第8話 淡雪と恋いて
「アリス様」
「ん」
「……入りますね」
扉の向こうから返った弱々しい返事に胸が痛んだ。メリーランド農園を訪れた翌日から、アリス様はずっとこの調子だった。
アヤメと戯れている時は、比較的元気を保っておられるように見えた。けれど今を顧みればそれは、空元気だったのだろう。
……当たり前の話だ。たった六歳の幼き御身が背負うには、革命という一言は重すぎる。私やラブリッド様や、マッグポッド様でさえ圧し潰されそうな不安と責任感を感じているのだ。
ただでさえ繊細で傷つき易い、ましてや市場での心の傷もまだ完全に癒えてなどいないアリス様には、どれほどの痛みが降りかかっているだろう。
命に至りかけた傷に更に剣を突き立てられ、ぐりぐりと抉じ開けるように嬲られながら、それでも歩みを止めないでいられるのは偏にアリス様がアリス様であるからだった。
私が六歳の頃に同じ状態に瀕したとすれば、どうだろう。それでも笑顔や優しさを失わぬまま、前に進み続けることが出来ただろうか。
「アリス様……」
「べる?」
「いえ……。ええ、その。昼食は、如何いたしましょう。広間に行かれますか。それともお部屋で摂られますか?」
「うん」
と、肯いてから言葉足らずだったと思われたのか、おへやでと小さく付け足された。その声が控えめだったのは、帰って来たばかりなのに皆で食べないなんて、というようなことを思われているのだろう。
無論全くというわけではないけど、ハッティリア様も私たちも、アリス様が部屋で食事を摂られようとあまり気にはしない。しかしそれには、あくまでアリス様がお元気そうでおられるならという注釈が入る。
今のように、明らかに元気がない状態でお部屋で食べたいというのはきっとあまり人に顔を見せたくないという内心の顕れであり、であれば当然心配になる。
けれどかといって、無理をさせて広間に連れ出すのも余計に負担をかけるように思われた。これが何もない、日常の一日のことならば少々強引にでもお連れして元気づけるようなことも考えたけれど、この非日常、ただでさえ限界を超えた負担を背負っておられるこの状態ではそんなことはとても言い出せなかった。
それでもアリス様は、これまである程度は“いつも通り”でおられたはずだった。頭を撫で梳けばちょっぴり羞恥にはにかみながらも嬉しそうなお顔をしてくださったし、話しかければ笑顔で答えてくださった。しかし今のアリス様からは、そんな嬉と楽の感情さえも失われてしまったかのようだった。
髪をお梳きしても話しかけても、ぼうっと遠くを眺めているような……そう。二年前、ハッティリア様とのご対面で瞳に輝きを取り戻す前までのような、まるで人形のような能面。感情を一切読ませない、光のない濁った瞳と暗い仮面。その時に逆行していってしまわれているように、私には思えた。
革命の首魁になるという重責、そしてその他アリス様が行うことになる数多の行動への不安。そして何より、今のアリス様は完全に私たちに愛情を向けてくださっている。だからこそ、恐れておられるのだ。私たちが傷つくことを、以前にも増して。
アリス様の心をすべて読み解くことなど不可能だけれど、それだけは確信することが出来た。
私たちを含め様々な人々と言葉を交わし、その想いに触れ、愛情に触れ、或いは敵意や憎しみを向けられ、それが好意に変わっていく過程や結果にも触れられ。この二年という短い期間で濃密な経験を積まれたアリス様は、そういった人としてのものは勿論、学術や社会的にもその視野を大きく広げられ、少しずつ、しかしどんどんと外向的に変わって行かれた。
……けれど、良くも悪くも、アリス様はアリス様のままだ。その行動や見えるものこそ変わっても、根本はあの時から変わっておられない。
それこそは、“愛情深さ”。或いは過剰なまでに人を想い、感情を共有し、助けようとするその愛情深さ。私がアリス様に向けているものよりも、ハッティリア様がアリス様やアリシア様に向けられるものよりも、世界中の誰よりもアリス様の愛情は深く、大きいものなのだ。
この数年、アリス様のその貴い在り方はどこから来るものなのだろうと、私はずっと考えていた。そして最近になって、ようやく気付いたのだ。思えばアリス様がその身を犠牲にして私を助けようとされた時、私はどうしただろうか、と。
――――私も身を犠牲にしてアリス様を助けようとしたではないか、と。
その二つに、何の違いがあろうか。
……考えるまでもなかった。その根源は、“愛情”だ。誰かを想い、誰かのためにその身を挺す。アリス様の場合、それに順番というものがないだけなのだ。
私は勿論、アリス様を一番に愛し、想っている。アリス様もきっと、私のことを愛してくださっている。けれどそれは、私だけに、誰か特定の一人にだけ向けられているものではない。
いや、本当はアリス様の中でも順番、愛情の差はあるのかもしれない。けれどしかし、それが明確に行動に反映されることはあまりなかった。
つまり、誰に対しても、少しでも愛情を抱けばどれだけ自分が傷付こうと助けようとする。
それが、私が見抜いたアリス様の本質だった。
私たちは“勘違い”をしていたのだ。アリス様は、何も自分に価値がないなんて思っているわけではない。自己の存在の上に、愛情が位置しているだけなのだ。
だからこそ危機に瀕した時も、そうでない時も、迷いなく自分を捧げ、誰かを助けようとする。アリス様の行動はすべて、愛情深さから来る自己犠牲だったのだ。
「べる……?」
「……すみません。このまま抱き締めさせてください」
「……うん」
アリス様のこの状態こそ、その象徴だった。自分を愛している人がいると知っているからこそ、そしてみんなを愛しているからこそ、自分の壊れるところを見せたくない。苦しみ、痛み、傷付いている姿を見せたくない。だから無意識に心を鎖し、それを見せないようにしている。
……きっと自覚などないのだろう。何が人形だ。アリス様は、誰よりも“人間”だ。
「アリス、様」
「ん」
ああ、どうして……どうしてこんなお方が、その身を犠牲にしなければならないのだろう。誰よりも愛情を、幸せな世界を願っておられるというのに。いや、だからこそ、なのだろうか。
聖女様の御伽噺が、聖女様無しには成り立たぬように。
この世界は、アリス様の光を求めていた。
「ね、べる」
「はい、アリス様」
「あのね。……とおさまに、はなさなきゃ」
「……そう、ですね」
縋りつくように、甘えるように抱き締める私の胸の中で、アリス様がポツリと零した。
……わかっていた。アリス様なら、ご自分で話そうとされるだろうと。私やミランダさんに任せたっていいのに、ご自分で伝えようとされるだろうと。時計は逆には回らない。ならば、この先の“しあわせ”を目指して歩き続けるしかないのだ。今も確かに一歩踏み出そうとしている、アリス様のように。
「ふたりで、おはなししたいの。……でも」
「アリス様。……ハッティリア様とアリス様は、親子です。家族です。だから、例えそれがどんなことでも、一人で抱え込まずに甘えていいんです。私はそう、アリシア様に教えて頂きました」
ぎゅう、と。抱き締め返してくださる小さな手は震えていて。しかしか弱いそれこそが、アリス様の強さなのだ。話の結果云々より何より、ハッティリア様を傷付けることを恐れているからこそ、震えておられるのだから。
「……うん。ちょっと、ひとりに、してくれる?」
「……はい、アリス様」
だから私は、私に出来ることをしよう。そう、例えば、これからアリス様がハッティリア様に話をするというのなら、同じようにカルミアたちメイド全員にも話そうと考えておられるだろう。しかしそれを別々の機会としては、アリス様は何度も同じ苦しみを味わうことになる。それなら、全員をこの機会にまとめてしまおう。アリス様の本意には逆らう行動かもしれないけれど、私はアリス様のようにすべての人を同じように愛しているような貴い人間ではない。勿論カルミアたちのことも大切に想っているけれど、私の一番はどうしようもなくアリス様に捧げられているのだ。そして何より、カルミアたちだってアリス様を大切に想っている。アリス様を苦しませるようなことはしたくないはずだ。アリス様がそうしてくださるように、私たちも精一杯の愛情でアリス様を支えるのだ。
「では、しばらく後に、また戻ってきますね」
「うん。ありがと、べる」
「はい。ありがとうございます、アリス様」
いつものように、その滑らかな銀糸を撫で梳いて。誰よりも愛情を知り、それ故にまた凍らせてしまった御心が雪解けを迎え、春風の中で笑顔と咲く日を願い、頬に一つ。唇を落とした。
「とおさま」
父には二人きりの状態で話したいと零し、ベルさんに励まされてから数刻。ようやく心の準備の整った私は、いつもより幾分か遅い足取りで父の書斎へ向かっていた。もう、この階段を下るのに誰かの手を借りる必要はない。それでもベルさんが心配そうに一歩後ろに続いて見守ってくれているのは、きっと私の心境に対してだろう。その想いが後押しとなってか、私は何とか両足を重力に従わせることが出来た。
コツリ、大げさに耳に届いた靴の音の余韻を深呼吸の代わりとして、階段を離れ廊下へ。すぐ傍の書斎の扉の前に立ってから、もう一度ベルさんを振り返った。
「大丈夫です。私はアリス様の従者であると同時に、ハッティリア様の従者でもあります。主の御心を十全に理解することこそ本分……だから、大丈夫です」
「……うん」
ベルさんは言外に、父もその意思を抱いていると言ったのだ。現状への不満と、革命……体制の改革への意思を。他ならぬベルさんが言うのだ。エスパーかと疑うほどに私の心の動きをトレースするベルさんが。そして、父へと仕えている時間は私といた時間よりも長い。ならば、ベルさんが父の内心を読み違えているとは考え難かった。
そんなほとんど信頼のみで構成された理屈で言い訳をして。振り返った顔を扉に戻し、控えめなノックを鳴らした。ああ、と疲労の滲んだ生返事が応えたのを認めて、私はそっと、扉を押し開いた。
「昼食ならそこに置いておい……ん、アリスか」
「うん」
「はは、どうした? ごめんな、まだ仕事が終わってないから、遊ぶのは――――」
「ううん」
「後、に……。……どうした?」
扉から顔だけ覗かせたまま一向に部屋に入らないことにか、それとも隠しようがないほど暗い声色にか。父は浮かべた微笑みを妙な静寂に溶かすとペンを置き、立ち上がった。扉の後ろできゅっと手が愛おしい温もりに握られ、私は心の中でありがとうを告げると、離れていくそれに後ろ髪を引かれつつも体を部屋に押し込んだ。
態々体ごと振り返って扉を閉め、パタリとそれが閉じられても尚、父の方を向けないでいる。扉の向こうで遠ざかっていく足音が聞こえないことから、ベルさんはそのまま部屋の前で待ってくれているようだった。姿は見えなくてもすぐそこにいる。見守っていてくれている。……少しだけ取り戻した勇気で、立ち上がったまま動けずにいる父に体を向けた。
「アリス?」
「……うん」
ひとつ、返事にもなっていない返事を俯いた視線の先に落として。その反響が静寂を更に重くしていくのに肩を震わせた。明らかに尋常ではない様子に慌てた父は、すぐさま私の傍によって、目線を合わせてくれた。そこまでしてくれてようやく、私は顔を上げて目を合わせた。戸惑いと不安、そして私への明確な愛情がその瞳にはあった。だからこそ、私はそれが変わってしまうのが、そして何より、そんな父を巻き込み、傷つけてしまうのが怖かった。
……それでも、伝えないわけにはいかない。ここへ来て父を巻き込まずに済むかもなんて甘い考えは通用しない。それは余計に大きな苦しみを、みんなに齎してしまうかもしれないのだから。
ならばいつかの父のように、今度は私が踏み出す番だった。
「あの、ね」
「……ああ」
きゅっと、息が詰まる。言うな、言うなと怯える私が瞳を潤ませる。続く言葉を掠ませる。けれどそれらすべてを、みんなの笑顔でねじ伏せて。ほとんど嗚咽に近いような声で、それでも言葉を絞り出した。
「わ、た……くめ、ぃっ、……――――わた、しっ。かくめい、を……っ……!」
「――――、……。……アリス」
困惑は一瞬。理解と共にはっと驚愕に見開かれた父の目が、刹那の内に悲哀と歪んだ。
聞きたくなかったと。言わせたくなかったと、悔しがるように。重々しい吐息と共に落ちた父の顔を覗けば、苦々しく歪んだ口元がその心境をありありと表していた。
「……そうか」
「っ、ぅ……」
きゅぅっ、と。胸が痛いくらいに締め付けられた。
苦しい。息を吐き出すことさえも出来ない。
それでも私は、泣いてはいけない。父を苦しませている私が、そうしてでも“しあわせ”を成し遂げると覚悟した私は、せめて答えを聞くまでは絶対に……ぜったいに、ないては、いけない、の。
「とお、さま、……っ、ぁ」
……くるしい。どんな言葉よりも愛情の伝わる沈黙が、頬を濡らせない涙が、くるしい。
誤魔化しに噛んだ唇から、真っ紅な嗚咽が零れた。
「――――、んっ……」
「……、ごめんな、……ごめ、んなぁっ……アリス……!」
父はそれ以上、何も言わなかった。何も言わず、ただひたすらに、強く私を抱きしめた。痛くないよう必死に服だけを握りしめる背中の手は、酷く弱々しかった。抱き返していいのかもわからず、私は無言の涙を痛む胸に受け止めることしか出来なかった。
とめどなく血が零れていく長い沈黙の中。ふと耳に届いた、扉の向こうの吐息。いつの間にか幾重にも増えていたそれは、きっとカルミアさんたちのもので。それを宥めていたベルさんの声が、ミランダさんの声が、間もなくそれに交じっていって。
……やがてみんなの嗚咽が、私と父の代わりに部屋を濡らしていった。
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