第14話 リュンヌ
「なんだ、火が?」
「くっ……」
ミラさんが慌てて焚き火を踏み消して私たちの存在の隠匿を計ったが、時すでに遅く。そう遠くない位置からそんな声が聞こえた。闇の中では僅かな光でさえ強烈な存在感を放つ。急いで焚き火を崩そうと、枝の内側の残り火まではそうそう簡単に消せるものではなく、この森の中で見つけるにはそれだけで十分だった。
すぐに馬に乗って逃げればどうにか間に合うかもしれないが、存在を察せられてから動くのは危険だ。今から荷物など放り出し、馬に乗って駆けだしたとしてもきっとその間に捕捉される。ましてや木に括り付けた手綱を解いている時間などない。
おそらく全員が庶民であるとはいえ、それが農民ばかりだとは限らない。というか、十中八九狩人が交じっているはずだ。でなければこんな風に夜間の森を抜けようなどとは考えない。戦闘訓練を受けた騎士ですら、夜間の森は危険なのだから。こういった環境に慣れている狩人の指揮がなければあんな風に統制を保ったままここまで抜けてこれないだろう。
そして夜闇の中での活動に慣れている彼らに弓で狙われようものなら、走り出したばかりの馬など格好の的である。幾ら軍馬とはいえ、人を乗せた状態でいきなりトップスピードを出せるわけではないのだから。
「しまったな。後方の警戒を忘れるなど……何が英雄だ」
「書類とばかり格闘していたツケが回って来たか」
甚だ悔恨、と自分を責める父と祖父。影に隠れてはっきりとは見えないが、ミラさんもきっと同じような表情をしていることだろう。
そうだ、私たちはいわば、敵勢力圏へ潜入している状態なのである。マリアーナがそうだったからといって、他の地域でも同じように歓迎してくれるわけはない。
……普段なら、もっと早くに誰かが気付いたのかもしれない。しかし私たちはみんな、消耗していた。体力もそうだが、何よりも気力を、だ。私たちが間に合わなければ血みどろの争いが、そして最悪の場合王国そのものが滅亡してしまうというプレッシャー。一刻も早く王都へ、この先へ前進せねばならない。
それが無意識の内に、後方への警戒を甘くしてしまっていたのだ。……ぐったりと眠る私を、出来るだけ休ませてやりたいというような気遣いも一因としてあるのかもしれない。
「騎士団の斥候か何かか……?」
「さあな。おい、確認しに行くぞ」
「お、おぉ……!」
危機を察知してか、馬たちも落ち着きなく足踏みをしている。私たちは隠れるのに丁度いいと考えてここにテントを張ったが、それは何も私たちだけに当てはまることではない。夜の森というのは、人間はともかくアヤメや馬たちのような野生の勘すらも鈍らせるのだ。目視が酷く難しいのは言うまでもなく、そんな状況に置いて頼りにする聴覚などの他の五感までもが、森の中で蠢く動物たちの足音や息遣い、風に揺れる草木の音に誤魔化されてしまう。例えば彼らのような、今からあの街の貴族に夜襲を掛けようと考えている者たちにとって、そのギリギリまで姿を隠せるここ以上の通り道はなかった。
そんなことは、少し考えればわかったはずだ。確かに何もこんなタイミングで、というような思いもあるが、まさかと思うようなことこそ第一に警戒すべきなのである。疲れていたからというのは今となっては言い訳にもならない。どうにかして、この危機を脱出しなければ。
「う、ぅ……」
……と、頭ではそう考えるものの、体がいうことを聞かない。それは明らかに疲労だけのせいではなかった。時に人の足を鈍らせ、更なる危機を呼び込む。ガチガチと冷たい音頭で理性の邪魔をするそれは、本来いち早く危機を察知し、そこから脱するために鳴り響く警鐘。
――――“恐怖”だ。
「アリス様、落ち着いてください、アリス様っ……」
ベルさんがそう囁きながらで背中を擦ってくれたおかげで幾分かは和らいだ気がするが、それでも脳裏にこびり付いた嫌な想像は離れない。
……わかってる。はやく、動かなきゃ。少なくともこうしてテントの中でただ震えているべきではない。
「べる、どうしたらいいっ……?」
「ひとまず、この中にいては危険です、ハッティリア様たちの後ろに隠れましょう!」
「わかった……!」
震える足を叩いて起こし、相棒を片手に立ち上がる。ベルさんが空いた手を握って先導する。それに従ってテントの外へ。そのまま父たちの後ろ、白馬の繋がれている木の陰に素早く身を隠す。
……がさ、がさり。落ち葉を踏みしめる音。父たちではない。しゃがんで幹に背を預け、チラリと音の方を覗くと木々の隙間に小さな炎が揺らめいた。松明だ。様子を伺いに来た二人、ないしはそれ以上の――――
「――――な、なんだあんたらっ!? こんなとこで何を……」
「馬鹿野郎、服装を見ろ! どこの誰かは知らないが貴族だ!」
「待て! ワシらは君たちと争う気など……!」
直後、二人の男が姿を見せた。彼我の距離はたった十数歩。松明に照らされた右手のそれは、先が何股にも分かれている木の棒。おそらく普段は土を耕すために使われている農具だ。
祖父が対話を試みるが、ただでさえ蜂起で高揚しているところに不意に私たちと遭遇したのだ。明らかに動揺している二人にそんな言葉は届かない。松明を持った片割れが、やって来た方向を振り返りながら叫んだ。
「貴族だ! 貴族がいるぞ!」
その声が森に反響していったが否や、闇の向こうで騒めきが起こる。一つ野太い声がそれを収めると、すぐに複数の足音が聞こえた。
ダメだ、ダメだ……! いくら父たちといえど、流石に数が違いすぎる。そして向こうは元より夜襲をかけるつもりでこの道を進んでいたところ、戦闘態勢は万全だろう。方やこっちは休息中にほとんど奇襲をくらったような状態、剣こそ抜いているもののまだ混乱も残っているのだ。更に向こうは先ほどの呼びかけで私たちの位置を大体掴んだに違いない。木々に隠れながら多方向から仕掛けられればひたすら後手に回らざるを得ない。
「ぐっ……せめて、姫だけでも……!」
ミラさんは遠回しに私とベルさんに逃げろと言いながら、しかしこっちに視線を送りはしない。何処に隠れているのかバレてしまうからだ。でも、と飛び出しかけた言葉を遮るように父が叫んだ。
「避けろ!」
「なっ――――、……っ!?」
一瞬、対峙する男の松明の少し横を大人の拳ほどの影が通った。それに反応出来たのはミラさんだからだ。もしも標的が私だったなら、きっとそのまま直撃していただろう。
飛び退いて避けるには間に合わないと踏んだのか、ミラさんは上体を左に倒しながら右手の剣を飛来するそれのコース上に斜めに添えた。
ギン、と鈍い音がして、剣の腹を滑ったそれは私がいるのとは反対の木の辺りに落ちていった。
……あれは石だ。ちょっと探せばそこらに落ちているような石も、大人の男が思いっきり投げれば十分な武器になる。当たり所が悪ければ骨折はおろか、致命の一撃にもなり得る。今はただ転がって鎮座するそれは明確な害意の顕示に他ならず、ゾクリと背筋が震えた。
「ひっ捕えろ、逃がすなー!」
「待て、頼むっ……!」
咆哮に視線を戻す。既に戦いは始まってしまった。偵察に来た二人の内松明を持っていない方の男が、その農具を槍のように突き出して走ってくる。ここからでも恐怖を感じるそれに父はあくまで対話を求めながら、左足を後ろに下げて半身に構えると一直線に突き出されたそれの分かれた切っ先、股の一つに剣身を滑り込ませ、そのまま思い切り斜め左に撥ね上げた。力の向きを変えられ、その勢いを殺しきれずにつんのめって農具を落とした男には追撃をかけず、カランと転がったそれを後方、私たちの方へ蹴りやった。
「どけ、ハッティリアッ!」
「義父上!?」
その背中を押し退けるようにして割り込んだ祖父が、左方の木々の隙間から飛び掛かった男の腹に肩をぶち当てた。祖父は男の呻き声とともにその手から零れ落ちた草刈り鎌を空中で拾い上げると、それを前方に投げつけた。ガギン、と衝突音が響き、何処からか飛んできた矢が地面に突き刺さった。やはり、狩人がいる。
「お、おりゃああァッ!」
「っと、このっ……!」
その数歩隣で、雄たけびをあげて襲い来る二人をミラさんがいなしていた。バツの字に降る二つの木杭をバックステップで避けると急停止、再度踏み込んで交差した杭を踏みつけ半回転しながら跳躍、両足を勢いよく前後に開いてその二人を蹴り飛ばした。
「よくもッ!」
着地から間を置かずに前方から振り下ろされた鍬を剣で受け止めると、左手で足元の杭を切っ先が自分側に向くようにして拾い上げ、体を前に向ける勢いを使って鍬を持つ手を強く打った。跳ね返った杭をその勢いのままに一歩後ろの地面に突き刺し、それを引っ張る力で無理やり後方へ側転。落ちてくる鍬を避けながら、痺れた手を抱える男の顎にくるぶしをぶつけてすっころばせた。
一度体勢を整えようと動きを止めたミラさんのもとへ、ヒュン、と風切り音が迫る。あぶない――――
「――――ガウウッ!」
横に転がって避けようとしたミラさんの前に、颯爽とアヤメが割り込んだ。猛進する矢の横から飛び掛かり、大きく開けた口でギャリリと咥え止めるとその勢いに少し頭を持っていかれながらも空中で体勢を整え着地、ほとんど折れかけの矢を首を振って父たちの前方へ投げ捨てた。走りながら農具を振り上げた最中鼻先に突然飛んできた矢に驚いた男が体勢を崩し、そのまま盛大に転んだ。
「……ありがとう」
「ワウッ」
ミラさんとアヤメがそう讃え合ったところで、一旦剣戟は落ち着きを見せた。近接戦闘能力のあまりの差にどう攻めたものか戸惑っているのだろう。隙を突いて石や矢を射かけても、他の誰かがすぐさまカバーに入る。その連携は、素人の私から見ても見事に思えた。加えて、一人一人が複数人を同時に相手してもあくまで無力化に収められるほどの余裕がある。いや、余裕はないのかもしれないが、少なくともそれを気にしていられないほど我武者羅な様子ではない。アヤメは元より、父たち三人が王国の中でもかなり抜きんでた実力を備えているのを、改めて理解した。
特に、父は英雄と呼ばれているのだし、祖父は諜報部長だしでどちらかと言えば納得といった様だが、ミラさんがここまでだとは思っていなかった。
むろん、ラブリッドさんがカルミアさんの友人だからというだけで私の親衛騎士に選ぶわけはなく、実力も伴っているのだろうとは思っていたが、それにしても……あの変則的というか、時間を置きざりにするような速度で繰り出される、流れるような技の数々は我流なのだろうか。
確か、ミラさんは自分の魔法を特異な身体強化だと言っていた。特異、とはなんだろうと思っていたが、これがその答え。おそらくミラさんの身体強化の魔法は、単純に力を高めたり、体を堅くするようなメジャーなものとは違って、神経の伝達……体の反応速度を速めるような強化を施す、“加速”の魔法なのだろう。
それは確かに学園で習った限り、一部血統のみに発現するわけではないから継承魔法とまではいかないものの極めて珍しいものであり、なるほど、ならばミラさんが特異と表現したのもわかった。
「頼む、どうか話を聞いてくれ!」
「ワシらも、君たちも、今こんなところで血を流したくはないはずじゃ……!」
父と祖父が再び彼らに呼びかける。間が空いて頭が冷えたことで今度はきちんと届いたのか、投石で以て返答とされるようなことはなかった。しかし、かといって言葉が返ってくるわけでもない。探っているのだろうか。
向こうも、おかしいとは思っているはずだ。さすがに怪我を負わせてないなどとまでは言えないが、それでも口が切れたとか、転けて擦りむいたとか、その程度の流血しか起こっていない。ここまで激しくやりあっているのに、だ。隙を見せた相手に追撃をかけなかったり、此方が明らかに加減しているのはわかっただろう。
そしてそろそろ、私の存在に気付かれるかもしれない。あんな風に多方向からの攻撃をいなせるのであれば、それによって動揺した彼らに攻勢を仕掛けない手はないからだ。そうして突っ込んで少し攪乱してやれば、逃げるのも容易だ。そんな状態で繰り出される多少の追撃程度はその実力で振り切れるはず。
つまり、そう出来ない理由がある。例えばそんな戦闘能力を持たない、絶対に守りたい誰かがいて。万が一にも追撃の矢が突き刺さるようなことがあってはならないがゆえに、その誰かを逃がすために時間を稼いでいるのではないか。
……そんな風に、考えるのではないだろうか。
本当はそれ以外に、庶民を傷つけるわけにはいかないという根本的な理由があるのだが、実際、対話による解決を探りつつも私が逃げるまでの時間稼ぎをしているのはその通りらしく、私の隣ではベルさんが姿を見られぬように少しずつ、少しずつ幹に巻き付けられた白馬の手綱を解いているところだった。
「アリス様、もう少しですからね、もう少し……」
わかってる。革命のことを考えても、みんなの想いのことを考えても、私はこのままベルさんと逃げて、たとえ二人だけになっても王都に辿り着くべきだ。私という重石さえなくなってしまえば、父たちも上手くこの場から逃げることが出来るかもしれない。結局、そうするのが最善なのだろう。
……でも。
でも、私にそんなことが、できるわけなかった。
「いやだ……」
当たり前だ。革命を成し遂げるために、父を、祖父を、ミラさんを、アヤメを置き去りにして逃げる? その方が父たちも逃げやすい? だとしても、全員が無事で逃げ切れる確率が一体どれほどあるというのだろう。彼らがどれほどの数なのかもわからない。今この時にも、続々と後続が合流していっているはずだ。その数に任せ、多方向から遠距離と近距離の両方で襲い続けられれば、いくら父たちでも限界がある。もしもこんな奇襲をかけられたに近いような状況ではなく、体調も万全だったならあるいは、かもしれないが、私たちは既にかなりの疲労を背負っている状態なのだ。私にはとても、誰も怪我をせず、捕らわれることもなく……誰も、誰も死なずにすむとは、思えない。
……そんなのは、本末転倒だった。“しあわせなせかい”を望んで起こした行動の中で、“しあわせ”を失ってどうするのだ。私は聖女の名を背負うと決めたが、けれど御伽噺の聖女ではない。今、この世界を現実として生きている。
そんなことになるくらいなら、たとえ命を落とすことになろうと、ここに。最後までみんなのそばにいたかった。
「……るな。すてらさん、らぶりっどさん。くろりなさん、ししょー……」
しかし、しかしだ。それは同時に、みんなの想いを裏切る行為でもあった。今ここにいる父たちだけではない。王国で奮闘しているであろうルナたちや、私たちを笑顔で送り出してくれたカルミアさん、従者の皆、それにマリアーナの人々の想いをも、だ。いや、そもそもさっさと私が逃げた方が皆の生存確率は高くなるのだ。
……でも、でも、いやだ。そんなの、いやだ。こんな光景を最後に、二度と戻らない笑顔があるかもしれないなんて、そんなのはいやだ……。
「ぐ、ぅぐ、っ、う……」
理性と理性が、論理と感情が鬩ぎ合う。どうすれば、どうすればいい。わたしは、どうすれば。
……むねが、くるしい。いたい。
「っ、ひゅー、ひゅっ……」
「アリス様……? アリス様ッ!」
隠れていることも忘れ、ベルさんが叫ぶ。一斉に視線が向いたのがわかった。
ああ、ダメ、わたしの、せいで、わたしの……だめ、だめ、もう――――
「――――ルルルオォーーンッ‼」
「……あや、め?」
何もかも諦めかけたその瞬間。月夜の空に、金色の咆哮が轟いた。
ビリビリと空気を震わせるその豪咆が、滲み出る闇を噛み砕いた。
……狼が空に吠えるのは、悲しみや愛情のためだ。それは、金狼も変わらない。
そう、そうして空に向かって声を轟かせ、願うのだ。
きっと同じこの空を見上げている“仲間”へ。どうか、また、と――――
「――――あそこだ! 急げーッ!」
「我らが聖女様を、お救いしろ!」
どど、どどり。幾重にも重なった蹄の音が、地鳴りのように唸った。
何処か聞き覚えのあるその声たちが、私の後方から迫る。崩れてへたり込む体をベルさんに支えてもらいながら、ふわり。振り返った視界の端、自らの銀色の髪が月光に照らされて白く煌めいた。
「あれ、は……」
呆然とベルさんが呟いた。聞き覚えが、あるはずだ。
どうして。どうして、あの娘が。……あなたたちが、ここに。
「――――御機嫌よう、フェアミールさん。たとえ神の定めた運命だろうとこの私が、私たちが。……貴女の光を、絶やさせはしません」
「どう、して……」
「どうして、ですか。貴女が私を、“友だち”だと言ってくださったからです」
和解の直後、その名を知ることもなく別れた少女。
あの食堂で、あの図書室で、そしてあのデモの日に。
繋ぎ損ねた手が、結局名も聞けなかった“二人目の友だち”が、編み込まれたふわふわの桜色を肩口に揺らして。
白百合と天秤の紋章を掲げ、そこにいた。
「コクリコ、リリウム、アイリス。私たちは、あの日……泥に塗れながら、それでも庶民の方々に頭を下げる“高貴な二人”のお二人の背中を見て真の貴族の意味を知り、お二人の支援のため学園が閉鎖したその日に立ち上がった組織。……“聖女親衛隊”です」
「りゅん、ぬ……?」
まさにアヤメが、金狼が“仲間”を呼んだとでも、いうのだろうか。
馬上から私にそう説明したのは、あの学園祭の演劇の後、席に戻る私とルナに凄かったと称賛をくれたクラスメイトの少女だった。それを引き継いで、私の“友だち”が誇らしげな桜を再び揺らして。
「改めて、名乗らせてくださいませ。――――私は、“レイラ・フォン・エスプリー”。お迎えに上がりました、聖女様?」
まるで演劇をするように言った彼女……レイラが、満面の笑みで差し出した手は。
今度こそ、繋がれたのだった。
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