第9話 リリィの代償
「そこで何をしている?」
男の声が聞こえた瞬間、リリィは横に跳躍した。見ると、先ほどまでリリィがいた場所にナイフが刺さっている。
音が全くしなかった。
「ほう?すばしこい奴だな」
ウソでしょ。
淡い月光の下、男の姿が浮かび上がった。黒髪に黒い服装の長身の男。夏なのに長袖を着て、黒い手袋をしている。目の色は紫だ。
シャーロットのお兄さん。
記憶にあるよりも艶やかな黒髪、白いが健康的な肌をしている。
シャーロットのお葬式は今から8年後だけど、何かヘンだ。
リリィが動揺している間にも男は距離を詰めてくる。男は獲物を検分するかのように目を細め、口元には笑みが浮かんでいる。
後ろは崖だから、これ以上下がれない。
「悪いが生きて返すことはできない」
その言葉とともに男は一気に距離を詰め、リリィに襲い掛かってきた。
ウソでしょ!?
何とか男の蹴りをかわし、殴りかかってくる拳をいなした。
うッ!拳の方向を変えただけなのに重い。こっちからも反撃しないと、耐え続けるのはムリ。
リリィはタイミングを見計らって後ろに飛び退り、勢いよく地面を蹴った。リリィの突然の反撃にも男は慌てず、にやりと笑った。
リリィは男の胴体を目掛けて蹴りを放ったが、男もリリィの胴体を目掛けて足を放った。
「!お前…!」
男の足の方が速く届き、リリィは後方へと蹴り飛ばされた。
私の方が速かったのに、あの人足長すぎ。
リリィを蹴った瞬間、男は驚愕に目を見開いた。
何に驚いたんだろう?目の色がバレた?それとも、女だったから?
男の動きが止まったのを見逃さず、立ち上がって街の方へと全力で走った。
せめてこれだけでも置いて行こう。
リリィは懐から出した記事を投げ捨てた。
あんなにヤバい奴だとは思わなかったわ。
宿に戻り、リリィはベッドの上で一息ついた。幸い、追いかけてくる気配はなかったため宿はバレていないだろう。
「はぁ~。私の体大丈夫かなぁ?」
リリィは恐る恐る服を脱いだ。腕と左の脇腹に黄色い痣ができている。
「痛くはないけど、一応冷やしておこう」
そうする間にも痣は緑や青、紫色に変化している。
このまま腐ったら困るな。襲い掛かられた時、体の位置を変えといて良かった。崖から転落したらさすがにマズかったわ。
リリィはベッドに寝そべり、瞼を閉じた。
リリィは時間を戻す際、代償を支払った。リリィが世界に払った代償だ。代償の内容が何かは分かっていない。分かっているのは、聴覚と視覚以外の感覚が無いということだ。
味覚、嗅覚、触覚が無いのは分かっていたけど、痛覚も無くなってる。もしかしたら、もっと違うものなのかも。
耳を澄ますと、時計の針が動く音が聞こえる。さらに耳を澄ますと、廊下を歩く音、街を行き交う人の声がかすかに聞こえる。
やっぱり心臓の音が聞こえない。
リリィは温度を感じなくなっていた。そのため自分の体温がわからず、常に手袋をつけるようになった。
顔色は少し白いくらいだけど、私の体、どうなってるんだろう?怪我したら治るんだろうか?料理人にとって味覚と嗅覚が無いのはキツイけど、長いこと修業していたから意外と大丈夫。誰かにあげる時は必ずクリスに食べてもらってるし。
取り留めなく不安が押し寄せるが、クリスの顔を思い浮かべると不思議と心が軽くなった。
はぁ、とっとと帰ってクリスに会いに行こう。
リリィは電気を消し、眠りについた。
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ジョシュアは森の中で女が走っていった方を見ていた。
何者だ?あの動き、プロとは思えないが。それに蹴った時の感覚、あれは…。
そこまで考え、ジョシュアは頭を振った。
そんなことはどうでもいい。それより、何の目的で来たかが重要だ。
ジョシュアがいる場所はアジトを上から見渡せるようになっている。他はそれなりの警備をしているが、ここは偵察者をおびき寄せるためにあえて空けている場所だ。その偵察者を始末するのがジョシュアの役目となっている。
逃げ足だけは速かったな。
ジョシュアは先ほどのやりとりを思い出し、微笑んだ。ん?なんだあれは。
ジョシュアが見つけたのはリリィが置いて行った新聞記事だった。
王都の貴族新聞?ここでは暗くて見えないな。後で読むか。
そう考え新聞をしまおうとしたが、ふと裏面に載っている写真に目がいった。
「…なるほどな」
ジョシュアは納得したように呟いた。
少し準備がいるが、この挑戦状受けて立とう。
紫色の瞳が爛々と輝いた。