第3話 すれ違い続けた、その果てに
――――さん、……りす……さん……?
ぐらぐらと、誰かに体を揺すられている。聞いたことのない……いや、なんだか懐かしいような気のする声だ。少し喉の枯れたような男の声。ぼんやりと微睡みの中にある意識を少しずつ浮上させていく。薄っすらと光が視界に広がり始める。
「さん、有栖さん!」
「ぇ、あ……?」
真っ白に満ちた光が溶け消える頃、私はその男を認識した。真正面から私の肩を掴み、しきりに名前を呼んでいる。その後ろには灰色のどんよりとした天井が見える。どうやら、私は寝転がっている状態らしい。なんだ、もう朝だろうか。なら、もうとっくにベルさんたちは起きているだろう。ぎゅっと脇に落ちた相棒を抱き戻す。
「おはよ――――……えっ?」
いや、違う。待て。おかしい。一体、何がどうなっている。なんで……どうして私は、“コロニー”にいる?
そんなはずはない。“有栖”は死んだはずだ。過労による衰弱、そして何かしらの病気に罹り、突然死。そうだったはずだ。そうして私は、“アリス”になったはずだ。おかしい。目を開けた私を見てホッとしたように手を離した彼……同僚の顔を目にすることは、もう二度とないはずだ。これは、一体……。
「どうしました、有栖さん。……ああでも、本当によかった。もう二度と目を覚まさないかと……」
そのはずだ。私にとってこの世界は、失われたはずだ。
ダメだ、まるで状況が掴めない。これで冷静でいろという方が無茶だ。まさか、今までのことがすべて夢だったとでもいうのだろうか。王国が、ベルさんが、ミラさんや父やルナやみんなが、すべて死に瀕した私の夢で、今奇跡的に意識を取り戻した。……そんなわけがない。あって欲しくない。私は、アリスだ。
「ゆめ、これは、ゆめ……」
そんな切望に近い呟きが漏れて。そしてハッと気が付く。自分の声は、確かに少女のものだった。
……そうだ、よく考えれば今こうして恐怖に抱き締めたぬいぐるみ。相棒。私が初めて貰った、誕生日プレゼント。大丈夫。ほとんど目覚めてすぐの頃から常に傍に在ったこのぬいぐるみは、思い出の塊。この状況においてはいわば、私の存在証明に他ならなかった。思わず確かめた体は、やはり私……幼い少女のもので。鉛でも括り付けられているのかと思うほど重たい体をぐっと起こして、すらりと白銀の髪が目元を擽った。やはりこれは、夢?
「有栖さん、有栖さん……」
しかしどうも、単純に前世の頃の夢というわけでもないようだ。この体にも関わらず、彼は私をハッキリ有栖だと認識しているようだった。今までのすべてがただの泡沫だったという絶望が鳴りを潜め、ひとまず私は落ち着くことが出来た。母と話した時のように、私は今、意識を保ったまま夢をみているらしい。少なくとも、そう考えれば今のおかしな状況にもある程度説明は付いた。
でも、それはそれで困ったものだ。放っておけばいずれ目が覚めるのだろう……と、信じたいが、果たしてどれほど待てば夢が終わるのかなんてことはわかるはずもない。夢での時間と現実での時間がまったく同じ風に経つとは考え難い。もしかすれば次の瞬間にでも目覚めるのかもしれないし、逆に長い時間ここに囚われるのかもしれないのだ。それは……それは、恐ろしい。何もない暗闇でない分マシなのかもしれないが、それでも怖い。早く目を覚ましてベルさんに飛びつきたい。そんな情けない思いはそのまま顔に出たのか、彼……そう、確か、稲葉さんだ。稲葉さんはじっと、不思議そうな顔で私を見つめた。当然夢の中の人物との関わり方なんて知るはずもない私は、ただ言葉にならぬ混乱を漏らすだけだった。
「えと、ぁ……その……」
「有栖さん」
「ひ、ひゃいっ!」
「有栖」
「な、なんです、か……?」
記憶にある限り、常に敬語だった彼がいきなり呼び捨てになったのには違和感を覚えないでもないが、夢のことにとやかく言っても仕方がない。おかしいとすればそんな夢をみている私自身である。彼はそれ以上何も喋らず、再びじっと、私を見つめた。その黒い瞳は、酷く無機質に見えた。やっぱり、こわい。嫌だ、こんな夢早く抜け出したい。
「ありす」
「う、うぅ……?」
「アリス」
恐怖が苛立ちにすら変わり始め、抗議するように声を張ろうとして。しかし。がッと肩を掴んだ手に、続きは掠れて音にならなかった。なんだ、なに、なにするの。やめて……
「有栖、アリス。ありす。有栖。アリスありすアリス有栖アリスありすアリスッ――――」
「――――っ、ひッ!? いゃ、ぃやぁっ……!」
それは、最早人間の声ではなかった。何重にも重なっていく淀み濁った音。壊れかけの機械が鳴らすような不快な音が交じり合い、偶然言葉に聞こえているような、そんな“音”。わけのわからない、途轍もない恐怖に駆られた私は思わず目を瞑る。相棒を必死に抱き締めて、おわれ、おわれ、と自分の脳に訴えかける。こんな悪夢、早く終わって、と。
「……っ……、ん」
それが何かはわからない。しかしきっと次に起こるであろうそれに強張る体を縮こまらせて。……けれど、いつまで経ってもそのナニカは訪れなかった。気付けばあの不快な呼び声も止んでいる。状況を確認すべく、顔に押し付けた相棒の頭から片目だけを外に出して、恐る恐る。ほんの少しだけ、瞼を開いた。
「ぁ、……?」
そこには、何もなかった。人のような形をした何かも、それに代わるものも。何も、いなかった。ただ見慣れたコロニーの風景だけが、そこにあった。きぃ、きぃ、と視界の端で揺れる人力発電機の錆びたペダルの音だけが不気味に木霊していた。そして……。
「――――様、アリス様っ!」
……ぼうっと、天井を眺めた。
視界の四隅から伸びる柱、そこから垂れさがる薄桃の天幕。……なんてことはない。自室のベッドだ。私は、ベッドに寝転がっている。肩を揺するのは同僚などではなく、ベルさんだ。眉を垂れ下げ、心配そうに私の目を見ている。
「べる」
「はい、アリス様……申し訳ございません。とっても魘されておいででしたので、心配になってしまって」
「……そっか」
そうしてようやく、ベルさんが起こしてくれたのだと。あの悪夢から目を覚ましたのだと、理解し始める。どうやら、私はよほど魘されていたらしい。焦ったベルさんの表情が示す通り、衣服は乱れに乱れ、全身びしょびしょの酷い汗だった。まあ、あんな夢をみたのだ。そうもなろう。
「はっ」
……大丈夫。漏れてない。慌てて下腹部に手を回すが、そこだけ異様に水浸しになっているようなことはなかった。情けない水たまりは出来ていない。ホッと胸を撫でおろした。視線を戻すと、ベルさんはどうされましたか、と汗で張り付いた前髪を払ってくれて。それを確認したのには気付いていないフリをしてくれている。
「……ありがと」
「いえ……とりあえず、お着替えをご用意しましょっか」
「うん」
悪夢から起こしてくれたことと混ぜて感謝しつつ、身を起こして。着替えというワードに飛びつくように肯いた。帰ってきて早々に寝間着の洗濯という仕事を増やしてしまうのはとっても悪いのだけど、流石にこれでは気持ちが悪かった。ベトベトに張り付く寝間着を、手伝ってもらいながら剥がすように脱いで渡す。空気が汗を急速に冷やして、少し寒い。このままでは風邪をひいてしまうだろう。
「すぐにお持ちしますので」
「あい」
勿論、そんなことはベルさんもわかっている。ついでとばかりに脇に転がった掛布団用のシーツも腕に垂れかけ、早足で廊下に消えていった。すぐにタオルと着替えを持ってきてくれるだろう。
「あいぼー、ごめんね」
膝の上の相棒を拾い上げて、話しかける。当然といえば当然だが、相棒ももれなくしっとりと濡れていた。ベルさんは気を利かせて置いて行ってくれたけど、あとで相棒も綺麗にしてもらおう。私の汗で濡れたまま放置というのはちょっと可哀想だ。
「……へんな、ゆめ」
ああ、本当に。変な夢だった。一体全体どうしてこのタイミングで、あんな夢をみたのだろう。家へ帰って来た、というのが過去を想起させたのだろうか。なんにしろ、もうあまり見たくない夢だ。どうしてか、あの揺れるペダルの音を思い出すと寒気がする。聞いてはいけないような、そんな気がしてくるのだ。
「お待たせ致しました、アリス様」
「はやい」
いやほんとに早い。事前に準備してあったのではというくらいの手際の良さだ。部屋を出てからものの数分も経っていない。こういう時のベルさんは若干物理を超越していないだろうか。いや、魔法が存在するのだ。有り得なくもない。
「うんうん」
「何かの答えでも見つかりましたか? ふふ」
「へにゃ」
腕を組んでそう頷いていると、ベルさんはぷに、と私の頬を指で突いて。きょとんと首を傾げてみるも、失礼致しました、と微笑むばかり。特に意味もないスキンシップらしい。
「では、お体をお拭きしますね」
「うん」
ベルさんはそう確認すると、腕に掛けていた濡れたタオルを私の首元にくるりと巻いた。そのまま左右に擦るようにして首から肩までのバストアップが拭われていく。
「アリス様、ばんざーい」
「ばんざーい」
すっかりベルさんに浸透したその言葉のまま、両手を上げて脇を晒す。ベタベタして気持ち悪かったそこが、ひんやりと冷たい布地に清められる。気持ちいい。
「んあー」
「……では、お胸とお背中を」
「あい」
ばんざいを止めてだらりと腕を戻す。胸と背中が優しく擦られて、ちょっと擽ったい。ひんやりと細かな水滴が火照った肌を心地よく冷やす。汗で強引に冷やされるのとは大違いだ。それと同時に、心も落ち着いていくようだった。
「ふにゃー」
「はい、少し足を開いてくださいませ」
「あい」
そのままタオルは腰を超えて下半身へ。足の付け根や膝、汗の溜まりやすい場所はより丁寧に拭いてくれる。言われるがままに足を開いて、太ももから足先までをタオルがなぞっていく。
「では、水気をお取りしますね」
「うん」
全身の汗を拭き終わると、今度は乾いた布をぽふぽふと押し付けるようにして水気が吸い取られていく。首元、上半身、下半身。同じ順番でしっかり足先まで。タオルがしっとり湿る頃には、私の体はスッキリ清められていた。
「お綺麗です」
「ふえ」
「……間違えました。綺麗になりました」
「ありがと」
「いえ。冷えすぎない内に服を着ましょうね」
「あい」
くるくるベルさんに回されながら服を着る。気分はさながらお人形さん。そんな馬鹿なことを考えている間に、気付けば私はいつものワンピースを纏っていた。これも懐かしい。学園の寮住まいになってからは、いくら自室とはいえこんな薄手のものでうろつくわけにはいかず、寝間着もそれなりにしっかりしたものを着なければいけなかった。その分、多少寝苦しいものがあったのだ。でもここは館の、自室。完全にプライバシーというものが確保されている。そんなことは何も気にしなくていい。解放感にも似た心地よさがあった。
「と……少し早いですが、朝食に致しますか?」
「んー」
使ったタオルを畳んで拾い上げながら、ベルさんは尋ねた。朝食か。どうしよう。お腹を擦りながら、その空き具合を確かめる。正直、あんまり食欲がない。朝からあんな悪夢をみたせいだろう。でもだからこそ、きちんと朝食を食べてリフレッシュするべきでもあった。悩んだ末、控えめにコクリと一度だけ頷いた。
「……畏まりました。お部屋にお持ち致します」
それだけで悟ってくれたベルさん。不意にタオルを床に置くと、その手はそっと私の髪を撫で梳いた。ん、と小さく戸惑いを零しながら。それでも手を払うような気には、全くならなかった。
「嫌な夢を、みられたのですね」
「ぁう」
言葉ですらないそれを曖昧な返事と呻くと、ぎゅぅ、とその胸に抱きしめられた。あやすように背中を撫でつける手に、即座に眼が蕩けてしまう。
「べる……」
やはり最近、ベルさんとのスキンシップが増えているように思える。
それはベルさんからだけではなく、私からも、だ。
……もう、主従という言葉で収めるには流石に無理を感じ始めている。
きっとそれは、ベルさんも同じだろう。
「……こうしていれば、少しは良い気分になって頂けますか?」
「うん。……しあわせ」
「アリス様……」
そこでベルさんは言葉を詰まらせた。早まる胸の鼓動が、直接私まで響いている。後ろ髪を梳き上げるその手つきは、何処か迷いを感じるようなものだった。……私だって、馬鹿じゃない。いい加減、気付き始めている。私がベルさんに向けているこの気持ちに。ベルさんが、私に向けているその気持ちに。でも。
「失礼します! クロリナさんがアリス様にお会いになりたいと……あっ」
……でも。きっとそれは、表にするべきものではなくて。そうしてしまえば、私もベルさんも戻れなくなるのは、何よりもそれを優先してしまうようになるのは考えるまでもなくて。だから、少なくとも、今はまだ。互いにそれに、気付いているのだとしても。
「……お昼の休憩、抜きですか?」
「いえ……、ありがとう」
知らないフリをしておくべき、言葉なのだ。
次回更新は本日18時です。