第15話 嚆矢濫觴
「アリスー?」
ミラさんが部屋を出てしばらく、ベルさんとぼうっと話していたところへ、ノックの音が響いた。続いて聞こえたのはここ数ヶ月で聞き親しんだ親友の声。ルナだ。ミラさんにお願いしたぜひ来て欲しいという伝言が早くも伝わったのだろう。時間的にはたぶん、みんな丁度授業が終わって食堂で一息ついているくらいか。どうやら授業が終わってすぐに来てくれたらしい。……いや、でも、それにしても大分早い。まだミラさんが出て行って一時間経つか経たまいかといったくらいなのに。余程心配してくれていたのかな。
同時に声の主に気が付いたベルさんが私のベッドの端に下ろしていた腰を上げて、扉の方へ。私も膝にかけていたシーツを除けて、相棒は抱いたまま両足を床に着けた。
「はい。王女殿下ですか?」
「ええ。私の親衛騎士の一人から伝言を聞いたから。……アリス、起きてる?」
「失礼致しました。はい、起きていらっしゃいます。お待ちしておりました」
ベルさんがそっと扉を開いて、廊下の空気が流れ込んでくるのに合わせて立ち上がる。扉の隙間の向こうにルナの金髪が揺れて、私はペタペタと靴を履くのも忘れて駆け寄った。開いた扉の向こうにはルナと、勿論ステラさん。その更に隣、丁度ここからでは死角になるそこに誰かの鎧が見切れている。親衛騎士の人だろう。きっと邪魔をしないようにと態と自分の姿が映りこまぬようにしてくれているのだ。気遣いを無碍にせぬように小さな声で、届くかわからないけれどありがとうと一言だけ彼宛てに呟いて。それから改めてルナと目を合わせる。
「るな!」
「……アリス」
ルナは笑顔で名を呼ぶ私を認めるとホッと安心したように優しい微笑みを浮かべ、同じように名前を呼び返してくれて。それだけで胸がじんわりと温かくなった。そんなに長く離れていたわけでもないというのに、感極まった心の衝動の赴くままに私は更にペタペタ走り寄った。少し驚いたように目を丸くしたルナを上下に揺れる視界に収めながら、思いっきりその胸に飛び込む。勢いをつけすぎたか、くらりと体勢を崩したルナのその背をステラさんがさっと支えて止めた。
「わ、わっ……!?」
「るなー!」
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ。アリス?」
「えへー」
「ぐっ……ああ、もう。ずるい子なんだから。……よしよし」
戸惑いながらも、しっかりと背中に手を回して頭を撫でつけてくれるルナ。そういえば、手を繋いだり、スキンシップ自体はいつもしていることだけど、こんな風に抱きついてみるのは初めてだったかもしれない。けれど、照れくさそうに頬を赤くしはするものの、嫌な顔もせずにそれを受け入れてくれるのが嬉しくて。余計に浮ついた気分になった私は頬をその肩に擦り付けた。ぴしっとルナが固まった。
「と、とととりあえず中に入れてもらえないかしら! 誰かに見られでもしたらとんでもない勘違いをされるから!」
「んぅ。あーい」
「……罪なお方で」
「……ええ、申し訳ございません」
無表情ながらもちょっぴり呆れたようなステラさんと、苦笑するベルさんがそんな会話をするのを横目に、ルナの手をきゅっと引いて部屋の中へ。甘んじて私の少し後ろを歩きながらも靴くらいきちんと履きなさいと叱るのにごめんなさーいと気の抜けた返事をしつつ。
「いらしゃい!」
「うん、ありがとう」
と、きょろきょろ部屋を見回すルナ。ああ、そういえば部屋に上げるのは初めてだっけ。よくよく考えれば部屋の中どころか部屋の前まで一緒に来たこともないのに、何故か既に何度も部屋に来ているような気になっていた。この前私が初めて部屋に行った時は、ルナもこんな気持ちだったのだろうか。……でも、確かにこれは恥ずかしいかも。部屋をじっと見られるのは。
「るなー」
「ん? ……ああ、ごめんね。恥ずかしいわよね」
「うん」
「私もそうだったもの」
「ご、ごめん」
「冗談。アリスだけの部屋じゃないものね、失礼だったわ」
もう一度、今度はベルさんにも謝ろうとしたルナをそのベルさんが慌てて止める。王女様に頭を下げられるなど、たまったものではないのだろう。勿論ベルさんだってルナとまったく話さないわけではないし、他の外部の人よりは断然交流があると言えるだろう。でも、流石に私みたいに気心知れた友人というわけではないのだから。というかそもそも、私のそれが一般的に考えておかしいのである。
「きゅーくつじゃない?」
「え?」
「その、るなのおへやよりはかなりせまいから」
そうだ、こうして触れ合っているとついつい忘れがちだがルナは王女様なのである。性格どうこうではなく、育ってきた環境を考えるにこの部屋は随分窮屈に感じるのではないだろうか。あの四階の部屋だってまあこんなものよね、というくらいなのかもしれない。この貴族至上社会の王国の、王女様なのだ。学園に来る前は、それ相応の広い部屋で暮らしていたに違いないのだ。すると、ルナはきょとんとした後に納得したように笑って。
「……広さじゃないわよ、部屋は」
……そう何かを、いや、誰かを想うように語り始めた表情は儚げで、とっても寂しそうだった。そして、そこには何処か諦めも含まれていて、私はそれが何だか酷く悲しかった。
「どれだけ豪華でも、どれだけ快適で広くても。それは表面的なものでしかないわ」
「……うん」
ああ、うん。確かに部屋は、部屋である。アリスになって、初めて自分の部屋というものを持った。学園に来て、寮で暮らすことになって、でも館の私室との違いなんかにはすぐに慣れた。その記憶を振り返っていく内に、私はルナが今何を言いたいのかがわかった。館の私室も、この部屋も。強く思い出した光景には、いつも。
「狭くても、ううん。私は、狭い部屋で身を寄せ合って暮らす方が、よかったのかもしれない。……なんてね」
ベルさんがいた。カルミアさんが、父が、ミラさんが、クロリナさんが。ルナが、いた。どんな部屋で、じゃない。誰と過ごすか、誰が訪れてくれるか。それこそが部屋の価値である、と。きっとルナはそう言いたいのだ。そして、だから、寂しそうなのだ。ルナはああやって罵倒していたけど、本当は……いや、これ以上はよそう。それが簡単に踏み入っていい話じゃないのは、私にだってわかった。私が今できるのは、寂しそうなルナを温めてあげることである。みんなが、そうしてくれたみたいに。
「るーなっ」
「きゃっ……!?」
ぎゅぅ、と。相変わらず力のない私の体で、けれど一生懸命に強く抱きしめる。こういう時、背が低いと頭を包むようにしてあげられないのが不便だ。慌てて離れようとするルナを、それでも離さない。やがて抵抗を止めたルナの背中を、さっき私の頭にしてくれたみたいに、そっと撫で付けた。
「ひとりじゃないよ」
「――――アリス……」
それからしばらく無言が続いて、突然ぽす、と肩に顎が置かれた。敵わないわね、と一言だけ呟いたルナは一体どんな表情をしていたのだろうか。私から見えるのは、私の肩に静かにもたれ掛かる後頭部だけだった。
そのままぎゅーっと抱き合っていると、不意に少し困ったような四つの瞳と目が合った。
「こほん。王女殿下、私がお側にいることはお忘れですか?」
「はっ……!?」
「……ぁう」
完全に、完全に忘れていた!
私とルナは今二人きりじゃない! 部屋には当然ベルさんもステラさんもいるわけで、つまり一連のことはばっちりじっくり見られていたわけで……私もルナも、同時に弾かれたように身を離した。その顔は二人揃って真っ赤である。ベルさんはくすりと笑って済ましてくれているが、ステラさんは若干ご立腹なようである。いや、何処か寂しそうかもしれない。いつもほとんど無表情なので私ではよくわからない。
でも、その言葉がきっと二重の意味を含んでいるのだということはわかる。
「う、うるさいわねっ、わかってるわよ!」
はあぁ、と恥じらいに額を抑えて顔を伏せたルナは、ぶんぶんと何度か頭を振って。
……ぼそり。本当に、本当に小さな声で、一度だけ言った。
「……いつもありがと」
今度は、私にもステラさんの表情がわかった。はっきりと、その頬が嬉しそうに緩んでいた。私は二人の間で交わされる無言の会話を邪魔しないように、ベルさんに振り返って笑顔だけ向けた。私も、伝えたくなったのだ。
いつもありがと、べる。
――――こちらこそ、アリス様。
「そ、それでっ! そんなことより!」
「あいあい」
気恥ずかしくなったのだろう、急に大声を出したルナは仕切り直すように再び私の方に向き直った。その後ろでステラさんがずっとにこにこしている。……ような気がする。たぶん。
「大丈夫なのかどうかを見に来たのよ、私。何だか変な感じになっちゃったけれど。大丈夫なの? アリス。何処か痛かったり違和感とかはない?」
「うん。ちょっと、つかれてるくらい。だいじょぶだよっ」
「……そっか。よかった」
空気を変えるために振った話題だとはいえ、本当に聞きたかったことでもあるのだろう。というよりむしろ、ルナはお見舞いできてくれたのだから本来それが一番話したかったことに違いない。別の方向に持っていったのは私である。まだ少し頬が赤いままのルナに大丈夫だよ、ともう一つ笑顔を向けると、心配したんだからと苦笑が返ってくる。何となしに見た窓からぽつりと、冷たい一粒が床に降った。
「あ……」
「と、どうやら降り始めるみたいですね。閉めておきましょうか」
「うん」
三人ともが私の目線を追って、床に染みて色を変えた小さな一雫を眺めて。すかさずベルさんが開きっぱなしだった木の窓に寄って、外向きに開放されているその両側を引っ張って閉じた。ぽつぽつと、向こう側から叩く音がし始めた。ずっと曇天のまま溜まっていた雲が、ようやく本格的な雨を降らせるらしい。
「あめだー」
「雨ねー」
ぼーっとルナとそんな会話を交わす。特に意味はない。それ以上言葉も続かなかった。でも私は、そんな雨の音だけが響く無言の時間が、不思議と居心地が良く感じた。きゃーきゃーと何処からか聞こえてくる悲鳴は、きっと食堂から帰る生徒たちのものだろう。教科書が濡れぬようにするのは本当に大変なのだ。彼女らからすれば笑い事じゃないかもしれないが、こうして部屋から声だけを聞いている分には何だか微笑ましくすら思ってしまう。それは別に私だけではないようで、ベルさんもルナも、ステラさんも……いやステラさんはそんな気がするだけだけど、僅かに口元が緩んでいた。
「るな、ぬれなくてよかったね」
「そうね、ある意味アリスのおかげかしら?」
「えー、どんなかおすればいいかわからないの」
「うん?」
「なんでもない」
当然伝わらない冗談を挟みながら。それにしても、本当にみんな騒いでいる。疎らだったそれは収まるどころか……
――――これは、本当に悲鳴か?
「ぁ、え……?」
「アリス? 」
いや、確かに悲鳴も聞こえてくる。雨の中を急ぐ生徒たちの声。でも、それだけじゃないような気がした。首をかしげる三人の目線を浴びながら、目を瞑って耳を澄ませる。激しくなり始めた雨音に混じる声を一つ一つ聞き分ける。
“どうして今降るのよー! ”
“くそ、降るなんて聞いてない”
まず大きく聞こえたのは少女と青年の声。これは、間違いなく学園内の、窓のすぐ向こうからの声だ。段々と此方に近づいてくるのがわかる。まさに寮に駆け込む最中なのだろう。更に遠くの方まで集音する。意図的に指向性を持たせて、集中する。
“……たい、……だせ”
「ん……」
悲鳴とは別の、何か怒鳴るような声が聞こえたような気がして。思わず漏れた声に三人の目線が更に集まったのを感じながら、その方向に意識を寄せていく。掴んだかもわからないその一本の細い糸をたぐり寄せるように、雨を掻き分け、風を裂いて。
“……んたい、……を追い出せ! ”
「――――、え、……?」
聞こえた。微かに、本当に微かに。けれど、さっきよりもはっきりと、その声が聞こえた。それはやはり怒鳴り声。それも一人や二人じゃない。何十人、或いは何百人もの怒号が重なって、遠く離れたこの部屋まで空気を震わせている。……もう耳を澄ます必要はなかった。どんどんその声は大きく太くなっていく。バッと、目を開いた。ベルさんもルナも、ステラさんも、無言でそれを聞きながら、ただ目を見開いていた。
「これ、は」
「……ルーンハイム様、どうやら拙いことになったようです」
もうそこに、先程までの和やかな空間なんてものは無かった。私は、じめじめと胸の奥から湧き上がる不安から逃げるようにベルさんを見た。恐る恐る覗いたその表情。淡い期待は、脆くも霧散した。
「……アリス様」
「べ、る」
聞きたくなかった、剣呑なそれ。鋭く歪められた眉にびくりと肩が跳ねた。ぎゅ、ときつく繋がれた手が、この時ばかりは恐ろしくて。私の体は、気付けば酷く震えていた。
「……大丈夫。大丈夫、大丈夫よアリス、私たちが」
ルナが宥めるように肩を叩いてくれようとしたその時、今までで一番大きな音が、明確に“私たち”に向けられた炎が、雨粒を激しく撒き散る礫と変えて学園ごと鼓膜を揺さぶった。
「――――反対! 庶民差別反対! 腐った貴族のガキどもを引き摺りだせッ!」
ああ、ああ。私は、遅かったのだろうか。もっと、もっと早く、もっと大きく、変革を叫ばなければならなかったのだろうか。準備期間など、与えられるはずもないというのだろうか。
記憶が蘇る。鮮血が視界を染める。しあわせを穿たんとする矢が、私に迫る。
「ゃ、ぃや、いやあぁッ」
「アリス様、落ち着いてください、アリス様!」
「アリスっ!」
錯乱しそうになった私を助けたのは、ドガ、とぶつかった先の壁ごと砕けてしまいそうな音と共に開いた扉だった。意識の及ばぬ脊髄反射的な衝撃がぐるぐると奈落に引きずり込まれかけていた私の頭の中を真っ白にした。即座に前に出たベルさんとステラさん。険しく構える二つの背中は、けれどその刹那。多少の困惑を携えたまま、ふっと安堵に緩んだ。
「――――姫ッ!」
「アリス、ベル! ワシじゃ!」
「無事かアリス嬢! 王女殿下ッ!」
蹴破る勢いで開かれた扉の先、私の目に飛び込んできたのは、ミラさんと祖父に幾人かの鎧姿の騎士。そして何故か、この学園にいるはずもない父の友。王国軍将軍、ラブリッドさんの姿だった。
次回更新は本日18時です。




