鋼鉄
船が出て行き、町は静けさに包まれていました。まだ人が起きる前の早朝とは言え、以前までの賑やかさを知っていれば驚くばかりです。
そんな中で、一人の少女が黒髪をたなびかせて海を見ていました。
「そんな所でどうしたんですか? 大殿」
私がそう訊ねると、彼女はどこか虚ろな目をこちらに向けます。
「苗殿か」
彼女は私を暫く見た後、また海に視線を戻します。私もそれを追うように視線を向けます。
私にとって、海は静かで穏やかな場所。でも、彼女にとっては違うかもしれません。物資を運ぶための重要な要素である海は、彼女にとっては責務と切っては離せない。情緒を感じる余裕も無いかもしれません。
「薬草の調合を……」
そのように言うと、彼女が暫く海を見つめた後、視線だけこちらに向けます。
「手伝ってほしいのです」
そのように言うと、彼女はようやく足を動かして私に近寄ってきました。その目は焦点が合っておらず、どこか遠い場所を見ようとしているようにも、何か別の事を考えているようにも見えます。
「行きましょう」
そう声をかけてから足を踏み出しても、彼女は足元がおぼつかない様子です。少し歩いては体の重心がずれて転びそうになる。
「何をそんなに……」
そう言っていて、途中で気がつきます。彼女は渡海しなかった。彼女が彼であった時は自分が戦場に赴くのは責務であると考え、そして実行した。しかし、今の姿になって初めての大戦を前にして、彼女は戦場に背を向ける事を選んだ。姿が変われば考えも変わると言いますが、今回の大殿はそれが顕著に表れました。
本人が、自分がどうしてそのような決定をしたのかが分からないのでしょう。
「大殿、きっと大丈夫ですよ」
そう言っても、彼女は何も反応しない。なので、手を握る事にしました。
そんな私の行動に、彼女は目を見開いて私を見ます。
「行きましょう。時間は大切に使わなければ損です」
我ながらいい加減な台詞だと思います。でも、これでいいのでしょう。
部屋の中で薬草を黙々と調合していても、外から様々な噂が耳に入ってきます。
「戦況は……」
と言うのは若い男性。名前は知りませんが、私の家を警備している男性の声です。その人が少し躊躇いがちにこう言います。
「噂では殿は逃げ回っているとか」
その言葉を聞いて、他の男性の声が答えます。
「聞いた聞いた。トルグートのボルドの騎馬隊から逃げ回っているとか」
そう返したのは、私の部屋に薬草を届けてくれる輸送部隊の人。穏やかでは無いその様子ですが、反対に私の方は特に何も思いません。
「殿は凄いお人ですね」
そう言うと、重持様は私を見つめます。彼女は薬草をすり鉢で黙々とこねていました。見てみると、少しすりすぎかもしれないって程細かくなっています。
「もういいですよ」
そう言うと、彼女は素直にすり鉢を私に渡してくれます。それを受け取りながら、私は殿の事を考えます。
「そう言えば……」
彼は時々、ボルドって人の事を話していました。
「どんな人だと言っていたっけ?」
薬草を陶器の鍋に入れて煮出すと、仄かに苦い匂いが立ち上ります。
「いったいどんな効能が?」
重持様がそう言うので、私が答えます。
「解毒ですね。体の中の毒素を抜き、代わりに眠たくなる」
それを聞いて、重持様は少し渋い顔をしました。
「効能を知らなければ大変だ」
それを聞いて私も頷きます。
「でも、知れば有益な薬になる。寝る前に飲めば、ついでに快眠の薬としても使えると言うわけです」
「ものは使いようと言う事か」
そう言って、重持様はその薬を煮出した茶を一口飲みます。
「苦いのう」
躊躇無くそう飲むので、私は首を傾げます。
「この後の予定は?」
そう訊ねると、重持様は首を横に振ります。
「無い。だからこれでも飲んでゆっくり昼寝でもしようかと」
まだ日が昇りきっていないため、昼寝と言うより二度寝と言う感じですが。
「ボルドってどんな人なんですか」
そう訊ねると、重持様はゆっくりと私を見ます。
「気になるのか?」
暗い声に私は頷きます。
「ええ」
そのように言うと、重持様が目を見開きます。
「どうしました?」
「気にしないのだな」
なんとなく言いたい事は察しが付きます。ですが、それにいちいち付き合っていたら心が持ちません。
「あれこれ考えるのは疲れますからね」
そう言うと、重持様が口角を上げます。
「図太くなったな」
そんな風に言われたので、私は少しわざとらしくこう言ってみます。
「失礼な。そんなに太っていませんよ」
そう言って重持様が眩しそうに目を細めた後、すっと表情を変えます。口を真横に引き結び、目元と額に刻まれていた皺が無くなっていました。まるで、感情が消えたような印象を受けます。
「ボルドの事だったな」
少しだけ重持様は深呼吸をします。
「大陸の奥地にある高原で生まれた彼は、親友にも女性にも恵まれていた。奴が幼い時は頭のキレる親友が側にいて、自分を一途に愛してくれる女性もいた。身分も小さい部族の首領の息子で、次期首領とも言われていた」
奴は訓練を徹底的に行う男で、目標通りになるまでは何度でも訓練を行った。そこに妥協は無く、脇目も振らずに行っていたらしい。一方で、奴の親友は奇抜な策を用いて周りの者達を驚かせる事が得意だったらしい。一見すると馬が合わないような二人だったが、不思議と仲が良かったらしい。
そんな時に事件が起きた。突如として、その親友が奴に矢を放った。その矢は男自身には当たらなかった代わりに、奴の許嫁に当たった。
困惑した男は親友を問い詰めたが、親友は頑なに何も喋らなかった。それを怒った男は軍を組織して親友を討った。
その後だったらしい。親友の裏では大国がいて、次期首領である男一人を討ち取れば民族の安全を保証された。
それを知った男は、その大国を何年もかけて滅ぼした。どれ程の困難であろうとも、折れる事の無い強き心。それを湛えて、人々は鋼鉄の意味を持つ「ボルド」と呼んだそうだ。
「こんな所か。あまり面白い話では無かっただろう?」
そう言う重持様の目は、どこかつまらなさそうです。
「そうでしょうか。面白い話だと思いますが」
「儂にはありがちな英雄譚に見える」
雑談の延長のように言う私に対し、重持様は知りたくも無い話を聞いたと言うような表情で外に目線を移しました。
「今まで奴が我が国に来なかったのは、海があったからじゃ。騎馬を中心とした軍を組織する奴らに、海を越える事は出来ない」
「その事について、殿はなんと?」
「端的に『そうか』とだけ言っていた」
その時、どのような表情をしていたのか、どのような声色をしていたのか。それは想像するしかありません。しかし、重持様の呆れたような諦観したような表情を浮かべました。きっと、言っても無駄なのだとこの人は判断したのでしょう。
「知りたい事しか知る事が出来ない、それは誰でもそうかもしれない」
重持様がそう言った瞬間、私は思わず笑ってしまいました。
「どうした?」
重持様は困惑した様子で私を見ます。余程私の行動が予想外だったのでしょう。
「重持様。その言葉は、そのまま自分にも当てはまるかもしれませんよ。そして、かのボイドと言う……」
「ボルドだ」
「そう、そのトルグートのボルドと言う人。聞く限り、彼は英雄と言っても過言でも無い人であると思います」
そう言うと、重持様は頷きます。
「いかにも」
「彼の言う事は誰よりも正しい。それは彼だけでは無く、彼の周りでもそうでしょう。故に彼が言った事が正しいと彼を含めた多くの人が信じてしまう」
言いながら、春行様が船出の前に言っていた事を思い出します。
『苗殿。人は自分の信じたいものしか見る事が出来ない。それは私でも例外では無い。自分にとって不都合な事は見る事が出来ないのだ』
その言葉に、私はこう返しました。
『それは仕方無い事では?』
彼は首を横に振ります。
『仕方無いで済まされる事では無いのだ。時としてこの判断により多くの部下が犠牲になる事を考えると、自分はどのようなモノが見え無いのかを知る必要がある』
『どうやって?』
『手伝ってくれ』
春行様との会話を思い出しながら、重持様の顔をしっかりと見据えます。均整の取れた体に美しい目鼻立ちの少女。しかし、その表情は長年多くの苦労を背負ってきた老人のそれです。その表情を見ると、改めてこう思います。
「春行様は、きっと誰よりも貴方を見てきたのでしょうね」
「どう言う意味だろう?」
「難しい事を考えてる時の表情がそっくりです」
そのように言うと、重持様は困ったように眉をひそめました。
「それは勘違いだ。奴は儂なんぞ見ていない」
そしてその言葉を聞いて私はちょっと意外に思いました。
「それは貴方が自分は春行様と違う存在だと自負しているからかも」
そう言うと、彼は驚いたように目を見開いて顔を手で触れました。
「儂が自負?」
そう言って、自分自身が信じられないと言った様子で私の顔を見ます。
「気づいて無かったんですね。貴方は貴方が思っているよりずっと自分の自信と誇りを持っています。でも、同時に自分を責めてもいる。それがこの歪な関係を生んでしまったのでしょう」
自分の子供に自分よりも立派になって欲しい。そこまでいかなくても、多くの困難に立ち向かえる程の強さを持って欲しい。でも実際には……
「申し上げます」
そんな時でした。部屋に急ぎの報告が入ってきたのは。部屋には砂埃を纏った一人の兵士が、高揚した表情で襖を開けて立っていました。普段であれば、軒先に待たせる形で重持様がやってくるのを待つのですが。
「何があった?」
重持様もその様子にただごとでは無いと言う事を察して兵士の顔を見ます。その兵士は私達を見ると、誇らしげにこう報告しました。
「我が軍が……春行様が率いる軍がボルドの首を見事討ち取りました」
その報告を聞いて、重持様は唖然とした顔をしていました。私はそんな様子を見て、このように申し上げました。
「重持様。貴方が願っているような存在に……いいえ。貴方の理想以上の存在に、既に彼はなっていますよ」
不思議な程青い空に高い波が立っている海、湿度のある空気。先日まで過ごしやすい気候でしたが、それが段々過ぎ去っていき湿度のある不快な空気になっていきます。時化の訪れを連想させるその空気の中、私は砂浜で海を見ていました。
海辺には多くの人が迎えにやってきています。そこに多くの船がやってきて、人が次々と降りてきました。その中の一人を捕まえて、私は訊ねました。
「殿は?」
そう言うと、その人は視線を海に浮かぶ一際大きな船へと向けました。その中から杖を片手に馬を引き連れてやってくる男性。彼は金で縁取られた綺麗な鎧と、満月を意匠化した飾りのついた兜を被っていました。不自然な程綺麗に磨かれた鎧兜。変わらず大きな体をした人と馬を見て、私は頬が緩むのがわかります。
足を踏み出して彼に一歩ずつ近づきます。彼は海から流れてくる波と砂浜に足を取られ、中々前にと進めません。ですから、私から彼の元へと積極的に歩いていきます。そんな私の様子に気がついたのか、彼は私に視線を向けてぎこちない笑みを浮かべました。
「全部上手くいってよかったです」
彼はそう言いました。
「そうは見えませんが」
私がそう言うと、彼は何かを誤魔化すように視線を彷徨わせた後で
「私はトルグートの騎馬隊を窪地までおびき寄せて、高台に潜ませておいた兵達で一斉に攻撃しました。途中、相手も軍を突撃させて包囲を切り抜けようとしましたが、私とサルガクで相手の突撃を阻止しました。予定外の事ではありましたが、私はミスなんてしていません。ええ」
と、早口で言います。その顔を私はじっと見つめた後、腕を取りました。
「苗殿?」
春行様が訝しげな声を出すのを無視して、私は彼の耳に口を近づけます。
「なるべく大人しくしてて下さい。ここからなら、病人を治療する施設よりも私の自室の方が近い」
そう言うと、彼は眉間に皺を寄せます。
「いったいなんの事だ?」
彼は一見不機嫌そうにそのように答えました。しかし、額に脂汗を浮かべ普段よりも荒い呼吸をしている事から、強がりのようにも見えます。
「お静かに。どのような症状なのか、それは診てみないと分からないのですから」
周りには彼を出迎えた人達の歓声が上がっています。これらを無視するのは容易な事では無いでしょう。そんな時、私の頭にはとある女性の顔が浮かびました。
「つなさん」
そう言うと、彼女はいつの間にか私の隣に立っていました。
「何か御用でしょうか?」
いつもよりも真剣な顔をした彼女に対し、私は言います。
「なるべく春行様が見え無いように人を配置して下さい」
そう言うと、彼女は無言で頷いてくれました。その後、彼女の指示の元、私と春行様を囲むように多くの人がやってきて、姿が見えないようにしてくれました。
「余計なお世話だ」
そう言う春行様を横目で見てから、私は溜め息を吐きました。
「そんな事は無いでしょう。貴方は自分の顔を見ていないからそのような事が言えるのです」
呆れた強情さです。これは誰に似たのか。そう考えた時に思い浮かんだのは、サルガクです。彼もまた、少し強情な部分がありました。
「春行様」
私が彼に言葉をかけると、彼は不思議そうに首を傾げました。
「どうした?」
「サルガクの母親はどのような馬でしたか?」
そう言うと、彼は懐かしそうに目を細めました。
「優しかったよ。少し強情だったけど」
それを聞いて、私は思わず目を細めました。
「じゃあ、きっと貴方はその方に似たのですね」




