第13話 月に叢雲、花に風
「……そろそろ、日が暮れて来たな」
父がそう言って馬の歩みを緩めたのは、小さな森を抜けたところだった。私たちは途中で幾度か短い休息を挟みつつも、白百合騎士団の駐屯地を発ってからもう半日以上も王都への道を駆けていた。
「この辺りで野営の準備を始めた方がいいかもしれんのお」
ふと祖父の言葉に空を見上げれば、既に薄暗くなり始めている。森の中では木々が光を遮るせいでイマイチ時間が掴めなかったが、いよいよ太陽は地平線の向こうへと隠れてしまうようだ。
……準備をする時間を考えれば、確かに祖父の言う通り一旦この辺りで止まっておくべきかもしれない。夜というのはそろそろか、と思ったころにはあっというまに来てしまうものなのだ。
「ええ。ちょうど、森と街の境目だ。身を隠しつつ一夜を明かすには打ってつけでしょう」
なるほど。父が言いながら視線を送った方に目を凝らせば、紅掛空の中にぼんやりと二つの灯りが揺らいでいた。きっと街の門にぶら下がったランプの光だろう。
学園への往復に使った人通りの多い開けた道ではなく、おそらく最短距離の経路を往っているため、私には今現在王都までどのくらいの位置にいるのかはわからない。
しかしマリアーナなどの特殊な地域を除き、王国の市街というのは基本的に王都を中心にそこから円状に広がるように発展している。外周に行けば行くほど人口は疎らになり、街の規模も小さくなっていくわけだが、ランプのぶら下がった門があるということからあそこはそれなりに大きな街のはずだ。つまり、ここは王都からそれほど離れた場所ではないということである。
この分なら駐屯地で聞いた通り、明日には王都へ着くかもしれない。夜が近いとはいえまだ進めなくもない明るさの中で父と祖父が野宿を提案したのも、そういった目算があるからなのだろう。
「ハッ、ハッ……」
「あやめ、つかれた?」
「わうぅ……」
聞こえた荒い吐息に隣を見下ろせば、舌を突き出して項垂れるアヤメの姿があった。どうやら彼女も限界のようだ。
そこらの野生馬なら置いてけぼりに出来るほどの足と体力があるとはいえ、さすがにこの距離をこの軍馬たちと同じ速度で駆け続けるのは堪えたらしい。申し訳なさそうに鳴くアヤメに、私の方が申し訳なくなる。
もちろん私も今すぐ横になって眠りたいくらいには疲れたが、当然のこと馬に乗っているのと実際に自分の足で走るのでは消耗の仕方がまるで違う。むしろよくここまで止まらずに着いて来てくれたといったところだろう。
「……アリスも限界だろう」
「ぅ……、うん」
少し見栄を張ろうとしたが、零れたのは情けない肯定だった。幾ら馬具があっても、ベルさんにしがみ付いているだけだとしても、こんな長時間それを維持しながら地を蹴る振動を受け続けるのは辛かった。一度止まったことで気が抜けたのか、正直今からまた走ると言われても耐えられそうにない。何処かで落馬するのがオチである。いや、まったくもってシャレにならないけど。
「よく頑張った、同年代でこんなに馬に乗ってられる子は早々いないと思うぞ」
「……いや、本当に。ワシも驚いたわ」
「そ、そう? えへへ……」
思いも寄らず褒められたのに、自然と笑みが溢れる。まったくです、と乱れた髪を撫で梳いてくれるベルさんの手に、疲れが浄化されていく気がした。でも、まだだ。……達成感に浸るには、まだまだ早い。
「いつ、おうとにつく?」
「ああ。この調子なら、明日の早朝に出発すれば夕刻には辿り着けるだろう。大丈夫か?」
「うん。やすんだら、たぶん」
「そうか。……無理はするな、と言えないのが辛いところだな」
「だいじょうぶ」
微妙な沈黙が流れる。しかし、出発が早朝なら十分に時間がある。このまままた走り出すのならともかく、一度まとまった休息を挟めるのであれば、これ以上に酷い――――それこそぶっ倒れてそのまま死んでしまうような環境を経験した身からすれば、気力的にはまだ大丈夫そうだった。……とはいえ、余裕があるわけでもないけど。
「よし、さっさとテントを張ってしまおう」
「良さそうな枝を取ってきますね!」
「ああ、頼んだ。ミランダ」
訓練を積んでいるだけあって、ミラさんはまだ体力に余裕があるらしかった。普段とそう変わらぬ軽快な動きで馬を降りると背部の荷物から干し草と桶を外し、そこに水筒の水を注いで馬に与えてから周囲を物色し始めた。
それを横目に父も馬を降り、同じようにミラさんの乗っていた馬の荷物から餌と水を降ろして黒馬に与えると駐屯地で祖父から受け取った荷物をその場に広げ、そこから大きな獣皮を何枚か拾い上げた。
……テント、だったか。たぶん、地面に立てた枝にあれを取り付けて仮の宿とするのだろう。ずっと前に読んだ王国の始まりの絵本の中に、そんな絵があった。きっと私が知らないだけで、前世世界でも同じようなものは存在したのだろう。
「アリス様」
「うん」
祖父が片足を持ち上げたのと同時にベルさんも腰を上げ、私を支えながら地面に降りた。ベルさんの体を伝うようにして、馬具に括り付けていた相棒を忘れぬように抱き上げ、私もするりと馬を降りる。ベルさんがミラさんの馬と同じく餌などの荷物の載った祖父の馬の方へ歩いていったのを背景に、ようやく私たちという重りから解放されたからか、ふるりと白馬は体を揺らした。ぽんぽん、と背中……は、届かないから、お腹の辺りを撫でて労わる。ありがとう。
ふん、と私を見て鼻を鳴らした彼、もしくは彼女にごめんね、と苦笑していると、ぐい、とアヤメが鼻先を頬に押し付けて来た。……ああ、ごめん。ごめん。
「わう」
「うん。おつかれさま、あやめ。いっしょにやすもうね」
「くーんっ」
甘えた声を出すアヤメとじゃれあいながら、ベルさんが餌と水桶を持って戻って来たのを見て、あっ、と。
途中休憩した時は近くに水場があったから使わなかったけど、あの水桶、よく見たら馬たちの分しかない。アヤメの分……どうしよう。普通に考えれば同じ桶を使えばいいだけの話なのだが、馬も金狼もプライドの高い動物である。同じ桶からの水を飲むだだろうか。
ベルさんも桶に水を注いだところで気が付いて、どちらに出したものか迷っていると案の定、アヤメと白馬が桶を挟んで睨み合い始めた。いけない、喧嘩を始めるのではないか。慌ててアヤメを引き離そうとすると、
「……あえ?」
「あら……」
違った、睨んでいるのではない。そこには種族の壁を越えた、ある種の友情があった。
白馬がぐい、と水桶を鼻で押してアヤメに差し出す。するとアヤメも前足で以て白馬の方へと差し出し返すのだ。
……時間にしてみれば一日にも満たないとはいえ、ここまでずっと一緒に走って来たことで何か仲間意識のようなものが芽生えたのかもしれない。あるいは、互いを認め合ったのだろうか。
「わう」
「……ブルルッ」
ふふ、と。ベルさんと微笑みながら邪魔をせぬように見守っていると、埒が明かないと思ったのか、ついに二匹一緒に桶の水を舐め始めた。
こうしてみると、やっぱりアヤメたちも私たちと変わらない。ただそこに生きる、ひとつの命なのだ。
「……ねーじゅ、むーる」
彼らの宗教観が、少しわかった気がした。これが自然の中で共に生き、あるがままを愛すということなら、なるほど。それはとても尊いことだ。
そして誰もが伝承だと忘れた頃にふらりとやって来てはそのすべてを静かに眠らせ、新たな生態系を創り出す特異点――――“冬”。あるいは、氷河期だろうか。それらを神聖なものと捉え、超常的な存在の意志なのだと考えるようになるのは別段不思議なことでもないのだろう。
そう考えれば、聖ネージュムール教は宗教というよりも何かみんなで死生観を共有するような、人生哲学的なものに近いのかもしれない。
「どうされましたか、アリス様」
「ううん、なんでもないっ」
アヤメたちから目を離せば、ミラさんと父、祖父がテントの設置を始めていた。斜めに交差するように突き立てた太めの枝、その上にもう一つ長い枝を乗せ、荷物を括り付けるのに使っていた紐で交差点を縛る。その上から獣皮を被せ、風で飛ばぬように軽く固定したところで簡易宿が完成した。仕上げに内部にシーツが敷かれていく。別に、私はそのままでも大丈夫なのに。
テントは全員が中に入って眠るには少し無理があるが、どの道何人かが番をせねばならないだろう。……たぶん、私は番をするといっても休みなさいと宥められるだけだろうし、自分が十全な警戒を出来るとも思えないのでそこは甘えておく。
「さあ、姫。此方へ」
「うん。……ありがとお」
「お任せあれ! そのお言葉で十分に報われました」
へにゃりといつもの柔らかい笑みを浮かべたミラさんに促されるまま、テントの中へ。ベルさんはアヤメと馬たちの餌や水桶の後始末をするらしかった。
テントの中は獣皮に囲まれているだけあって少し獣臭いが、そんなのは気にならない。不思議なもので、こうして軽く空間を区切るだけで肌に触れる空気の温度が違う。王国の夜は特別寒いというわけでもないが、それでも夜風は体を冷やす。ベルさんがもしも荷物を持って来てくれていなかったらこのまま野晒しで眠ることになっていたのかと思うと、余計にこのテントの有難みが増した。
「ランプもあるが……オイルが勿体ないな。焚き火にしよう」
「はい。使えそうな枯れ枝も集めておきました」
「ああ、ありがとう。ミランダ。火は私が起こそう」
「おお、火打ち石なら持っておる。これを使え」
「助かります、義父上」
テントの内側から、そんな様子を見守る。祖父から二つの石を受け取った父が、そこらで拾って集めた枯れ枝と落ち葉の上でカチ、カチリと石同士を擦るように叩きつけると、小さな火花が幾度も散った。やがて落ちた火の粉の内の一つが落ち葉に燃え移ると広がり、小さな火種が出来上がった。ミラさんが積んだ薪の中に絡めるようにそれを置けば、やがてパチ、パチと心地好い音とともにじんわりとした熱がテントにも流れ込んできた。
「あったかい……」
ぼうっと揺らめく火を眺めていると、片付けを終えたのか水筒と食料を持ったベルさんがテントの中に入って来た。
途中までその後ろを追従していたアヤメは焚き火の近くで座り込むと、そのまま身を丸めた。チカチカと銀の毛並みが照らされて綺麗だ。ゆっくり休んでね。
「……アリス様、お隣失礼致しますね」
「うん」
三角座りのまま体を捩ってずらし、隣を空けた。ベルさんは火に当てた手を擦りながらそこに座ると、ぽんぽんと自分の膝を叩いた。おいで、ということだろうか。……気を遣ってか、父に祖父、ミラさんはテントの中に入るどころかこちらに視線を向けようともしない。三人はどうやら番を担当するらしく、焚き火を囲んでパンと干し肉を齧りながら、ポツポツと話していた。
「アリス様、ご遠慮なさらず」
「あい……」
そっと頭に添えられた手に押されるまま、ベルさんの膝に重力を預けた。なんともいえぬ安心感に嘆息すると同時、ドッと疲労が押し寄せてくる。あー、すぐに眠ってしまいそう……。
「ああお待ちください、少しだけでも食べないと」
「ふあい……」
スッと口元に差し出された一欠けのパンを口に含む。もごもごと明らかにいつもより遅いペースでそれを咀嚼しながら、しっかりと飲み込む。ぶっちゃけかなり行儀が悪いけど、まあここに至ってそんなことを注意する人はいない。今度は千切った干し肉が差し出されて、半ば自動的にそれを咥えた。あむ。……うん? 何だか細くて柔らか――――
「ぁ、あのっ、……アリス様、その……」
「……ごめん」
干し肉だけではなくベルさんの指まで咥えていたのに気が付いて、そっと口を離す。目を瞑って物を食べるものではない。誰も見ていなかったのだけが不幸中の幸いである。口を傷つけぬようにか、ゆっくりと離れていったベルさんの指が濡れていたのに見て見ないフリをして。暫し気まずい沈黙が流れた。
頬を火照らせているのが焚き火の熱なのか、それとも羞恥からくるものなのか判断がつかない。
「どうか、お気になさらず」
「ううぅ……」
「だ、大丈夫ですよ、アリス様のなら嫌じゃありませっ……い、いえ、なんでもありません」
どう見ても大丈夫じゃないけど、そこはツッコまないでおく。お互い、今の顔は見られたくないだろう。膝に寝転んでいてよかった。ベルさんからは横顔くらいは見えているかもしれないが、少なくとも私は見られているということを認識せずに済む。
「アリス様、お水です」
「うん」
さすがに零れてしまわないように少し頭を起こして、水筒から水を飲む。こきゅ、こきゅ、と三度ほど喉を鳴らした辺りで満足したのを確認すると水筒の傾きが戻され、視界の端へと消えていった。同じくベルさんの喉が潤わされたあと、コトリと頭上の方で水筒の置かれる音がした。
「はい、あーん」
「あーん」
そうして幾度かそれを繰り返し、十分とは言えぬもののしっかりと食事を済ませると、余計に眠気が強くなってきた。ぼんやりと揺れる火が更に私を誘う。朧になっていく意識。
察したベルさんが体勢を変え、ほとんど力の抜けた頭が持ち上げられる。そのままぎゅっ、と。私の体は後ろからぴっとり隙間なく抱き込まれた。その温もりにトドメを刺され……ああ、ダメ。おやすみなさい、べる――――
「――――アリス様っ、起きてください、アリス様!」
「ん、う……ぁ」
必死に私を呼び起こす声と揺すられる体に、意識を浮上させた。どうやら眠っていたらしい。
薄っすらと瞼を開けると、辺りはもう真っ暗だった。唯一、焚き火の灯りだけがゆらゆらと私たちを照らしている。
「もぉ、あさ? ふあ……」
「いえ……」
と、ベルさんはそこで言い淀んだ。その声に言い知れぬ焦燥を感じた私は欠伸を振り払い、重たい体を何とか引き起こす。テントの外に視線を向け、焚き火を囲んで番をしていたはずの父たちの姿を探して……察する。いや、正確に何が起こっているのかわかったわけではない。ただ父が、祖父が、ミラさんが。その腰の剣を抜いて周囲を警戒する様子から、只ならぬ雰囲気を察したのだ。何か、まずい事態になっている。
その隣で、私が眠る前には気持ち良さそうに地面に垂れ転がっていたはずのアヤメが、ぴくぴくと耳を動かしながら一点を見つめていた。その視線の先は、今まで私たちが通って来た道のはずだ。一体、何が。
「グルルルッ……」
「あやめ……?」
振り返るとベルさんは、どうして、とでも言うように険しい表情をしていた。
……ああ、そうか。きっと。
「くそっ、どうして今、ここにッ」
父が珍しく荒い言葉を吐き出しながら、言った。
きっと、恐れていたことが、起こったのだ。
「街の貴族を捕えるぞッ! 進め、進めーッ!」
「おおおぉォ!」
バチリ。一際強く弾けた火の粉が、夜闇の森を頼りなく照らす。
月の光を冷たく反射する剣先。
――――仮初の休息が終わりを告げたことを、私は理解した。
あけましておめでとうございます!
次回更新は本日18時です。