第10話 せいじょものがたり
「ふあ、ぁ」
薄っすら開いた瞼の隙間から差し込む光に、静かに意識を覚醒させた。どうやらもう朝らしい。欠伸を零しながらぼうっと眠る前の記憶を辿って……はて。父の膝はこんなに寝心地が良かっただろうか。
「んあ……?」
――――あれ? どうして私、ベッドで眠っているんだろう。
また夢へ潜ろうとする目をごしごしと無理やり起こし、はっきりと視覚を知覚したところで、ようやく自分が何故か私室のベッドの上で眠っていることに気付いた。記憶が混乱しているのだろうか。
いや、確かに昨晩は仔細な計画と、それから農園で気付いた飢餓の原因の推測についてを改めて父に話し、そのまま膝の上で眠ってしまったはずだ。小さくおやすみ、と交わしたのを覚えている。あの後運んでくれたのだろうか。
「おはようございます、アリス様」
「ぁ……おはよ。べる」
天井を見つめながらそんなことを考えていると、ふとベルさんの声が私を呼び戻す。間の抜けたような挨拶を返しながら声の方を見ると、丁度寝巻きからいつものメイド服に着替えているところだった。
まだ着替えの途中だということは、ベルさんも割と起きたばかりだということである。革命を打ち明けるので精神を摩耗し、きっと今夜はその疲労から長く眠ってしまうことになるだろうと思っていたのだが、存外早く起きたらしい。
「とっても早起きですが……もう少し眠られなくて大丈夫ですか?」
「んー」
尤もな提案だ。とりあえず身を起こし、伸びをしてみる。ぐぐ、と体の解れる快感が吐息となって口から零れ、糸が切れたかのように脱力、パタリと両手をベッドに落とす。不思議と疲労はあまり感じなかった。
「ん、だいじょぶっ」
「そうですか。では、すぐに朝食をお持ち致しますね」
「うん。あいがとぉ」
ベルさんはもう一つ欠伸に目元を拭いながら言う私に微笑みながら、部屋の角のおまるを持って部屋を出て行った。そういえば、いつからか私室に置かれるおまるは以前のものから一見ただの椅子に見えるようなものに変わった。最早慣れたとはいえやっぱり何処か恥ずかしいというか、不便というか。そんな私の微妙な様子をベルさんが伝えてくれたのだろう、父は母の部屋から“それ”を持ち出すと、私の部屋に置いてくれた。
当時母が使っていたらしいそれは外から見る分には完全に一人掛けのソファーで、実際椅子として使えなくもない。心情的にちょっと嫌だけど。座部の中心から前部が外れるようになっていて、する時はそこを外して座る。分厚めな蓋があるということで匂いもほとんど漏れないので、とっても気に入っている。
そして何より素晴らしいのは、水を溜めた桶が必要ないということである。このおまるの内部は幾つかの区画に分かれているらしく、用を貯めておく部分以外に清めるための水を溜めておけるスペースがあるのだ。座った時に足元にあたる場所、前部の下半分ほどがその区画になっていて、引き出して綺麗な水を使うことが出来る。きちんと水汲み用の皿型の用具も備え付けられていて、手を汚すこともない。流石にスペースの問題で桶よりは水の量が少ないが、どの道毎朝入れ替えと清掃が行われるので大した問題ではない。学園の寮には個室備え付けのものはなく、各階に男女それぞれ一室ずつ魔法式の水洗トイレが並んだ部屋があったが、あれはきっと酷く高価な設備なのだろう。しかし魔石を使うのではなく、水の魔法を使える者が時折魔力を補充しておくシステムになっていたのは流石王都学園というか、なんというか。贅沢なのか庶民的なのかよくわからないトイレである。
「……あさからなにを」
自分が無駄に長々とトイレについて語っていたことにハッと正気を取り戻し、誰に見られたわけでもないというのに頬を赤く染めた。一人になると深く考え込みすぎるのは私の癖だが、いや本当に深く考え込みすぎである。何処の世界に十分近くトイレについて考える六歳の童女がいようか。
「こほん。なにもかんがえなかった。うん」
脳内の黒い封印棚にこの記憶を押し込んで、逃避を図る。新たな黒歴史である。
……そうこうしている間に階段を上る足音が聞こえて来た。ベルさんが戻って来たらしい。相変わらず作業の一つ一つが早い。ベルさんだけ時空が歪んでいないだろうか。たまに物理的におかしい速さで作業を済ませる時がある。ベルさん曰く愛の為せる技ということらしいが、たぶんそういう問題じゃない。
「お待たせ致しました、アリス様。入りますね」
「うん」
今やベルさんの私室でもあるからというのもあるのだろうが、ベルさんは以前に比べてこうした入室だったりとか、私に対する付き合い方がフランクになった。気がする。距離が更に近くなった気がしてとっても嬉しい。でもそれをベルさんに言ってしまうと、きっと謙遜して元の感じに戻ってしまうような気がするので絶対言わないけれど。
「今日はリンゴがありますよ」
「りんごー」
「ふふ、何だか懐かしい気がしますね」
「えへ。そだね」
リンゴと言えば、まだ私がまりあんに出会う前の頃、前世含め初めて食べた生の果実で、その感動の様子から大好物だと認識したベルさんが毎朝食べさせてくれたものだ。今思えば、あの頃はまだ上手く互いの距離が掴めずに探り探りだったような気がする。……いや、というより私が心を鎖していたのだ。
改めて思うと、たった二年ほどでよくもここまで変わったものだ。時間というのはやはり、早いようで長いもの。経ってみてからその重さ、厚みに気付くのである。
「……では、あの時のように、あーんをしてもよろしいですか?」
「えっ」
「えっ」
黙々とパンとスープを平らげたところで、不意にベルさんがそんなことを言った。あまりにも突然だったので私は思わず固まって。
……そんな悲しそうな顔をしないでほしい。私にだって羞恥心やプライドというものがある。いちおう。そう、あの時はまだ四歳の童女になった混乱が解けていなかったというのが大きいし、色々動揺していたし、しかし私ももう六歳である。学園や革命のことなんかを通して、あの頃よりも遥かに心が成長し――――
「お嫌ですか、アリス様……?」
「あーん」
そんなことはどうでもいい。ベルさんに甘えるのが私の最大の幸せなのだ。そしてきっと私に甘えられるのがベルさんの最大の幸せなのだ。最大多数の最大幸福である。私の小さなプライドは生贄となったのだ。君の犠牲は無駄にはしない。
「ふふふふふ。アリス様ー? はい、あーん!」
「ぁーんっ」
部屋中に溢れるハートマークの甘ったるさが胸を焼いて、リンゴの味はわからなかった。ただひたすらに甘い。何だか変に頭がくらくらしてきたような感覚さえある。色気より食い気とは誰が言ったのだったか。食い気より色気である。ベルさんだいすき。
「べる……」
「アリス様……」
「――――おはようございます、姫は起きていらっしゃ……失礼しました」
リンゴを挟み、ぽーっと見つめ合う私とベルさん。ミラさんによって静かに開かれた扉は、逆再生でも見ているかのように静かに閉じられた。今度はベルさんも一緒に固まった。完璧メイドなベルさんはその固まり具合まで完璧である。まさしくパーフェクトフリーズ。私はこんらんした。
「みらーっ! まって!」
「ミランダさん、これはその、違うんです!」
「いえいえ、どうぞ私のことはお気になさらず。ごゆっくりおラブりください」
扉の向こうからわかってますからとばかりに自信たっぷりの声で答えるミラさん。いや応えてはいるけど答えてはいない。会話になってない。というかおラブりくださいってなんだ。
ミラさんの誤解を解くべく、私はベッドから降りて扉を開けた。
「姫……よろしいのですか?」
「う、うん……」
「お邪魔してしまいましたね。申し訳ございません!」
そんな、何も一生の後悔みたいな顔をしなくても。肩を落としたミラさんをとりあえず部屋の中に招き入れ、また扉を閉める。
部屋に来たからには何か用があったはずだ。様子から察するに、急を要するものではないのだろうけど。
「どしたの」
「姫の寝顔を拝見しようと……」
「ミランダさん」
「半分冗談です。昨日のことがありましたから、ご様子を伺いたく思いまして」
気恥ずかしそうに頬を掻きながらミラさんは言った。どうやら、心配して見に来てくれたということらしい。私自身、起きても疲労が凄いだろうなぁと思っていたのだし、ベルさんやミラさんが同じことを考えるのはさもありなん、といったところ。けれど見ての通り、思いの外私は元気だ。
それでも心配してくれるのはとっても嬉しくて、自然と笑顔が零れた。
「だいじょぶだよ。げんきっ」
「はい、そうみたいですね。とっても安心しました!」
ありがと、ともう一度微笑みを返して、再びベッドへ戻る。ぽすんと腰を降ろせばすぐにベルさんも定位置に腰掛け、若干迷った様子のミラさんもぽんぽんとベッドを叩いて隣に呼んだ。寮でも寝食を共にしていたのだ。今更遠慮することはない。
「お言葉に甘えて……」
「うん」
さて、朝食が途中だ。ちらりと皿の方に視線を遣れば、頷いたベルさんがすぐにリンゴを一欠け持ち上げた。
……あ、まだ続けるんだ。いや、うん。流石にちょっと恥ずかしい。まあでも、それこそ今更というものである。ベルさんがそれを私の口へ運ぼうとしたところで、ふとミラさんが呟いた。
「あの……私も、姫にあーん、してもいいですか?」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
これではさっきの焼き増しである。私が思わず吹き出しかけたのに続いてベルさんが私の役目ですとばかりに目で訴えかけ、それを受けてミラさんがしょんぼりした顔で私を見つめた。……あーんくらい、別に。
めっ、と視線を送ると今度はベルさんがしょんぼりして、何とも言えない妙な罪悪感に苛まれながら。
「いーよ。あーん……」
「姫っ……ぁ、なんかこのままリンゴをあげずにずっと眺めてたい」
「ミランダさん」
「はい」
食べさせてもらうのに私が許可を出すのも何だか変な話だ。本来なら私が頼む側だというのに。それでもまあいっかとさした抵抗もなく受け入れられる辺り、私も随分主従関係というものに慣れたらしい。とはいっても、一般的な主従とはきっと掛け離れているのだろうけど。
「あまい」
もきゅもきゅ。ミラさんの手から舌の上にリンゴを転がして。今度は、しっかりと味が感じられた。ただ甘いというには少し違うような、さっぱりとした仄かな甘みだ。最高の果実は勿論マリアンだけど、こと朝食に食べるものとしてはやはりリンゴも捨てがたい。そして、ふと。
「――――アリス様。いいんですよ。……他ならぬアリス様なら、いいんです。これくらいは」
「ふえ」
一見唐突にも見えるベルさんのその言葉に、私はドキリと肩を跳ねさせた。そんなにわかりやすいだろうか。
そう、私は今、自分がこうして当たり前のように大好きな人たちと笑いながら朝食を食べることが出来ているということに、ハッと現実を思い出したのだ。今この時にも庶民の人たち、それこそハングロッテさんやクロリナさんは今日を生きるために必死に働いている。……無論、現在の窮状に合わせ、食事はきちんと適当なものに置き換わっている。例えばさっき何も考えずに飲み干したこのスープだって、二年前のものとは明らかに具材の量が違った。
けれどそれでもしっかりパンとスープが揃い、そこに果物まで並んでいる。これは、贅沢ではないのか。そんなことを思ってしまったのだ。
「アリス様は十分頑張っておられます。なのに今から、更に頑張らないといけません。それも私欲ではなく、私たちの……王国の人々のために」
違う、とは言えなかった。みんなで笑って過ごしたいからという目的は私欲だと屁理屈を捏ねることも出来たが、現状に苦しむ人々をなんとか助けてあげたいという気持ちもまた真であったから。なればそれは最早捉え方の話であり、また私がここで否定したところで、背負い込み過ぎているのではないかとベルさんたちを心配させるだけに違いなかった。
「そんなアリス様が細やかな朝食を楽しまれることに文句を言う人なんていません。私が、言わせません」
「……そうですよ、姫。それにいざという時に十分な食事が摂れていなかったがためにお体を崩してしまっては、それこそ人々が苦しむことになります」
ベルさんとミラさんが優しく、労わるように諭してくれて。私は咀嚼したまま口の中に残っていたリンゴを、ごきゅり。きちんと胃の中に落とした。
……その通りだ。ここで体調不良なんかに陥っては、洒落にならない。これに関しては、深く考えすぎるのはよくないのかもしれない。これでいいのだろうかではなく、その分頑張らなければ、報いなければと前向きに考えるべきだ。
それに、きっともう、私の心の許容量は限界に近い。さっきまで笑っていたのにすぐにこうして暗い顔をして考え込んでしまうくらいには不安定なのだ。それくらいは誰かに教えてもらわないでもわかる。ならば二人の言う通り、ここから更に負担は大きくなっていくというのに自らそれを増やしても仕方がなかった。どう考えても悪影響にしかならないのだから。
「……うんっ」
ぶんぶんと首を振り、ネガティブに走ろうとする思考を追い遣った。出来るだけ明るく努めた吐息の中、リンゴの香りがふわりと蘇って。最後になるかもしれないこのしあわせを、噛み締めた。
「大丈夫ですか……?」
「うん。ありがと!」
……そして。
よかった、と微笑んでくれる二人に、私も微笑みを返して、そして。
「んぅ……?」
「ハッティリア様、でしょうか?」
そんな束の間の日常に、瞬きの温もりに、激しく駆け寄る何かの足音を聞いた。やがて部屋のすぐ前まで来たそれは立ち止まり――――ガダンッ。
ノックもなしに、開かれた扉。焦りで余裕を無くしたその瞳の主は。
「じ、じいさまっ!?」
「マッグポッド様……?」
「どうしてここに」
それに答えが返される間もなく、その後ろにバタバタと一足遅れて父やカルミアさんたちも並んだ。
……ああ、ああ。何も言わなくても、わかる。くっと噛み締められた唇が、その重い沈黙が。私を想うその瞳が、すべてを語っていた。
「ふ、ぅ」
「アリ、ス……」
「……うん」
終わりが、始まるのだ。……いや、終わらせにいくのだ。
王国を、私たちを、そのしあわせを奪う“黒い嵐”を、いつかどこかの聖女様のように。
「みんなでわらえる、しあわせなせかいのために」
――――さあ、“御伽噺”を始めよう。
次回更新は明日の12時です