第5話 待雪
「ああ、お嬢様……」
「た、ただいま?」
カルミアさんの伝達から少し後、部屋を訪れたクロリナさんは私の姿を認めるなり手を取って崩れ落ちるように座った。気を利かせてか、ベルさんは部屋にいない。
しかし、余程心配してくれていたのだろうか。いや、でもあの学園のデモのことはラブリッドさんや祖父がすぐに情報統制を敷き、流石に王都の住民にはそんなことが起こった、ということくらいは漏れてしまったが、まだマリアーナにまでは情報が届いていないはずである。唯一、早馬を受けた父や、カルミアさんを始めとしたここの従者さんたちが知っているくらいで、他の住民は知っているはずがなかった。となれば、単純に学園で上手くやれているのかを案じてくれていたのだろう。
「おかえりなさいませ。……突然お訪ねして申し訳ございません。何やら護衛の騎士を引き連れた馬車がお館に入っていったというのを聞いて、居ても立っても居られなくなりまして」
「ううん。ありがと」
ああ、それで私が帰ってきたことを知っていたのか。クロリナさんがやって来たと聞いて、ずっと疑問に思っていたことだ。どうして帰って来たことを知っているのだろうと。でも確かに、よくよく考えればあんな物々しく護衛を引き連れて馬車で帰宅すれば嫌でも誰かの目に付こうというものだ。私が学園で学んでいることを知っている人であれば、私が帰って来たのではないかなんて推測程度は容易に出来るだろう。
「それで、その……何かあったのでしょうか」
クロリナさんは酷く言い辛そうに躊躇した後、意を決したようにそう聞いた。
無論、気になるだろう。学園に行ったと思えば半年も経たずにこうして帰って来たのだ。元より王都学園には長期休暇という制度があったみたいだけど、それを知っているかどうかというのは今回あまり関係がない。むしろ、知っていた方が余計に疑問に思うかもしれない。こんな入学して早々の時期に設けられるものではないのだから。実際クロリナさんがどちらであったにせよ、学園、若しくは私自身に何かあったのだと思い至るには十分に思えた。
そんなクロリナさんは沈黙した私に何か察したのか、不躾な質問をしました、と慌てたようにその紫髪を揺らして質問を取り下げた。そういうつもりではなかった……が、答え難い質問であることは間違いなかった。実はね、と軽々しく話せるようなことでもない。何のために情報統制が敷かれているのかという話である。……いや、まあ、クロリナさんがその、デモがあったということを知ること自体はそれほど問題ではないだろう。というより、どの道いずれはここにも人伝てで噂が届く。ルナの名前や立場が伏せられ、聖女……つまり、私のことがより強く印象に残るように若干操作された噂が。計画の一環としてそのようなことを行うと聞いている。それにクロリナさん自身思慮深い人だし、口も堅い。現に私のあの氷の魔法については今の今まで誰にも漏れていない。あの検査の場にいた私たちの間だけで共有される秘密のままなのだ。少なからず好意を向けられているのもわかっているし、私もクロリナさんを信頼している。
しかし、そういうことではないのだ。これは私の心構えというか、誠意の問題であると言えた。私はあの場で、ラブリッドさんたちと革命を誓ったのだ。一心同体の歩みを決めたのだ。ならば私が、少なくとも自ら意図的に、その歩みを乱すようなことはしてはならない。ラブリッドさんたちがデモのことは一旦伏せて、聖女云々を絡めた噂として広めていくのがよいと判断したのなら、当然私もそれに従うべきだ。幾ら親しいからといって勝手にここで話してしまうのは違うように思えた。……本当は、話してしまいたい。これだけ私のことを案じて尋ねてくれているクロリナさんに、それを隠すような事はしたくない。でも、それと革命は別の話。ただ感情だけを言うなら、“巻き込みたくなかった”のだ。もしも計画が失敗したとして、首謀者の末路など考えるまでもない。既に散々大切な人たちを巻き込んでおいて何を、とどうにもならない悔悟もしているけれど、それでも新たにクロリナさんまで無闇に引きずり込むようなことはしたくない。経営する孤児院のこともあった。
やはり私から何かを言うべきではない。もしもクロリナさんが自らそれを知るようなことがあって、その上で協力したいと言ってくれるなら、その時は、また。
……革命なんて起きずに、庶民の人たちの立場も改善されて、それでみんなで幸せに過ごせたらいいのに。
そんな叶わぬ願いに心を焼かれながら、曖昧な笑顔を浮かべた。明確な拒絶だった。
キリキリとひたすら痛む胸に、私は気付かないフリをした。
「……お嬢様」
「なあに」
じっと私を見つめる瞳は、どこまでも優しくて。なればこそ余計に、私の胸は痛むのだった。嘘、とはこんなに苦しいものだったのか。前世の記憶のことを隠すのには、こんなにはならないのに。どうしてだろう。何が違うのだろう。
沈んだ思考がやがて自己嫌悪に向かいそうになるのを悟って、そこで考えるのをやめた。今、することではない。眠る時にでもベッドに潜り込んで考えこめばいい。そうしてそのまま寝てしまえば引きずり過ぎることもないのだ。
「……いえ。そうですね、では何か、楽しい話をしませんか」
「たのしい?」
「はい、楽しい話です」
「うん」
と、頷いてはみるものの。楽しい話、楽しい話か。改めてそう言われると難しいものだ。何か、聞いていて楽しいような話はあっただろうか。うーん、うーん。
「……まりあん?」
いや、いやいや。それはちょっと。クロリナさんは私がまりあんについて語っているのを聞いても別に楽しくはないだろう。困り眉で苦笑されるのがオチである。何か他のもの。こと。うーん、うーん。
「あ、そだっ。あのねあのね! 」
「はい、はい」
「がくえんさいでね、えんげき、したの」
「演劇、ですか」
「うんっ」
そうだ、演劇。楽しい話というのからは少し趣旨がズレるかもしれないが、いきなりまりあんについて語りだすよりかは幾分かマシである。あの演劇は私の中で学園生活を象徴する思い出になっていた。他にも色々と思い浮かぶことはあるけれど、まず一番始めに表層に出てくるのがそれだ。ルナと一緒に必死で練習をした日々も相まって、またなんとなくの試みが上手くいったこともあってあの演劇のことは強く印象に残っていた。あんなに大勢の人の前で何かを発表し、称賛されたのが初めてだったからというのもあるかもしれない。
「んと、ぺるす・ねーじゅむーる、の」
「ああ、待雪物語ですね。私も読んだことがあります」
「うん。それのね、だいろくしょうをるな……んと、がくえんでできたはじめてのおともだちとしたの」
「それはそれは。お嬢様のお友達ともあらば、きっと素敵な方なのでしょう。私も上手く時間が取れれば見に行きたかったのですが……」
ちょっぴり後悔しているような声音でクロリナさんが言った。気持ちはとっても嬉しいが、クロリナさんは司教という責任ある立場で、かつ孤児院の院長である。王都まで来て学園祭を観覧するというのは流石に難しい話だったのだろう。なにせ、馬を使っても往復だけで一週間近くはかかる。旅費の工面もしなければいけないし、もしも本当に来るとなれば、時間や金銭ともにかなりの負担がかかることだろう。見て欲しかったかと言えばまあ、見て欲しかったけれど、でも私は十分に満足している。少なくとも祖父やベルさん、ミラさんはしっかり見ていてくれたし、同級生やたくさんの人が良かったと言ってくれた。またどこかで演劇をするような機会があったなら、その時はクロリナさんや父、カルミアさんたちマリアーナの人々にも見てもらおう。
……あれだけ人前で演劇をすることに緊張、或いは恐れてすらいたというのに、一度経験してしまえば変わるものである。やっぱり、ルナと一緒に壇上に立てたというのが大きいのだろうけど。そういう意味でも、ルナには頭が上がらない。きっとあの経験がなければ、デモの際に庶民の人たちの前に躍り出るようなことは出来なかっただろうから。
ほんの少し前のことだというのに、妙に遠く感じるそんな思い出を抱きしめて。いけないいけない、と意識を部屋へ戻すとクロリナさんは優しげな微笑みを浮かべていた。
「とっても、楽しかったみたいで」
「うん。……たのし、かった。いいことばかりじゃ、なかったけど」
「……そうですか。大丈夫です。何があったのかまではわかりませんが、きっとまたそんな日々が帰ってきます」
「……うん」
また、しんみりした空気になってしまった。でも、さっきとは違って、私の胸は痛んではいなかった。きっとあの日々が戻ってくる。帰れる。クロリナさんの前向きな言葉が、心を支えてくれていた。無責任なことを、なんて思いは湧きもしなかった。クロリナさんが本当にそう願ってくれているのを、ちゃんとわかっているからだ。人を信じるというのは相手のためだけじゃない。最近になってようやく学んだそんな人生訓を改めて感じ入りながら、深々と頷いた。
「では、楽しいお話を聞かせて頂きましたから、私も何か話をしましょう」
何か聞きたいお話はありますか、とクロリナさんは次を促した。きっと、私が考えこみすぎないように気遣ってくれているのだろう。さっきは取り下げたもののきっと色々と聞きたいことはあるだろうに、少し沈んだ私を一つ慰めるだけでそれ以上は踏み込んで来なかった。今はそんな優しさに有難く甘えさせてもらおう。
さて、聞きたい話だ。まだまだ世界を知らぬ私だ。聞きたいことなど探せば幾らでもあるだろう。が、そのどれにも優先して聞いておきたい、いや、聞かなければいけないことがあった。……今のマリアーナの状況だ。勿論、父やカルミアさんに聞けば教えてくれるだろう。でも、それで入ってくるのはあくまで現状の情報だけだ。そこには庶民の人々の目線や思いは含まれていない。当然のことだが、庶民のことは庶民が一番よくわかるのだ。クロリナさんもまた一般の庶民とは少し違うけれど、教会のシスターという立場上むしろ、直接言葉を聞いたりといった機会が多いはずだ。市場で服飾屋を営んでいるクロリナさんなら尚更だった。また孤児院の点からも、きっとそういった庶民の人々の間に流れる空気というものには敏感だろうと考えられた。
……というのも、孤児、というのは基本的に疎まれているという。まともに職にありつくことなど出来ず、犯罪に手を染めてしまう場合が多いからだ。ならば彼らを施設で養い、自らの営む服飾屋の手伝いという形で秘密裏に職に就かせているクロリナさんが、人々の雰囲気や風向きを把握していないわけがなかったのだ。
「その……まりあーなは、いま、どんな」
とはいえ、大っぴらに“マリアーナの人々に革命の機運はありますか”などと聞くわけにはいかないし、その必要もない。現況を聞けば、自ずとそれは見えてくるだろう。庶民側であるクロリナさんが貴族である私にそんな情報を渡すか、と本来なら考えるところなのだろうが、勿論そんなことは心配していなかった。私とクロリナさんは貴族と庶民である以前に少女とシスターであり、親しき隣人である。そんな危惧は失礼ですらあった。少し驚いたように口を半開きにしたクロリナさんはけれど、何かを理解したように結びなおすと再び唇を開けた。
「相変わらず飢餓の影響はありますが、フェアミール様……お嬢様の御父上の善政によって、人々はなんとか生活を送れています。一軒一軒お訪ねになられ、徴収が不可能だと判断され、税を免除された家庭もあります」
「……そっか」
「はい。皆フェアミール家に感謝こそすれ、お嬢様の抱いているような危惧はありません」
「えっ」
バレバレでした。……まあ、帰ってきて早々神妙な顔つきでこんなことを尋ねれば、何を危惧しているのかぐらいはわかって当然だろう。それも親交のあるクロリナさんだ。しかし流石に、計画を気取られた様子はない。私の心の機微を仔細に感じ取るベルさんと違って、クロリナさんはエスパーではない。これでバレるようなら、私はもう何かを隠すということを諦めた方がいいだろう。絶望的に下手なのは自覚しているけれど。
ともかく、父の奮闘によってマリアーナは比較的安全そうだ。苦しいことには変わりないのだろうが、庶民の人々もなんとか暮らせているらしい。この様子なら、いざ私たちが体制改革を謳って計画を実行した時も、きっと彼らは味方についてくれる。まだ判断するには尚早だけど、ひとまずホッと胸を撫でおろすことは出来た。後は、もう一人くらい庶民の人の声を直接聞いておきたい。……そうだ。
「あやめ」
「……どうかされましたか?」
「んあ……う、ううん」
思わず声に出してしまったが、そうだ。それなら丁度、師匠こと、ハングロッテさんがいる。学園に行く前に一度会ったきりの可愛い金狼、アヤメのこともある。明日か明後日か、父やベルさんに頼んで会いに行ってみよう。農園を経営しているのだから、飢餓などの状況についても、実感の伴った詳しい話が聞けるはずだ。……ああ、今からもふもふが恋しい。
「おしえてくれて、ありがと」
「いえ。それにしても、帰って来られて早々領地……いえ、庶民のことをお気にかけるなんて」
「ふえ」
感動とばかりにうるうる瞳を潤ませるクロリナさん。その腕がぷるぷると震えていて。
何か、雲行きが怪しい。というかこの状況、何度か身に覚えが――――
「デジャヴュ」
「ああ、お嬢様っ……! 貴女は本当に――――!」
「ぐえっ……!?」
ああ、やっぱり。
……ぎゅむ。私は窒息した。
予約の設定ミスで更新が遅れました。大変失礼致しました<(_ _)>