第1話 帰路
私は馬車に揺られていた。丁度王都まで出張っていたらしい白百合騎士団の人たちに前後を護衛されながら、ベルさんと二人、いや相棒と三人、手綱を持つミラさんの背中越しに帰路を眺めていた。
あの計画を聞いた翌々日、すぐに学園の閉鎖は実行された。生徒全員に説明を終えた祖父たちはそのまま、各家庭に早馬を走らせたらしい。私の故郷、マリアーナは学園に通う貴族の中では王都から一番遠い位置にあるが、こうして道中で何泊かしながら、荷物を持って向かう私たちよりは先に着いてくれることだろう。具体的には伝達の一日か二日遅れくらいだろうか。つまり途中で伝達の人にハプニングなどが起こっていなければ、今頃はもう私たちが帰ってくるというのは館に伝わっているはずだ。それでも急なことなのには変わりないが、少しは迎え入れの準備が出来るはずだ。玄関先でバタバタと混乱するというようなことは起きないだろう。……いや、バタバタはするかもしれないけど。
「べるー」
「はい、アリス様」
ぼうっと空を眺めて。私は、きちんとお別れも出来なかった親友を想った。勿論、旅立つ当日、ラブリッドさんが用意してくれた馬車に乗り込む私を見送りはしてくれたが、それでもついぞしっかり向かい合って言葉を交わす機会はなかった。私がルナと間近で目を合わせて会話が出来たのは、あの決起の場が最後だった。それ以降は各々帰宅の荷造りなどに時間を取られ、別れ際に一言ずつ交わすくらいしか出来なかったのだ。それでも、“またね”と互いの気持ちを確認し合えたのは大きな支えになっているが。
「るな、だいじょうぶかな」
「……王女殿下なら、きっと大丈夫です。王都にはラブリッド様もマッグポッド様もいらっしゃいますし、常に傍にステラさんと親衛騎士の方々も付いておられますから」
「そっか。……うん、そだねっ」
さすりと背中を撫でながら優しく微笑んでくれたベルさんに、少しだけ気が軽くなった。そうだ、私にベルさんたちがいるように、ルナにもステラさんたちがいる。そう考えれば、寂しいことには違いないけれど、それでもルナが孤独に潰れてしまうのではないか、という心配は和らいだ。そういえば、図書室での一件で新しく友人になったあの少女も、王都近くの在住だったはずだ。
……うん、大丈夫。ルナにはルナの、しなくてはいけないことがある。だから私も、私のするべきことをしよう。きっとどの道、そう遠くない内に再開することになるのだ。その時に何サボってたのよ、なんて言われないように頑張ろう。
「がんばらなきゃね」
「そうですね、アリス様。でも、くれぐれも過剰な無理はなさらないでくださいね?」
「うん。きをつける」
チラリ、と。振り向かないながらも、その一瞬。ミラさんも会話を聞いていたのに気付いた。ベルさんと同じことを心配してくれているのだろう。なにせ前科は山ほどあるのだ。本当にごめんなさいとしか言いようがない。いつもはこうして意識していても、いざとなると体が先に動いてしまうのだ。そもそもの“無理をする”の基準がズレているというのもあるかもしれない。前世で染みついたあの労働環境を思えば、十分に考えられることだった。今はこう言いながらも、結局また何処かで私はベルさんたちの言う過剰な無理というものをしてしまうのだろうか。できればそんな時が来なければいいな、と切に願うばかりである。今までを顧みるに、私がそういったことをする状況というのは即ち、大切な人たちが危険に晒されているということだからだ。
「……ぁ」
「アリス様?」
少しだけ落とした顔に、雲が切れたのか、眩しい光が射す。手で目元へのそれを遮りながら、なんとなく周囲を見渡して。ふと、デジャヴュを感じた。そういえばこの道、見学や入学の際に何度も通った道だ。遠くに湖が見え、左右は草原に囲まれている。記憶が確かなら、比較的マリアーナから出てすぐに目にしたはずの景色だった。
「このみち、おぼえてる」
「ええ。もうすぐマリアーナですよ、姫!」
この約三日間、ずっと手綱を握っていたというのに、まだまだ活力を保った声でミラさんが応えた。無論私が心配しないようにという気遣いもあるのだろうけれど、やはり私などとは体力が違う。流石騎士様だなぁ、なんてちょっぴり今更な感想を抱きながら。
「とおさま、しんぱいしてるかな」
実際にはたった数カ月だというのに、もう長い間会っていないような気のする父の顔を思い浮かべた。私のどんなわがままにも応えてくれる、ちょっぴり不器用だけど優しい父。わしゃわしゃと髪を搔き乱すあのゴツゴツの手が、なんだか無性に恋しかった。
「かるみあ、げんきかな」
そして明るい赤毛が印象的な、私の魔法の師匠。カルミアさん。教鞭を受けた期間はそれほど長くはなかったけれど、それでも私が今、魔力をそれなりに操れるのはカルミアさんが段階を踏んで実践的なそれを教えてくれたからだった。
――――ああ、そうか。
いつかカルミアさんが私に相談してくれた、想いを伝えたい家族というのは、今思えばラブリッドさんのことだったのだ。母の遺してくれた記憶が答えをくれた。……いや、そっか。ラブリッドさんとは家族ぐるみでの付き合いだったわけだ。初めて会った時から妙に目を掛けてくれていた理由が、なんとなくわかった気がした。なるほど、そういうことだったのか。もしかすれば、彼にとってそんな、家族にも近いような親友たちの娘である私のことを、同じく家族のように思ってくれているのかもしれない。加えて言えば、娘であるカルミアさんの主でもある。元より気にならないはずもなかったのだろう。ラブリッドさんに感謝しているのは、今回の馬車と護衛の人たちだったり色々と手を回してくれるのもそうだけど、やっぱり一番はミラさんを私の親衛騎士に就けてくれたことだ。こうして側で微笑みかけてくれるのが日常として染みつくほどに心を許し、そして好意と信頼を向けあっているミラさんとの出逢いは、ラブリッドさんなくしては無かったのだから。
「……くろりなさん。ししょー。あやめ」
次々と、私の脳裏にマリアーナの思い出が起こされていく。すっかり、マリアーナが私の故郷だった。そう認識していた時間で言えばほんの四年ほどでしかないのに、私はあそこが自分のルーツなのだと、すっかり馴染んでいたのだ。どうしてだろうか。少し不思議な気分になりながら、じーっと視線を感じるのに意識を引き戻した。
「……アリス様? 大丈夫ですか」
「う、うんっ。だいじょう――――ふぎゅっ」
ぎゅむ。大きくて柔らかいナニカに、視界が完全に覆われた。……おっきい。がるる。というのは置いておいて、唐突にベルさんが私を抱きしめた。なんとなく感慨に耽っていたのを、寂しがっているとでも取られたのだろうか。左右に頭を振って何とか首から上を脱出させ、きょとんと尋ねるようにベルさんを見た。
「ふえあ」
「……いえ、申し訳ございません。何だかぼーっと、そのまま消えてしまわれそうな気がしまして」
「ここにいるよ」
「はい、きちんと腕の中に感じます。ベルも、ずっとアリス様の傍にいますからね」
「えへ」
今度は自ら、甘えつくようにベルさんの胸に顔を埋めた。そしてそんな自分に、違和感は抱かなかった。どうも、母の記憶を受け継いでから精神が不安定だ。いや、精神というより、自我が不安定と言うべきだろうか。自分が自分でないような、それでいてはっきりと自分だと認識しているような……ずっと裏に隠れていて、自分でも知らなかった自分が表に出てきているような。言葉で表すには、それが限界である。兎にも角にも、“幼い童女”を“演じる”必要がなくなっていた。元よりそうであったかのように、気が付けばこうして本当に六歳という年相応の言動を取ってしまう。精神が体に引っ張られているのだろうか。……なくはないだろう。でも、それも少し違う気がした。
ベルさんの手が優しく後頭部を撫でつけるのに身を委ねながら、朧げにそんなことを考える。と、不意にその手が止まった。薄く開けた目で見上げた先で、ベルさんが困ったような、心配するような表情を浮かべていた。私はまたも、首を傾げて尋ねる。
「……どしたの?」
「いえ……。――――アリス様は、アリス様ですよ」
「ぇ、ぁ……う、うん」
心を読んだかのように的確な言葉にビクリと肩が跳ねそうになった。けれど少し遅れて、ベルさんはどうも、私が“聖女”という肩書を背負うことになったのに関して言っているのだと察して。より一層強くなった腕の力に、大丈夫だよ、と抱き返すことで答えた。そのまま暫く、優しい陽の光の下で。私とベルさんは、何を言うでもなく、ただ抱き締め合っていた。
「こほんっ。そ、その……姫、ノクスベルさん……」
やがて前から聞こえたミラさんの声に、ようやく意識が外に向いた私とベルさん。ハッ、と、互いに慌てたように抱き締める手を離して。真っ赤に染まった頬を光に誤魔化しながら、今更馬車に天井も壁もないことを思い出したのだ。
「きゃー……! 見た、見たっ!?」
「熱々ね、ステキ!」
ぼそぼそと背後を護衛してくれている二頭の馬上から聞こえた声が、妙にはっきりと耳に入ってしまって。相棒に顔を埋めて隠しながら、それでも体はぴったりとベルさんにくっつけて。結局それから館に着くまでの数時間、その熱が冷めることは一度もなかったのだった。
「学園閉鎖。庶民の蜂起……か」
義父上の送ってくれた早馬から得た情報を反芻しながら、重い頭を項垂れさせた。庶民の間でそういう機運が急速に盛り上がっているのは勿論私も把握していた。ここマリアーナを治める一領主として、その住民の大部分を占める庶民の情報は当然知っておかねばならない。であれば、マリアーナどころか王国全土の庶民の間で広がる不満を私が知らないわけはない。何より、元は庶民、それも最底辺に位置していた自分が、その感情を理解していないはずがなかった。“富”を生産している自分たちが、それを享受する側の貴族たちにここまで一方的に搾取されるのはおかしいと。それが世の中の仕組みなのだとしても、ならばその仕組みが間違っている、と。私とて昔は何度も思ったことだ。そこに来てここ数年の危機的な不作。それでも王国中枢の方針は変わらず、税の徴収額も例年通り。どころか足りない納入分を強制労働で賄わせるような例もあるという。不満が爆発して当たり前だった。むしろ、未だになんとか国家という形が維持されていることこそ奇跡というべき。近い内に全土規模での“それ”が起こるだろうことはもう自明の理だった。
……最早限界である。そんなことはとっくにわかっていたことのはずだ。税を減らす、それでも日々の生活が立ち行かない家には食料等を供出する。私がマリアーナ領主として出来ることはすべてやってきたつもりだが、それでも限界がある。所詮私がそれを行えるのは“マリアーナ”の中だけでしかない。加えてフェアミール家としての王国中枢への納入もある故、どうしても緩和が出来ない部分もある。それに、感情的には反発を抱きながらも、同時に恩義からそれを表立って発することも出来なかった。曲がりなりにも私が今こうして毎日の糧を得られ、アリスを学園に通わせるといったことが出来るのは王国中枢によって与えられたこの貴族、領主という地位と褒賞の数々のおかげという面があったからだ。
「ままならんものだな」
こんなことならやはり貴族の地位など、などと愚かな考えさえ浮かび上がる。あの時そんな選択をしていれば、アリスはいなかったかもしれないというのに。“フォン”の称号を受け取ったからこそ、今がある。それは不可逆なのだから。しかしそれにしても、辛いものだ。ハッティリアという個人としては、蜂起に――――あくまで現体制を変えるという意味でだが――――賛同を感じる。しかしフェアミールとしては、それを鎮圧せねばならない。そして父親としても、アリスに危害が及ぶような事態は何がなんでも避けなければならない。まるで自分が三つに分裂したかのような気分だった。その中で一番強い思いは勿論迷うまでもなく、アリスの身の安全を確保する、引いてはあの娘を幸せにしてやりたいという気持ちだ。最早それが私の生き甲斐と言ってもいい。向かい合うことから逃げていた数年前までの自分をぶん殴ってやりたい。ならそれを最優先すればいい……という単純な話ではないのが最大の悩みだった。つまるところ、このまま貴族として王国中枢に着くのか、それとも庶民側に立って体制の変革を目指すのか。どちらを選べば、娘を幸せに出来るのか。それがわからなかった。
確かに幾ら腐敗しているとは言えど、いやそうであるからこそ、起こるであろう此度の反乱を事前に防ぐことは出来よう。しかし、それまでだ。その一度を無理やり鎮圧したところで、更に火種が大きくなるだけ。その次は、今度こそ防げない。かといって勢いに呑まれた蜂起の流れに乗ったとして、アリスの安寧が確保されるとも限らない。……私たちが、“貴族”だからだ。幾ら味方に付くような言動をしようと、納得しない人々は必ず一定数いる。熱に侵された彼らがどんな行動に出るか、アリスがどんな仕打ちを受けるかなど、想像もしたくない。それにアリスは、親の贔屓を抜いても見目麗しい。私などよりも遥かに惨いことになるのは目に見えていた。それほどまでに“庶民”と“貴族”の確執は深い。
「……ハッティリア様、その」
やはり堂々巡りの考え、頭は更に重く沈んでいく。どうにもならないのではないか、などと諦観が湧きそうになるのに苛立って、いつの間にか固く握りしめていた拳を机に打ち付けそうになる。やがてぴくりと動いた手を宥めるように包んだのは、白く細い少女の手。……ああ、そうだった。どうやら今の私は、部屋に入って来た従者にすら気付かないほどに視野が狭まっているらしい。
「……ああ、カルミア。すまない」
「い、いえっ……私も、とても抑えられないような気持ちを抱いています」
そういったカルミアの頬は確かに、何かを堪えるようにぴくぴくと震えていた。カルミアだけではない。その後ろから私を伺う、普段は私情の露出などまったく見せたことのない優秀な従者たちも全員がだ。
「ふ、ぅ……」
……どの道、こんな心境ではまともな考えが浮かばない。現に先ほどから私は堂々巡りに嘆くばかりで、ろくに打開策の模索もしていないではないか。手元のカップを呷るようにして喉に押し込み、一つ大きな呼吸をする。少し頭を冷やそう。あれこれ考えるのはそれからだ。何より、私一人が勝手に決めていいような話ではない。まずはその当人、最愛の娘と、きちんと面と向かって話し合わなければ。
「それで、どうした。カルミア」
「はいっ。今、アリス様の帰路の護衛を請け負ったという白百合騎士団の方が一人、アリス様たちが間もなく此方に到着するとのことで先んじて連絡に来られまして……」
アリスがもうすぐ、帰ってくる。娘の顔を、もうすぐ見ることができる。
それだけで全身を粘っこく覆う重力が流れて消えていった。言葉を聞くや否や顔を上げ、すぐに立ち上がった。出迎えの準備をせねば。少なくともこんな顔で、不安の中帰宅した娘を迎えるわけにはいかない。
「此方を」
「……すまん」
頼む前に用意された水で顔を洗い、そこまで焦る意味はないというのに乾いた布で乱雑に拭った。そのまま早足で階段を下りて広間に向かう。何も言わずとも、カルミアたちは次々と準備に向かってくれた。
「……よし。どうだ、変なところはないか?」
「ええと、はいっ! 大丈夫だと思います!」
そわそわ、そわそわと落ち着きなく待つこと十数分。ご到着なされました、と従者の一人が伝えるのをすべて聞き終える前に扉から館の外へ飛び出した。慌ててカルミアが後ろを追ってくる。脇目も降らず向かった先で、前後を騎士に護衛された馬車が一台、止まっていた。まず降りてきたのは水色と、黒の髪。それを揺らして慌てたように敬礼したミランダに、あまりの剣幕だったかと幾分か気を落ち着けようと試みる。
「……ミランダ、ベル」
「ただいま戻りました、ハッティリア様」
「あ、あぁ」
本当なら彼女らに労いの言葉を掛けるべきだったろう。
しかし私の意識は、すべて。ベルが手を引き、抱き上げて馬車から降ろした、眩く照り返す白銀の愛しい光に向けられていて。そんなことにすら頭が回らなかった。きっと無事だとはわかっていても、どうしようもなく不安だったのだ。……当然だ。娘が危険な目に遭ったと聞いて、心配しない親が何処にいようものか。既に帰路に着いていると聞いていなければ、仕事など放っぽり出して真っ先に迎えに行っている。
「ああ……」
そのすべてを包み込むように、清く解き流すように。
月のような黄金が、雪花の可憐と咲いた。
「――――ただいま、おとおさまっ!」
……ああ。
――――おかえり、アリス。
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