終戦宣言
開戦の合図だ。
それを待っていたかのように、両方の陣営から銅鑼だの鐘だのが打ち鳴らされて、途端に戦場は血なまぐさい殺し合いの場所に景色を変えてしまう。
「俺が勝てば終わりだ、何もかもな!」
「私の勝ちでしょう? 昨日の劣勢をもう忘れたの? 嫌ね、筋肉に栄養を吸い取られて記憶すら失ったのかしら?」
どちらかが倒れた時、この戦争はビジネスを終える。
二人はそれを心の中で叫び、互いに武器を振り上げた。
◇
ロディマスたちが戦いを繰り広げるその場所は、西の大陸エクスロー地方と呼ばれていた。
当日の天候はほとほと悪く、魔王軍の勝利を祈願するように、天空には魔獣たちが飛び交っていた。
雷雲が招来され、飛竜や雷竜の類が天空の航路を防ごうとして、薄暗くも灰褐色な雲間にひっきりなしに巨大な肉体の断片……黒々とした鱗に照り返る雷光を映し出す。
ロディマスはさっきまで快晴だったのに、いきなり黒い雲に覆われ始めた頭上を見上げておいおい、と舌打ち一つ。
魔王軍の主、魔王ディルムッドがこの地方に出征してはや数年。
西の大陸のみならず、六大陸すべてから聖軍に有志が参加した。
今思い返せば、聖戦という名の愚行はその最高潮を迎えようとしていたのかもしれない。
そんな最中のことだ、水が差されたのは。
聖なる陣営の一人、東の大陸は神聖ムゲール王国からの参加者、炎術師ロディマスはその巨躯を活かして煌拳と称される左腕で数多くの魔族を屠ってきた。
金髪碧眼、彫りの深い顔立ちに知的だが野生の狼のような鋭さを持つ瞳が備わっている。
彼の七色に煌めく炎槍が、もうあと少しで敵将の胸板を貫く。はずだった。
そこに神様から停戦の合図がもたらされた。
ロディマスは気を取られ、槍に込めた力を抜いてしまう。
どこからともなく、ありとあらゆるところから、みゃーんと声がした。
万能の創造神とされている猫神が鳴いたのだ。
「なんだ! 何の音だ!」
炎術師は小さく叫び、己の犯した失態に気がつく。炎槍の穂先は、狙いを狂わせていた。
それに救われた女将軍は、生き延びるチャンスを逃さなかった。
大きく後ろに飛んでから耳に入ってきた異音の正体にきづいて信じられないと声を漏らす。
世界のどこからもその音は発せられていた。
足元からも天空からも、自分の持つ槍からも、携える炎からも、敵対するジークフリーダや、路傍に落ちている小石からも聴こえてくるようだった。
「猫だと? これは――」
「終焉の猫の警鐘? まさか、あれは伝説上のもののはず……」
ジークフリーダは流れる風に同化したような優雅さで、己のまとう鎧も衣類の一片も焼かせることなくその場から身を引いて天を仰ぎ見た。
ロディマスはその隙を見逃さない。
新たに一撃を打ち込むが、やはりうまく避けられてしまう。
「ふふッ、残念」
「くそっ! あと少しだったものを」
深い色を持つ深紅の髪の少女は身を潜めると、炎術師の犯した致命的なミスを見逃さなかった。
彼女はやすやすと槍の圏内から逃げ延びてみせる。
炎術師は褒めるように敵に言った
「すばしっこいやつだ、ジークフリーダ」
「あなたと戦っている暇はありませんよ。猫神様がお鳴きになられたのです」
「猫神ー? あれは神話の……おい、冗談だよな、ジークフリーダ。まさか、これで……」
「ええ、終戦です。聖戦は終わりを告げました」
トドメを刺すなら今だ。穂先を返して炎術師は三撃目を狙いたかった。
しかし、敵は明らかに槍の圏外にいる。
ここは追いすがるのをやめるべきか? 炎術師は迷って空をぎろりとにらみつけた。伝説なんかに大事な勝負を中断ささてしまい、不機嫌なことこの上ない。
今ここにその神様とやらが降臨してきたら槍の穂先で真っ二つにしてやりたいと思ったところだ。
「まじかよ……」
そして、二度、猫が鳴いた。
みゃーんと気高くも鈴の音のように美しい声が、世界を同時に駆け巡った。
誰にも届くその声は、その音は争いを重ねていた連中に告げていた。
聖戦は終わった。参加者は国にもどれ、と。
「タイミングが悪いぜ、神様よー。ここまで来て手ぶらで帰れってのか?」
炎術師のぼやき声に応えるかのように、三度、猫が鳴いた。
猫は運命の分かれ道で鳴くとされていた。
多くの複雑な運命の岐路がたくさん集まり、世界の命運が変わる時に猫は鳴く。
三度目の声もまた、戦争の終わったことを意志の力で、兵士たちに伝えていた。
聖軍も魔王軍も、その鳴き声を聞いたら誰であっても戦いの終わりを理解した。
戦意を失い、故郷や家族や友人を思い出し、だれもが戦争の終結を望むかのように戦地から憎しみの炎は消え去っていく。
「最悪だ、最低だぜ……チクショウ!」
炎術師が術を解き、炎の槍を虚空にかき消したのをみて、魔王軍の幹部はどこかほっとした顔しつつ、それまで身の回りに湛えて凍てつく氷のような闘気を消し去ってしまう。
戦う気はない、そんな意思表示だった。
それから一度、魔王軍に戻った彼女は二人ほどの従者をつれて聖軍へと足を進めて来た。
ロディマスは、用心深く警戒しつつ、たった三人でこちらに向かって歩いてくる敵を見やる。
ジークフリーダは二人の部下に何やら運ばせてきた。
簡易的なテーブル。円筒形のものには氷とワインのボトルが冷えていて、ご丁寧にグラスも二個用意されいた。
「とまれ、なんだそりゃ?」
「もう戦いは終わったんだから、そんなに邪険にしなくてもいいじゃない……!」
止まれと彼が身振りで示すと、ジークフリーダはふんっと一つ鼻を鳴らして、マスクを取った。