第19話 胡蝶の夢
「ん、う……?」
太陽の光が届かぬ世界。意識も、五感も、何もかもが闇に包まれた真っ暗な世界。外界から隔絶されたそこは、私の内面世界だった。要するに、私はまた、夢の中にいた。
何かそうだという確証があるわけではないが、それ以外には説明のつかない空間だったし、経験からしてもここが夢の中であろうと推測するのにそう時間はかからなかった。母と思いがけぬ再開を果たした時然り、前世世界に似た場所で目覚めた時然り、何処かぼうっとしたような、存在すら曖昧なこの感覚は間違いなく今までのそれと同質のものだったからだ。
「……まっくら」
薄らと開けた瞼で周囲の空間を認識し、鈍い頭に起床の号令を掛けながら一言。
夢とわかったところでどうにか出来るものではない。一番に零れたのがそんな、半ば諦観を含んだような素朴な感想だったのは、まあ仕方ないと言えば仕方のないことだろう。いい加減慣れを覚え始めている、というのもあった。
……さて、どうしたものか。私の憶測どおりここが夢の中だったとして、私に出来るのは待つことだけだ。それはもし夢じゃなかった場合でも同じ。とりあえず身を起こそうとして、地面……なのかどうかもわからないそこに付いた手に触れた、親しみ深い感触のモノを拾い上げる。当然のように胸に抱いたそれは、形からしてきっと相棒だった。
こんな夢の中でも当然のように傍にあるのに苦笑が零れる。私は思った以上にこのベルさんから貰ったスノウベアーのぬいぐるみに依存しているらしい。改めて思い返してみれば確かに、学園の授業時などを除き肌身離さずほとんどいつも連れ歩いていた。少し情けなくも思うが、彼を抱きしめることによってこ不安と孤独がちょっぴり紛れたのもまた事実だった。
「ふあ、ぁ」
ぼやける目元を擦りながら欠伸を一つ、すとん、と脱力。相棒の頭に頬をくっつけてぽけーっと微睡む。
我ながら、まったく暢気なものである。しかし取り乱したところでどうもならないのだ。二つ目の欠伸小さく零しながら、再び瞼を瞑った。もう慣れたとはいえもちろん居心地がいいわけでもないので、出来れば早く目覚めて欲しい。
そして、私がこうして落ち着きを保てているのには他の理由もあった。ただの経験則にすぎないが、こういった明確に意識があるままに見る夢では、今まで必ず何かしらの変化が起こった。その内誰かの声でも聞こえてくるのではないか、などと漠然とした予感を信じながら、暫し相棒を抱いて。
「……むぐ」
が、起きない。何も起きない。……こうなってくると少し不安である。ずっとこんな孤独が続くのではないかという思いが、徐々に底冷えする恐怖を膨らませる。ああ、なんでもいいから起きるなら早く、何か……
――――いや。
待て、これは本当に夢だろうか。
「べる……」
ふと浮かんだそんな疑念が、思わずその名を呼ばせた。
眠る前の、状態だ。私は国王、ルナの父親に迫る矢をどうにかして止めようと必死で魔法を行使した。まさに、今の私に出せる全力を尽くしたといっていい。限界などは完全に通り越していただろう。
そして当然、その反動も大きかった。冷静に考えて、顔中から血を垂れ流していて大丈夫なんてことはあり得ない。何かしら影響が残ると考えるのが自然だ。
……そう、影響。
「しん――――」
だ? 、と。そんな、恐ろしくも否定しきれない考えに至りかけて、首を振る。首を振って、思考を散らす。
そんなことは、考えたくない。そうかもしれないけど、考えたくない。まだ、したいことがたくさんある。みんなと一緒にみたいものが、たくさんある。こんなところで一人、死んでしまうのは御免だった。
「はやく」
はやく、何か起こって。目覚めて。いつもどおり、おはようございますって微笑むベルさんの胸に甘えさせて。
着々と闇が私の心を蝕んだ。潰れそうなほど強く抱きしめた相棒がいなければ、とっくに狂乱していたかもしれない。まだ、まだ絶望を現実とするには早い。大丈夫、大丈夫。
「……よし」
何も起こらないなら、自分から動いてみよう。そうだ、母に会った時も立ち上がってみたり、じっと目を凝らしながら耳を澄ませてみたり、そうした行動のあとで声が聞こえたのだ。今回も、動いてみれば何か起こるかもしれない。
私は根拠のないそんな願望に近い考えを無理やり理論づけ、ひとまずそれに縋ることにした。
「だ、だれか……います、か……?」
答えはない。当然である。わかっていた結果に絶望が近寄るのを聞いて瞳が潤む。
ごしごしとそれを擦って、恐る恐る立ち上がった。シン、と耳障りな無音が余計に心を騒がせる。
「その、だれ、か」
やはり、答えはない。最後の望みが断たれたような気がして、ぽろぽろと涙があふれてくる。
拭っても拭っても零れ続ける感情はもう抑えが利かなくて。
「だれ、かぁ……ぁ、ぅ、ひぅっ、ぇぐっ」
いやだ、いやだ。そんなのいやだ。まだ、みんなといたい。べるといっしょにいたい。
しにたくない。しにたく、ない。
「いや、いや、だれか……べるっ、かあさ、まぁっ……!」
――――……リス。
「ぅ、ぁ……?」
――――アリス
「かあさ、ま……?」
空耳だろうか。嗚咽が止まらず、もはや決壊しようかというその時。不意に、母の声が聞こえた気がした。
……でも母は、記憶を遺していなくなったはず。いや、そもそもこれが私の夢だというのなら、しっかり姿と声を思い出した今の私なら、そこに母が出て来てもおかしくは……――――まただ。呼んでいる。母が、呼んでいる。
「かあさま」
そんな理論はどうでもよかった。
ふらふらと、導かれるように。足の震えを誤魔化してなんとか立ち上がった私は、その声の聞こえる方へ歩いた。奥へ、奥へ。真っ暗で、自分の姿すらも見えない空間の中を、ただ奥へ。
「ぇ……あ」
そうして微かに届く母の声だけを頼りに進んでいると、突然。
――――ぎゅるりと空間がねじ曲がった。
理解の範疇を越えたその現象を認識するのを脳が拒むように、頭痛とともに目を閉じた。ぐるぐると闇がかき混ぜられる。世界が流転する。
あまりの気持ち悪さに叫び出しそうになって刹那、その感覚が収まった。
「な、にが――――」
震えながら瞼を開いた。
時が止まったかのように、思考が真っ白になる。
「……ころ、にー」
どうしてか私は、見慣れた、それでいてもう二度と見たくなかった場所。鋼色の地獄――――“コロニー”内部、人力発電機群の真っ只中に、立っていた。
……なんだ、なにが。どういうことだ。
混乱はもはや混沌へと、一周回って冷静になった思考が“どうして”を凍結した。わけのわからない空間で起こったわけのわからないことを考えても何もわかるはずがない。それに、前にもここの夢を見たことはあった。そうだ、ならきっとこれも夢なんだ。大丈夫、死んだわけじゃない。これは夢、夢……真っ白になっている内に絶望を可能性でくくりつけ、感情の下に押し込んだ。
「かあさま」
そして私は、再び歩き始めた。立ち並ぶ発電機の列の間を、ずっと、ずっと。
先ほどまで確かに聞こえていた母の呼び声がもう聞こえないのに、気付かないフリをしながら。
そうしてふと、足が止まった。
……どれだけ耳を澄ませても、やはりもう声が聞こえることはなかった。
しかし、足を止めたのはそれに絶望したからではない。ただただ歩き続ける中、無数に並ぶ発電機の内に一つ、見覚えがある一台を見つけたからだ。正確には、発電機前面に設置されたパネル……歩数計を応用した、ペダルと連動して進むカウンターに表示されている、本日の発電量と記された数字に覚えがあった。
確か、これは。
「……わたし、の?」
流石に一の位まではっきり直感しているわけではないが、この約13000ワットという値は、妙に見覚えがあった。
ぼんやりと引き出した記憶が確かなら、これは私が倒れ、死亡する寸前の数値ではなかったか。同僚の……そう、稲葉さんにもうすぐ休憩だから、と返事をしながら確認した時の値が、このくらいだった気がしてならないのだ。
むろん同じくらいの発電量の他人のものでは、とも考えて見たが、数値に感じた既視感が気のせいだったとしても、まったく意味がないということはない。
これ以外の発電機のカウントは、ゼロのまま動いていなかったからだ。
「どう、いう」
ことだろう。そう、呟こうとして。不意に足音がした。ビクリと肩を跳ねさせ、慌ててもう一つ奥の発電機の影に身を隠す。やがて姿を現したその足音の主は――――
「――――せん、せい……!?」
あっ、と口元を抑えながら。しかし彼はそんなことは気にも留めずに、徐にその、恐らく前世の私が死ぬ直前に使っていたはずの発電機に座る。そしてキコキコ、と。そのまま静かにペダルを漕ぎ始めた。
その顔、体。引っ張り出した記憶と被せるようにして確かめる。……やはり、先生だ。間違いない。私に本当の世界を、酷く歪んだ真実の社会を教えてくれた、“恩師”だ。しかし、どうして今更彼が、こんな。
「……ああ。変わらない。変わらないな、どんな世界でも」
彼は、唐突にそう言った。
誰に向けるでもなく、ペダルを漕ぎながら、ただ独り言を呟くように。
戸惑いながらも私は、それを聞くことにした。すると彼はそれを待っていたかのように続きを話し始めた。
「どんな世界でも、結局人は変わらない。変われないんだ」
そして彼は、自分の人生を順に語って行った。
生後間もなく施設に移され、両親の顔など知りもしない。洗脳に近いような奴隷教育を受け、そのままコロニーへ。そして何の変わり映えもしないこの鋼の牢獄でペダルを漕ぎ続け……。そして世界を呪うその少し前、最後に話した男の名は“稲葉”といった。いつも自分を気遣ってくれる、同僚。鬱陶しいと思う時もあれど、その実それがずっと心の励みだった。まだ世界にはこんな優しい人もいる。それだけが希望だった。
「それ、は……」
待って、待ってください。先生。それは、あなたではなく、私の――――
隠れるのも忘れて、思わず口を挟みそうになって。けれど先生は、私など目に入っていないかのように話を続けた。
「ああ、そうだ。それから私は、奇跡的に一命を取り留めた。勿論、奴らがまともに処置などしてくれるわけもない。稲葉さんが、助けてくれたんだ。いつかきっと自由になるためにと、少ない食事を更に絞って貯めていたなけなしの貯金で、薬を買ってくれた。それから私が回復するまでの間、自らのノルマも放り出して、ずっと私の発電機を漕いでいてくれた」
……知らない。そんな話は、知らない。
そんな、そんな……私は、私が、有栖なはずなのに、まさにここで死を迎えたはずなのに。
その後助かったなんて、同僚が命を張って助けてくれたことなんて、知らない。
「……間もなく彼は死んだ。当たり前だ、私の代わりに働いたせいで、彼自身の収入が途絶えた。貯金もない。待っているのは餓死だ。どうして彼は、あそこまでしてくれたのだろう。……そしてだからこそ、許せない。そうして託されてきた想いを、光を。終わらせてしまった、自分が」
自分のために命を使った、誰か。……どうして自分が、働くこともできない生後間もなかった頃の自分が、施設なんて場所に移されたのか。どうして今まで生きてこられたのか。
愛なんてと嘲笑して、悟ったフリをしていた自分が、どれほどの愛を受けていたのか。
――――両親が、どんな想いでなけなしの財産をすべて使って自分を施設に預けたのか。
今更になってようやく、そんなことに気付いた。だというのに。また誰かに命を繋いでもらったというのに。結局、その後すぐに死んでしまった。
同僚が自らの命で買った、たった一つの薬は、死をほんの数日遠ざけたにすぎなかったのだ。
……そう言って先生は、大粒の涙を零した。
それを私はただ聞いていた。どうして先生が、私の知らない“有栖”を知っているのか。そんな戸惑いを抱きながらも、子どものように泣きじゃくるその声を、ただ黙って聞いていた。
やがて深呼吸をして、目元を拭った先生が、私を見た。
はっきりと、私の目を見た。
「――――なあ。アリス」
ぐるり。意識が収束する。正直、もう何が何やらわからない。
でも、きっと先生が、その答えをくれる――――
アリス、と。私を呼ぶ声が何処か母に似ていたからかもしれない。何故だかそんな確信が私の中に根付いていた。
そして先生は、一度顔を俯けて。
それからもう一度、私の瞳を見据えて。
「だからお前は、生きろ。お前の母さんが、みんなが繋げてきた命を、こんなところで終わらせるな」
そう、言って。
せん、せい、と。何かから逃避するように零れた弱々しいそれを、先生は……“彼”は、遮った。
「……先生じゃない。お前はもう、いや。本当は、最初からわかっていたはずだ」
ぐるり。
世界が回った。
ぐるぐる、ぐるり。
そして、世界が。
「“有栖”なんて、最初からいない」
――――“私”が、収束する。
「な、にを……」
「不思議に思わなかったか。男だったはずの自分が、その童女の体に何の抵抗もなく順応できたことを。変におもわなかったか。ガラスの中で自分を俯瞰しているなんて、そんな感覚を抱いたことを」
仮面が剥がれていく。
生まれ変わり、体の差異に多少戸惑いながらもそれを自然だと受け入れていた自分。
ベルさんの大きな胸に、小さな女性的嫉妬を抱いていた自分。
市場の事件でトラウマを背負い、その後初めて、魔法検査のために外出する際に気付いた妙な感覚。
「悪意や絶望で染まった散々な世界で生涯を過ごしたはずだというのに、どうして今更初対面の少女に嫌がらせをされたくらいであれほど悩んだのか。どうして、姿も知らないはずの母を前にして、ごめんなさいなんて言葉が出てきたのか」
あの世界でのこと比べればほんの些細なことのはずなのに、酷く傷ついていた自分。
顔も声も覚えていない母に感情をあふれさせ、“何か”を謝っていた自分。
「革命を志し、初めて聖女の名を背負うことを決めたはずのお前がどうして、『こんどこそせいじょさまになる』なんて不自然なことを思ったのか」
体も女性的な嫉妬も、順応したのではない。
それが私だったからだ。
透明な壁の中で俯瞰しているように感じたのは、心の成長が止まっていたからではない。
それが私だったからだ。
「……有栖なんて、最初からいない。生まれ変わっても、いない」
――――『覚えておきなさい。本当はそのどちらも、貴女自身よ』
「お前の母は、お前の出産によって命を落とした。お前はそれを、このまま自分が産まれれば母が命を落とすということを、本能的に理解していた。……だから、巻き戻そうとした。その時間の魔法を使って、自分の出産をなかったことにしようとした」
母に謝ったのは、救えなかったからだ。
母を救えなかった私を、両親のしあわせを引き裂いた私を、許せなかったからだ。
「しかし当然そんなことは失敗した。同じく時間に干渉できる魔法を持ったお前の母自身が、それを拒んだからだ。……結果、行き場を失ったお前の魔法は暴発した。周囲を巻き込むことを恐れたお前はそれを自分の中に抑え込もうとした」
そして、私は逃避した。
そんな耐えきれない負の感情をどうにかなくそうと、心の防衛が行われた。
「そうして起こったのが、記憶の“逆流”だ。お前は自分の内的な……いわば魂とでもいうべきそれの時間を巻き戻した。そしてそれから長い間、お前はその記憶の追体験に囚われることになった」
だから、忘却していたのだ。
“わたし”を記憶で上塗りして、忘れようとした。
「その追体験の中でお前が生み出した、記憶の傍観者……幼く脆いお前の心を守るための、半人格的外殻――――それが、“有栖”だ。……そしてお前は逆行した魂に付随したその世界の情報を、先生という一人の人間として再構成し、認識した。今こうして話している俺という人格は、その記憶本来の持ち主の残滓であり、そして“先生”でもある。ある意味では、俺こそが有栖だと言えるかもしれない」
そしてじっくりと自分に刷り込みをした私は、ようやくこの世界に……“現実”の世界に、戻って来た。
自分はアリスではなく、生まれ変わった有栖なんだと都合のいい“勘違い”をして。
「しかしそうして有栖という着ぐるみを作り出したお前は、けれど有栖になりきれなかった。……ずっと、本当のお前のことを見てくれている人がいたからだ」
――――記憶の中に囚われた……逃避した私を、ずっと見守っていてくれた人がいた。
勘違いが完成するまでの二年間。私が自我を得たと、転生したのだと嘘をつくまでの二年間。
暗く濁った瞳で虚空を見つめ、辛い現実から逃げる私を、抱き締めていてくれた人がいた。
「……なあ。俺はずっとお前のことを見てきた。お前が有栖という着ぐるみを捨てて、内側に引きこもるのをやめようと、ほんの少しずつ外に出ようとする姿を見てきた」
だから、演じきれなかった。勘違いしきれなかった。
ただ一人、ずっとわたしを見ていてくれたべるをかなしませることなんて、できるわけなかった。
「もう、いいだろ」
こくり。わたしは、ただ一つ。視界を遮る涙を拭いながら、恐怖と痛みに喘ぐ胸に相棒を抱きしめながら。
それでも、しっかりと。誤魔化すことのない、すべてのわたしのこころを曝け出して、頷いた。
「うん……――――うんっ……!」
もう、終わりだ。
いい加減私は、この部屋から踏み出さねばならない。
……そして。
「もう一つの方は、言わないでもわかるな」
「……うん」
無意識の内に避けていた母の記憶の一部分。聖女というのは、単なる御伽噺ではない。
絵本を、きんいろのねこを読んでもらった時にベルが教えてくれた、魔法のはじまり。
その時初めて魔法というものを発現させた、彼女こそ。白い肌と髪を持って産まれてきた、彼女こそ。
……そんな、遥か昔から連なる血。それを継ぐものたち。
それこそが、御伽噺に語られる“聖女”という存在だった。
流れる時間とともに、彼女らは確かにそこで生きていたのだ。
今の、私のように。
「……ほら、そろそろ起きる時間だ。お前を待つ人を、あんまり悲しませてやるな」
こんな私を、愛してくれる人たち。
こんな私が、愛せた人たち。
みんなが。
最愛の人が、待っている。
『わたしは、だれ? アリス? 有栖? それとも聖女?』
……今なら、答えられる。
私は聖女じゃない。有栖でもない。
わたしは――――アリス・フォン・フェアミール。
聖女の血を引く、もう少しで七歳になる幼い貴族の少女だ。
「さようなら、せんせい」
「ああ。……さようなら、“有栖”」
――――夜明けの鐘が、朝を告げた。
次回更新は本日18時です。




