第9話 焼け野の雉、夜の鶴
「飲み物を頼む。……全員分だ」
「畏まりました」
あの後落ち着いた父が遅れて部屋の外のベルさんたちに気付き、もう数時間もすれば夕食時になるというのもあって、結局私は広間で父たちと向かい合っていた。卓を挟んで私側にベルさんとミラさん、父側にカルミアさんと他のメイドさん全員が控えている。
父と私以外は全員マリアーナ・アイリスのメンバーだ。きっと学園には同行していなかったカルミアさんたちも既に計画のことは聞いているだろう。確信はないけれど、同じ機関の主要メンバーにまだ何も伝えていないとは考えにくいし、もしまだだったとしても先ほど父に話しているところを聞かれていたのだから同じことだ。
……とはいえ、伝わっているから、と何も言わずに済ますつもりもなかったのだけれど。父の後、順に一人ずつきちんと向かい合ってお話する予定だったのだ。でも、結果として一度にみんなと向かい合うことになったのは、私にとっては良かったのかもしれない。この締め付けられるような胸の痛みは、そう何度も耐えられそうになかったからだ。
「お持ち致しました」
「ありがとう」
静かに並べられていく九つのカップ。まだ一言も喋っていないというのに、喉が渇いて仕方がない。ありがと、と私の前にカップを差し出してくれたカルミアさんに小さく伝え、早速中身を飲み干した。カップを置くとすぐさま水差しが傾き、コトコト、とまた満杯まで水が注がれる。それを二度ほど繰り返したところで私がひとまず落ち着いたのを認めて、ようやく水差しを置いたカルミアさんは父の後ろへと戻って行った。
「さて」
父が気を入れ直すように言ったのに合わせて、私は目を瞑って心を落ち着かせようと試みた。
……どうしてだろうか。いや、それとも当たり前のことなのだろうか。学園で決起し、クロリナさんと話し、農園で飢餓自体の解決に微かな光明を見出して。ここまでは、順調だ。順調なはずだ。だというのに、私は今更、父に話をするのが怖かったのだ。話をしなければいけないことはわかっていたはずなのに。或いは、クロリナさんと話をしたのも、農園を訪れたのも、無意識にそこから逃げようとしていたのかもしれない。だって、冷静に考えればまず一番初めに父と話し合うべきだ。なのに私は他のことを優先していた。勿論そのどれもが大事なことではあるけれど、順序を考えればやはり無意識に逃げていたのだろう。現に私は農園から帰って来た途端、時間と共に急速に気持ちが沈んでいった。いざその時を前にして、とうとう心に言い訳が出来なくなったのだ。弱音を隠せなくなったのだ。
毎晩のように暗い悪夢に魘されているのが、その証左だろう。……思い返せば、ベルさんにも大分不愛想にしていたかもしれない。こんなことではダメだ。
「ん……よし」
すぅ、と深く呼吸を落とし、少しでも心を前に向かせる。胸の痛みはずっと取れないままだけど、それでも今ならさっきよりは、まともに話が出来るような気がした。
それを見計らったように、父が私を見つめて。私も、父を見つめた。
「改めて、聞かせてくれるかな。……アリス」
「うん」
それを合図にみんなが聞く姿勢に入ったのを認め、あのね、と私は語り始める。
どうして、私は革命を志すのか。如何にしてそこに至ったのか。……そんな、小さな物語を。
「はじまりは、しじょうのじけん、なの」
「……ベルか」
「……うん。わたしね、もうみたくないっておもった。だれかがきずつけられるのも、きずつけるのも」
唐突に世界が終わっていくあの絶望は、二度と味わいたくない。
……もう懲り懲りだ。傷付けるのも、傷付けられるのも。
――――それを黙って、見ているのも。
「ほんとはね。もうそとにでたくないっておもったの。このままずっと、べるやとおさまとおへやにいたいって」
「……アリス」
「でも」
何度も、何度も抑えつけて誤魔化して来た気持ち。自分の魔法を、ルーツを探るため。学園に行くため。世界を知るため。そういって私は、出来るだけ外に目を向けて来た。
けれど、根本は私の中に芽生えた一つの夢。ベルさんたちと一緒に、しあわせに生きていきたい。……聖女なんてとんでもない。ただそれだけが私の願いで、あれだけのことがあってそれでも部屋を飛び出せた理由だ。
「みてなくても、とけいはまわる」
そう。私が目を逸らそうと、この状況に見て見ぬふりをして日常に縋ろうと、時は進む。人は歩く。……そしてやがて、終わりが来る。私が私である限り、逃げることなど出来るはずもなかった。
それはただ、貴族として産まれたからということだけではない。私が……わたしが。
「――――できないの。みんながくるしんでるってしってるのに、わたしだけしあわせにわらうなんて。……できないの」
無知が罪だというのなら、知ることは罰なのだろうか。或いは何も知らなければ、事件のトラウマを言い訳にして、あのまま静かで怠惰で楽な日々を甘受していたのかもしれない。……けれどもう、私は知ってしまった。世界を。庶民の人々のことを。必死に今を生きる、みんなのことを。引きこもってなどいられるはずもなかった。
「だから」
例えばもしも、私の魔法で世界の時間を巻き戻せるとして。……それでも結局、そんなことは出来やしないだろう。
因果だとかそんな難しい話じゃない。ただ、あったことを無かったことには出来ない。私が、そうしたくない。今まで歩いてきた道を、出逢った人を、作った思い出を、なかったことになんて、したくない。
「……だから」
……私はきっと、迷っていたのだ。外の世界に触れて、革命なんてものまで決意して。それでも私は、所詮子どもなのだろう。こうして家に帰って、家族の温かさに触れて、部屋でぬいぐるみを抱きしめればやっぱりずっと家にいたいと駄々を捏ねる、子どもなのだ。このままでも、いいのではないか。そんな弱い自分に、迷っていたのだ。
「いる、の」
でも、そうだ。そんな温かい場所だからこそ。これからもずっと、みんなとしあわせに笑っていたいからこそ、私は扉の外へと踏み出したはずだ。
……話を聞いてもらうというのは、こんなにも気持ちが楽になるものか。
息苦しさはスゥと消えていった。胸を締め付けていた痛みが、意志に変わっていった。
――――もう、進まなければならない。小さなお部屋は少し留守にして、扉の向こうへ踏み出さねばならない。
「アリス様」
「姫」
ふと振り返った先で、ベルさんとミラさんが安心したように微笑んだ。
そうしてふと、私はいつか、ミラさんと初めてあった日のことを思い出した。……そういえば、あの時も。
「ふふっ……」
ジューウィタロットを使って遊んだ時も、同じことを言った気がする。今みたいに王国のことを言っていたわけではないけれど。……ああ。もしかしたらあの時の変な空気の正体は、そういうことだったのだろうか。あながちみんなの勘違いでもなかったのかもしれない。
しかし遊んだゲームが“運命”とは、何とも奇妙なものだ。どうやら私はあの時のプレイで自分の運命をズバリ予見してしまっていたらしい。もう少し大きくなったら占い師でもやってみようか。
すっかりそんな馬鹿なことを考えられる余裕も取り戻し、俯き気味だった顔を上げた。父を、カルミアさんを、みんなの瞳を真摯に見つめて。芯を取り戻した声で、言った。
「――――“かくめい”が、いるの。みんなで、しあわせになるために……!」
ごくり。
目を伏せ、深く息を吐いた父の答えを、私はただ黙って待った。迷いを振り切っても、怖いものは怖い。
ああ、何秒経っただろうか。意識が途切れそうなほどの緊張。永遠にも等しく感じられるその刹那、父が浮かべた言葉はいったいどれほどの数に上ったのだろう。
そうして次に発せられたのは、フッ、という小さな笑い声だった。
「……アリス」
「うん」
「よく、がんばったな」
「……うん」
きっと他の色々な言葉を飲み込んだ上で紡がれただろう労いと慰め。父は卓が邪魔で私の頭に届かない手を焦れったそうに握り直しながら、困ったように一瞬目を泳がせた。どう切り出したものか迷っているのだろう。
大丈夫だよ。なんて言われても受け止める覚悟は、出来た。じっと見つめたまま離さない視線にそんな思いを伝えて。やがてぽつり、ぽつりと父は語り始めた。
「私も考えなかったわけではないさ」
「……かくめい?」
「ああ。若しくは、それに近いようなこと。体制の改革だとか、な」
口ぶりからするに、父も当然思うところはあったらしい。やはりベルさんの言葉は間違っていなかったようだ。そして続く言葉と、今のアリスならわかるだろう、と尋ねかける瞳。私はそうだねと一つ肯いた。
……父の言う通り、最早そんな時間はない。穏便に体制を改革するとなれば案を提出して幾つも協議をして、という流れになるのだろうが、王や中枢貴族たちがまともに取り合うとはとても思えない。それが出来るようならば、そもそもここまでにはなっていないはずなのだから。敵対分子として目を付けられるのがオチである。とはいえ、流石にデモまで起きた手前、今なら上位権力者を集めた話し合いの席が設けられるくらいまでなら何とか進むかもしれない。しかしそうこうしている間に庶民の人々の怒りは頂点に達し、反体制派が一斉蜂起の工作を完了させてしまうだろう。
「だが、成算が云々以外にも、大きな理由……感情的な理由が、ある」
「かんじょうてき、な?」
「……ああ。――――そもそも私は、最近まで“フェアミール”ではなかった」
えっ、と驚きかけて、すぐに流れ込んだ母の記憶がそれを抑えた。
……ああ、そうか。父がフェアミールの性を得たのは、“フォン”の称号を与えられたのは。
なるほど、感情的な理由、か。敢えて義理と言わなかったのは、そのことに関しては本当に感謝しているからだろう。
「このマリアーナの領主や貴族という立場も、フェアミールの性も、先の帝国戦争での功績への褒賞として陛下から与えられたものだ。……私はそれまで、少し戦が上手いだけの孤児でしかなかった」
すぐに、その情景が浮かんだ。いや、“思い出した”。それは母との出逢いの瞬間。いわばスラムとでも言うべき廃れた街で、家出した母がその場凌ぎに働いていた酒場の前で行き倒れたのが父。それが始まりだった。やがてその輪にラブリッドさんが加わり、そうして戦争が起きて一度離れ離れになった果てに、今がある。……ベルさんが両親に拾われたのはもしかすれば、その時のことを思い出したからというのもあったのかもしれない。
それはともかく、父はきっとこう言っているのだ。
もしも貴族になっていなければ、フェアミールという立場を与えられてなければ。
「――――今頃アリスは産まれてもいなかったかもしれない」
……そう。ただでさえ乳児の死亡率は高い。王国は、というかこの世界には、前世のように進んだ医療技術や体制が――――といっても実際に恩恵を受けられるのはほとんど支配者層のみだったが――――整っているわけではないのだ。故に、出産というのは常に死のリスクが付きまとう大事だ。貴族という立場があってすら、母は亡くなってしまったのだ。もしも父が孤児の身分のままだったら、など考える必要もない。
祖父に助けを求めるというような展開も考えられはするが、そうなれば今度は父の身が危ない。仮にも祖父は諜報部の長である。その娘がスラム出身の男と結ばれて子を、となれば、拙い事態になるのは用意に想像できる。勿論、祖父はきっと助けてくれるだろう。しかしその祖父自身が言っていたように、王国諜報部は一枚岩ではないのだ。祖父に敵対する派閥からすれば、父は絶好の的、弱点となる。いつかクロリナさんの孤児院の関連でベルさんに聞いたように、孤児というのは世間的にそれほどの悪印象を持たれている存在なのだ。
だからもしも父がフェアミールでなければ、私はここにいなかったかもしれない。
……あのまま、絶望と共に無に帰していたかもしれない。
「そう思うと私は……父さんは、踏ん切りがつかなかった。キャピタリア国王や中枢の政策、態度は確かに褒められたものではない。今すぐにでもまともに作り替えるべきだろう。……だが、その恩義の気持ちが未だ強く残っている。それに一度声を挙げてしまえば、もう戻れなくなる。失いたくないんだよ。アリス。やっと掴んだ、お前との細やかな団欒を」
「……とおさま」
今度は嬉しさと申し訳なさで、涙が滲んだ。眉尻を苦い笑みに下げながら話す父は、どこまでも私の父だった。そうだ、ようやく掴んだところだったのだ。父娘という距離を。家族という愛情を。そんな細やかな幸せが許されない現実というのは、どこまでも非情に思えた。いやこれこそ、思い出した、という方が正しいのだろうか。現実というものに情などない。だが悪意もない。すべてはただ、そこに在るだけだ。
「でもな、アリス。私は……俺は、決めたんだよ。アリシアが亡くなってから、初めてお前を抱きしめたあの日に。必ず幸せにしてやる、と。……そして、お前は言った。その先に、“しあわせ”があると。幸せのために革命が要るんだと」
そう言って目を瞑った父はきっと。泣いて、笑って、すれ違って、また笑って。そんな私たちの……“フェアミール家”の日常を、一つ一つ確かめるように、愛でるように、懐かしんだ。
「……なあ、アリシア。親っていうのは、不思議なもんだな。それがどんなことだったとしても、応えてやりたくなるんだ。……お前もそうなんだろう?」
ただその一瞬、父親でもフェアミールでもない、ただのハッティリアに戻った父は首にぶら下げた母の形見を指で撫でつけ、握り締め、ふと立ち上がると背を向けて。
「俺はもう、弱かった孤児の少年でも、英雄でも貴族でもない。ああ、私は」
その疲れた猫背はけれど果てしなく広く、どこまでも頼もしく。そうして振り返った父は、いつもの愛情たっぷりの柔らかな微笑みを浮かべてくれていて。
「ただの、父親だ」
――――その夜。書斎で父に抱き付いて眠る私を、悪夢が襲うことはなかった。
次回更新は本日18時です。