けた。
どもってしまってうまく言葉が出ないボクを見据えながら、話を続ける。
「昨日は、素晴らしい演奏でした」
一歩。
「それを内緒にするだなんて、もったいなくてできません」
一歩。
「もしかして恥ずかしかったりしますか?ふふっ、大丈夫です。もっと自信を持っていいんですよ」
また一歩。ボクに近づいて、
「それに」
ぽふりと優しくボクの頭に手をおいて、
「誰にも伝えられなかったら、誰もわかってくれませんよ。」
父さんと、母さんが重なった。
「こんなにも素敵なものなんです、もっとたくさんの人に聞かせましょう?私達も、昨日のあなたの演奏を聴いて、いてもたってもいられないんです。そこで!」
ボクの肩に手をおいて顔を向き合わせて、
「提案があります」
――私達と奏でてくれますか?
~♪~
言われてから気が付くまでに、一拍の間があった。
その一拍がとても長く感じるだなんて、漫画の世界での話だと思っていた。
ボクが実際に感じた一拍は一秒にも満たない僅かな時間。
でも、その間に様々な言葉が、こう……ドンって、ドンってなって……。
一度にたくさん出てくるから、何を言っていいのか分からなくて、どう伝えたいのか分からなくて、それが溢れてきて、
つー、と熱いもの。ほっぺたを伝っていくうちに冷たくなって、地面へぽつん。
一回で済むと思ったのにそれは右から左から、どんどん出てくる。
「あっ、あ゛ぅっ。ご、ごめっ、なさい」
そんなボクを黒姫さんは何も言わずにハンカチで頬を拭く。相変わらず優しい表情で、でもその眼はボクの言葉を待っているようだった。
早く何か言わなきゃ!そう思っていてもたくさんある言葉から何を言えばいい分からず、迷っているうちに言葉は涙となって流れてゆく。
「うれ゛…っ…嬉しいんです。」
言いたいことはたくさんあるのに、たくさん頭の中で浮かんでるのに、これしか言えない自分が恥ずかしかった。
聖徳太子だったら良かったのに。そうだったら、この頭の中のたくさんのボク達の声を整理して伝えられたのに。
「はぁっ、はぁ…っ…嬉しく、て、嬉しくて、……っ、たくさん言いたいことっ、…ぅっ…あるのにぃっ!これ、しか言えなくてっ、ぁあ、ごめんな゛さい!」
ただ泣くことしかできないボクを、嗚咽交じりの言葉を、文句を言わずに黙って聞いてくれる。
「ボクっ、初めて、父さんたち以外に褒められて、嬉しくてっ!……こんな、子供みたいだし、……おもちゃみたいな楽器だし、周りからは見向きもされなくて、……でもやっぱり、ちょっと信じられなくて、中学校の時みたいに馬鹿にされるんじゃないかって……」
中学校時代、ボクはこの楽器をもって吹奏楽部の門をたたいた。
近所の小学生達からの評判もあって、期待を胸に訪ねたけど、
――そんなおもちゃはお断りだ!
――恥ずかしくないの?そんなものは早く卒業したらどう?
――ははっ、相応の楽器じゃないか!見た目がガキみたいなお前にはな!
――ピアニカだって。小学生じゃあるまいし~きゃはは♪
――こんな安っぽい音なんかいらない!よそへ行ってくれ!
待ち受けていたのは、数々の侮蔑の言葉だった。
なぜこんなに言われなければいけないのか分からなかった。
ただ一つ分かることは、ボクのピアニカが拒絶されたということ。
苦しかった。母さんの言葉が踏みにじられたようで。
悔しかった。父さんの言葉が否定されたようで。
でもそれ以上に……痛かった。大好きなピアニカを、傷つけられて……。
そして怖くなった。今は喜んでくれる小学生たちがピアニカのことを同じように傷つけるんじゃ、って。
その日からボクは人前でピアニカを吹くことがなくなった。
「昨日、聞いていたらわかりますよね?……あんな安っぽい音、欲しくないですよね?邪魔なだけですよね!?おもちゃみたいな楽器しか弾けないボクなんかいんひゃい!?」
「こら。自分のことを卑下する悪ーいお口はここですか、ここですか?」
「ふひあ!?ふぁうふぁう、やめっ、ふい~~~~~~!?」
ボクの口を思い切り引っ張る。ぐにぐに、もにもに。まるで粘土を捏ねる様な手つきで口を、ほっぺたをいじくりまわす。
「ほら、悪ーいお口はこーんなに伸びちゃいますよ~♪」
「ふみみみ~~~!!ほみゃーーーーーー!!」
まるでおもちゃの新しい遊びを見つけたような楽しげな口調だが、時折見せるその眼は楽しそうというより……、
「たってたって、よっこよっこ、ま~る書いてチョン!!……と見せかけてもにもにもに~♪」
やっぱ楽しんでる!?
「~♪」
「あうぅぅ……」
やっと解放された、ほっぺがひりひりする……。
気が済むまでもにもにした黒姫さんは満足した表情で、こちらをにこにこと見ていた。しかしその眼はボクの顔と言うより、ほっぺたを見ていて、しかも時折手が怪しい動きをしている。気を抜いたら……あぅぅ……。
「いきなり何するんですか!?」
「あら、それはこちらのセリフですよ?いきなり自分を悪く言うお口があるんですもの。」
「う……で、でもそれは…………あぶなっ!」
「む~、何で掴むんですか」
ボクの顔の両脇にはボクの手より一回り大きなそれが虚空を掴んでいた。
しかもその手は怪しい動きではなく、肉に食らいつこうとする肉食獣の口を彷彿させる。
わしっ、わしっ!空を切る音が耳元で聞こえる。
力を抜いたらボクのほっぺたはめちゃくちゃ……いや、食いちぎるに違いない!!
「どうしてあなたは(わし!)自分を否定するような(わしっ!)、ことを言うんですか!?(わしわしわしっ)」
「ど、どうしてって言われても(ひゅかっ!)いま耳かすったー!?」
い、言いあってる場合じゃない!この手は本当に食いちぎるつもりだ!
「さぁ、私が納得できることを言わない限り(わしわしっ!)、そのおいしそうな……柔らかそうなほっぺたを食べて、いんぐりもんぐりしちゃいますよ~♪(わしわしわしっ♪)」
「今おいしそうって言おうとした!?しかも食べるって!?」
「ふふふふふ……」
なんてことだ……手から食べるのか、この人!?
「試して、みましょうか?」(わしわしっ♪)
黒姫さんの目に妖しい光が宿り、腕の力も強くなり、手の動きも激しさを増す。
「い、いいですぅ~~」
優活は‘いい《No》’と言っている。
「え?やっちゃっていいんですか!?」
しかし雪乃は‘いい《Yes》’と捉えた。
「んぅ!?いい《Yes》じゃない!いい《No》!いい《No》です!!」
「だからいい《Yes》んですよね!?遠慮なくやっちゃっていい《Yes》んですよね!?」
「だ、だからちがっ、ち、力が強く!?く、黒姫さん落ち着いて落ち……う、うぐぅぅぅ~~~~~~~~!!!!!」