第2話 雪解けなくして
「おいし」
「はは、好きなだけ食べろ……と、本当は言いたかったのだがな」
「ううん。たくさんたべられないし、わたし」
「……そうか」
積もる話もそこそこに、まずは昼食にしようということで、私は久しぶりの広間でこきゅり。カップの水で喉を潤した。少し表情を暗くした父を慰めるように、笑顔に大丈夫、と言葉を込めて。実際、私は小さな体のことを鑑みて、しかしそれにしても小食である。学園の食堂ではシェフが気を利かせてくれて、入学当初はともかく一週間経つ頃には私に合わせた少なめの盛り合わせにしてくれていたりもした。尤も、それに気づいたのは最近だったが。まったく、みんながみんなそうやって配慮し合えばきっとここまでの事態にはならなかっただろうというのに。……なんて、嘆いてみても仕方がないけど。
「んふー」
ほくほくと程よく熱いスープに舌を包む。やっぱり、家のご飯が一番だ。純粋な料理の味という点では勿論食堂の方に軍配が上がるだろうが、やはり体が求めるのは家の味である。食事とはただ腹を満たすだけの行為ではない。当然、食事の質というものも料理だけで構成されているわけではない。一緒に食卓を囲む人たち、リラックスできる空間。そして最後に、料理なのである。あとはお腹の空き具合。環境がすべて完璧でもお腹がいっぱいではどうしても苦しさが勝る。
「おいしいー」
「光栄です、アリス様っ」
本当に嬉しそうに応えてくれたのはカルミアさんだ。彼女もマリアーナ・アイリスの一員として諜報活動に従事していることを今の私は知っていたので、何か危険な任務やらで怪我を負ったりしていないかと、とっても心配だったのだ。……いや、知っていたというのは少し語弊があるかもしれない。正確には、少なくとも母が存命時までのフェアミール家のメイドさんは全員諜報員であることを遺してくれた記憶から知ったので、ならば後から来たカルミアさんとてその例に漏れぬはずだ、という推測である。ラブリッドさんの娘で、更にミラさんと友人であることから考えても、まあまず間違いないだろう。昔からベルさんのことを“マム”と呼んでいたのが何よりの証拠だった。
「……それで、色々と聞いてもいいか。アリス」
「んきゅっ……ん、もちろんっ」
「ありがとう。疲れてるだろうに、すまない」
「うん」
確かに、疲れていないと言えば嘘になる。数日掛けて王都から戻ってきたところなのだ。見学の際に無理やり荷台に乗って揺られた時よりはマシだが、それでも長時間馬車に乗るのは結構疲れるのだ。しかしこれもまたラブリッドさんの気遣いなのだろう、私の乗ってきた馬車は布や獣毛が敷かれていて柔らかく、出来るだけ体に揺れが響きにくいような加工が施されたものだった。授業で少し齧った馬や馬車の相場から考えるに、恐らく小さな家を建てられるくらいの値段はする代物なのではないだろうか。装飾は控えめだが、本来王族が使うようなものだろう。ルナは家……というか王宮が王都にあるから馬車が必要ないのだとロジック的には納得していても、いざルナが立って見送ってくれる目の前であの馬車に乗り込んだ時は流石に気が退けたものだ。
……とまあ、それは置いておいて。そのおかげで今すぐ突っ伏して眠りたいというほどの疲労ではなかったし、何より私自身、久しぶりに父やみんなと色々話したかった。ルナのことや、嫌われていた子と和解できたこと。祖父のことや授業で学んだこと、学園祭のこと。それに、あのデモのこと。話すことはいくらでもあった。きっと今日一日では、語り切れないほどに。だから、それを断る理由など一つもなかったのだ。
「ますは、そうだな……学園生活は、どうだ?」
「んー」
一つ目は、中々難しい質問だった。学園の生活の内であったこと一つ一つを尋ねられるのであればすぐに答えられるが、それらを総合してどうだと聞かれると、少しまとめるのに時間がかかる。何も、すべてが良いことばかりというわけではなかったからだ。時間にしてみればたった数ヶ月の学園生活を振り返って、こくりと一つ、不安そうな父に頷いた。
「とっても、とってもたのしかったよ。たくさん……いろいろなこと、おしえてもらった」
……そうだ、楽しかった。嫌われたり孤立したり、いやがらせを受けたり。授業でわからないところがあったり、初めて舞台を演じるのに泣きそうなくらい緊張したり。或いは涙を流しながら、庶民の人たちに頭を下げて訴えたり。良いことばかりではなかった。でも、楽しかった。そんな未知の日々が、何より、運命と言ってもいい出逢い。初めての友人。親友。そんなルナと手を繋いで歩く毎日が、楽しかった。だからこそ、どうしようもなく笑顔が歪んだ。悲しい気持ちが溢れてきて、必死に抑えようとしても次から次に。私の感情は雪崩を起こした。
「ぁ、れ?」
「アリス……!?」
ごしごし、ごしごし。
掌が濡れた。
ごしごし、ごしごし。
……頬が濡れた。
どうして……いや、だから、なのだろう。楽しかったから。とっても、たのしかったから。だからそんな日々がもう戻らないかもしれないというのが、悲しくて仕方がなかった。どうしても、涙が止まらなかった。こんな、こんなつもりじゃなかったのに。楽しいことたくさんあったよって、おともだちができたよって、父を、カルミアさんを、みんなを笑顔にするつもりだったのに。
だめ、だめ。泣いちゃったら、みんな悲しくなるから。だめ、なのに。
「――――ぁぐ、う……ひっく……」
ああ、ああ……。溢れだす濃密な日々。ルナの沢山の顔。やはりきちんとお別れ出来なかったのが拙かったのだろうか。怒涛の状況推移に整理が付かぬままこうして、館まで帰ってきて、いざ父と顔を合わせ。ようやくそれが追いついたらしい。親友や祖父と別れるのが悲しいという、当たり前の感情が。
「るな、るな、ぁっ……ひっ、ぅ、やだよ、もっと、もっといっしょに、……」
「アリス様……」
なんて、なんて私はわがままなのだろう。こうしてベルさんやミラさんに、父に、カルミアさんに、みんなに囲まれているというのに、それでも寂しいと泣いているのだ。もっと祖父やラブリッドさんと、ステラさんと、ルナと。一緒にいたいと、泣いているのだ。もしかしたら、あの日が顔を合わせられる最後の日だったのかもしれない。そんなどうしようもない不安が、急速に心を満たしたのだ。後ろからそんな私の頭を優しく包み込んでくれたのは、やっぱりベルさんだった。
「大丈夫、大丈夫です。きっと……いえ、必ず、また会えますから」
「べる、……」
「大丈夫ですよ、アリス様」
そう宥めてくれるベルさんの表情は、結局見えぬまま。そのまま暫く、ただ泣き続けた。大声で喚くのでもなく、ぶつぶつと嘆くのでもなく。ただ涙と嗚咽だけを漏らしてベルさんの腕の中で泣き続けた。それでもみんなは、待っていてくれた。私が落ち着いて再び声を発するまで、ただ待っていてくれた。それがとっても、有難かった。
「……ごめんなさい」
「気にしなくていい。むしろ謝るのは私の方だ。辛い質問をしてしまって、本当に悪かった」
「ううん」
頭を下げようとする父を慌てて手で止めて。どうやら酷く罪悪感を与えてしまったらしい。それもそうだろう、質問をした途端目の前で泣き出してしまったのだ。だが、確かに切っ掛けにはなったかもしれないが、きっとどんな質問でも、或いは何も聞かれなかったとしても、ベッドで眠る頃までには同じことになっていただろう。父が悪い部分など一つもない。
「少し、落ち着かれましたか?」
「う、ん」
ベルさんは、ある程度嗚咽が収まったのにそう確かめるとまだ緩く抱え込んでいた頭から腕を離し、赤く濡れた頬を拭ってくれて。チラリ、バツの悪いような心持ちで父の方を見た。私が泣き出したせいで止まってしまったが、まだ話は途中だったのだ。すると父はすぐに察したのか、優しく微笑みを浮かべて。
「話はまた明日でも、別の日でもいい。心が落ち着いて、話せそうになったら。その時にまた話してくれるか?」
「……うん」
でも、とは言えなかった。父の心情を考えれば、本当は今すぐにでも話が聞きたいだろう。学園でどんな生活をしていたのか、何があったのか。デモの時、どうしていたのか。その幾つかは情報として知っていたとしても、それでも私の口から直接聞きたいことはあるだろう。私にとって父が父であるように、父にとって私は娘なのだから。だけど、父の言う通り、今はあまり、上手く話せそうになかった。一通り泣き終わって、ドッと疲れが押し寄せて来たのだ。体ではなく、心の、だ。今すぐにでも布団を頭まで被り込んで寝てしまいたいくらいだった。
「すっかり冷めてしまったな」
と、再び手を付けやすい空気にするためか、父がスープを啜りながら言った。でも、敢えて食事に戻ろうとは言わない。私がどちらの行動も選びやすいようにだろう。このまま食事を続けるのか、それとももう部屋に引っ込むのか。勿論、食事を続ける方を選ぶ。部屋へ行きたいのはそれとして、折角作ってくれたご飯を残すのは論外である。それも、この危機的な食糧不足の現状でだ。父に続いて、私もスープを啜る。
「おいしい、ね」
「……ああ、美味しいな」
結局それ以上の言葉は出てこなかったが、不思議と壁は感じていなかった。気を遣って黙ってくれているだけで、私が話しかければすぐに乗ってくれるだろうことをわかっていたからだ。……数年前までなら、不機嫌にさせてしまった、なんて勘違いしてしまっていたかもしれない。でも、今は私も、ほんの少し愛情というモノの意味を理解していた。好きは誰かに向けるものだが、愛してるは誰かと向け合うものだ。相手にそれを向け、相手もそれを自分に向けていると信じられてこそ、その言葉は成立するのだ。
……それがどれほど尊いことか。自分を好きでいてくれている、愛してくれていると信じるのが、どれだけ難しいことか。身を以て知った私は、なればこそ。いつか初めて対面して話したあの日、それでも愛していると言ってくれた父のことを愛していた。私も愛してると、まだ照れくさくて言葉には出せないけれど、それでも心の中で自信を持ってそう思うことが出来た。直接言葉を聞いた父だけじゃなく、沢山の人が私にそれを向けてくれているのに、気付くことが出来た。想いに順序なんて付けたくないけれど、それでも、世界で一番大切な人……ベルさんが、或いは父以上に私のことを愛してくれているのだと、そう信じることが出来ていた。
「あたたかい」
そしてだからこそ、冷めたスープは温かかった。冷めているが故に、より強く食卓の温もりを感じられたのだ。最後の一口をしっかりと染み込ませて、胃に落とした。じんわりと湧いてくる幸福感が、不安を溶かして温めた。この後しっかり眠って目覚めた頃には、きっと少しは落ち着いて話が出来るだろう。生活のことも……革命のことも。食事や睡眠が癒す疲労は何も、体のものだけではないのだ。
「ごちそうさま、でした」
いつものように、いや、心なしいつもより深く。両手を合わせて、そう感謝する。確かめるまでもなく、父も両手を合わせて同じ言葉を呟いていた。はふ、といっぱいになったお腹を一撫で、膝の上の相棒を抱いて椅子から下りる。不安気に見ていたカルミアさんに、自信満々に胸を張ってみせた。ふふん。もう一人で安全に下りられるよ!
「かわいい」
「ミランダさ……違いました。カルミア」
「今回はきちんと心の中に留めました」
何事か抗議するミランダさん。その横でベルさんが何やら、口に出さずに心の中で愛でなさい、従者の心得です、などとよくわからない説教を始めたのにカルミアさんが真剣に聞き入っていた。どうしようと見つめた先で、お手上げだとばかりに父が苦笑した。まあでも、どの道私たちがいつまでもここにいてはベルさんたちが昼食にできない。大人しく久しぶりの自室に帰るとしよう。荷物は館に着いてすぐに馬車から降ろされ、メイドさんたちが既に部屋に運んでくれていた。
「部屋まで送ろう、アリス」
「ありがと、おとおさまー」
テーブルを回り、父の隣まで移動すると差し出された手を握って。遂には謎の講義を始めたベルさんたちと、どう対処するべきか困ったのかただ無言でそれを見つめるメイドさんたちという光景がちょっと面白くて、軽く口元が緩んだ。階段に足をかけたところで部屋に戻ろうとする私と父に気付いたベルさんたちが慌てて着いて来ようとするのを大丈夫だ、と父が制すのを横目に。転ばないように気を付けながら階段を昇っていく。
「アリスは、本当にそのぬいぐるみが好きだな」
「うん。あいぼーなの」
「はは、そうかそうか……」
他愛もない話をしながら二階の踊り場まで差し掛かったところで、父はそうだ、と何か思いついたように私を見た。なあに、と視線で返す。すると少し伺うような声色で。
「……ベルが食事や所用を済ませるまで、本でも読んでやろう」
「ふえ」
仕事は山ほどあるだろうに、なんとなく寂しさを覚えていたのに気付いたのか、そんなことを提案してくれて。まったく、少し前までは一人で部屋にいるなんて苦でもなかったのに。わがままなものである。
「どうだ、一緒に部屋に行ってもいいか?」
……でも、事情はともかく、数ヶ月ぶりに家に帰って来たのだ。父が時間を取ってくれると言っているのなら、それに甘えてしまうのもいいだろう。
「……うんっ!」
「よーし! 何か読みたい本はあるか?」
「あのねあのねー! かえるときにがくえんからかりてきたほんがあるの――――」
ベルさんが祖父から許可を貰ってくれて、図書室から持ち帰って来た何冊かの本を思い浮かべて。そうだ、それならルナがおすすめしてくれた“女王と司祭”という本を読んでもらおう。なんでも、クララ女王という数百年前の王様と、その親友のベネデッタという司祭が繰り広げる恋愛物語だという。ルナ曰く、捏造だけど結構面白いとのことである。
……思ったよりもかなり“恋の描写”が濃密で、父をとんだ窮地に陥れることになったというのは、また別の話。
次回更新は明日の12時です