第12話 Comme Lna Liddell
「アリス様、アリス様」
重たいまぶたをなんとか持ち上げて、寝惚け眼を擦った。ずーん、と体は未だに疲労に沈んでいる。どれくらい寝ていたのだろうか、窓から見える空は最後に見た曇天を更にどんよりとさせたようだ。だが、どうも夕方や夜という様子ではない。朝か昼か、どっちにしても、丸半日以上は寝てしまっていたらしい。目覚めた私にすぐに気付いたベルさんがベッドの側に寄って、私に呼びかけている。
「ふにゃ」
「……ああ、よかった。お目覚めになられたのですね。ご気分はどうですか?」
「ん、ん……」
言葉ではないながらも相互の受け答えが出来たことによほど安心したのか、心なし捲し立てるようにベルさんが言った。早口なそれを処理しようと、まだ鈍い頭を少し揺さぶられながら、微睡みを徐々に晴らしていく。……ああ、起きたのか。そして。
「……ぁぐ、ぅ」
「ア、アリス様っ!?」
忘れるわけがなかった。あれはそう、母の言う通り夢だったのだろう。だが、しかし。ただの夢でないことは断言できた。母の置き土産が、確かに頭の中に遺っていた。それは記憶。母の、記憶。私の知らなかったことや、時々母と父とベルさんの三人が過ごした穏やかな日常のようなものも混ざっている。これは私がいつでもあのぬくもりを感じられるようにという心遣いなのだろう。夢の中での母との対面、そしてそれらの贈り物を胸に抱いて、私は静かに涙を滲ませた。慌てたベルさんが、私の手を握った。突然泣き出して、理由も何もわからないのに、ひとまず落ち着かせるのを優先してくれているのだ。
「だぃ、だいじょー、ぶ……」
「そんな。大丈夫なのに涙が出たりはしません。体のどこかが痛むのですか?」
「おむね」
「お、お胸ですか!? それは大変です!」
目を大きく見開いてバタバタと擬音が聞こえてきそうなほどに焦り始めたベルさん。紛らわしい言い方をしてしまった。きっとベルさんからすれば、心臓なんかの命に関わる不調を思い浮かべたことだろう。私も慌てて首を振った。
「ちがうの。からだじゃなくてね、こころがきゅーってしたの」
「……お心の方でしたか。深刻なことには変わりがありません。どうされましたか」
「えとね」
さて、どうしたものか。何処まで話せばいいのだろう。夢の中で母と会って話したことまでは、どうして姿を知っているのかという疑問があるにせよ問題ないだろう。わからないのは母の遺してくれた記憶についてだ。これは流石に、夢をみたという一言だけでは済まされなくなる。記憶の中でベルさんは本当に大事に、実の娘のように育てられていて、きっと亡くなったはずの母ともう一度会いたいという気持ちは同じのはずだ。もしかすれば私以上に、かもしれない。そしてそれはベルさんだけではない。父も、祖父も、ラブリッドさんも。母と深い関わりのあったすべての人が同様のことを思っているだろう。ならば。ならば、私だけがその叶わないはずの願いを果たせたというのは、少なからずみんなに影響を与える。勿論ベルさんたちがそんな人じゃないのは知っているが、ほんの少しくらいは思うことだろう。どうして私とは、会ってくれなかったのか、と。
「んう」
私にとって、それは出来れば避けたいことに感じる。例えそれを知った皆が気にしなくても、私が気にしてしまうのだ。そんな風に思われているのではないかと。ベルさんたち母と関係の深い人というのは、当然そのほとんどが私にとっても深い関係の人で、だからそんな疑いを持った目で見てしまうようなことにはなりたくない。ただの私の我が儘の面が強いけれど、それでもこのことは少し秘しておこう。もしそう聞かれれば答える、といった程度に。
「かあさまのゆめをみたの」
「母さ……アリシア様の、夢ですか」
「うん」
母さん、と言いかけたベルに頬が緩んだ。私にとって大切な二人が、その互いにとっても大切な人であることがなんだか嬉しかったのだ。ベルさんとの距離が更に縮まったような錯覚さえ覚えた。ならば余計に、どうして私は母と会えなかったのだろうなんて悲しい感情を抱かせたくなかった。まだここまでなら、ただの私の夢なのだから。
「それでおはなしして、ぎゅーってしてもらって、まわりがあかるくなって、またねってしたの」
「……そうでしたか」
ただ真剣に私の話す様子を聞いていたベルさんは一言そう返して、ぎゅーっと。いつもより強く、激しく私はその胸の中に抱きしめられた。すっぽりと私を収めたベルさんの腕は、背中が反対に反り返りそうなくらいにきつく私を抱きしめ続ける。ちょっぴり苦しかったけど、でも抵抗はしなかった。しようと思うわけもなかった。肌を通して体中から伝わってくる熱が、そのままベルさんが私に注いでくれている愛情そのものだと知っていたから。
しばらくそのまま、数分ベルさんに泣きついて。胸元を涙で濡らしてしまったのを申し訳なく思いながら、腕の力を弱めたベルさんがその顔を見上げた私の瞳をじっと見つめた。金色を反射する二つの黒曜にだいじょうぶだよ、と言葉を込めると、一瞬悲しそうに目尻が下がって、でもすぐに微笑みに変わった。
「体調の方は、どうですか」
「ちょっとだけおもいけど、いたかったりはしないよ」
あえて夢や母のことについて触れずにいてくれるベルさんはやっぱり世界で一番私のことをわかってくれていて、私はまたもその優しさに甘えることにした。顔も知らなかったはずの母との対面は、色々な影響を私に残していたのだ。一番はぬくもりと悲しみ。それから過去の記憶。そして……混乱。
「ねえ、べるー」
「はい、アリス様」
「わたしね」
あの夢の中で、私は確かに母を母だと認識したのだ。一度も言葉を交わすことが出来ず、顔も知らなかったはずなのに。その姿を見た瞬間、母だと確信、いや懐かしみさえ覚えていたのだ。そして溢れ出た想いと感情。溢れるように胸から零れた後悔。助けられなくてごめんなさいという言葉。すべて自分のことだというのに、その一切の正体を私はわからない。だから、強い疑問が混乱としてずっと渦巻いているのだ。即ち。
「おかあさまのこと、ちゃんとおぼえてるのかもしれない」
――――本当に、自分の、“アリス”の記憶は二歳の頃からしかないのか、ということ。
私が私をはっきりと認識したのは、間違いなくその頃だと思っていた。前世の“有栖”としての最後からそのまま繋がるように、気付けばアリスとして存在していた。だから何かしらの不思議なことが起きて、もしかすれば有栖が最後に願ったしあわせな世界で生きたいという望みが、超越的な存在、所謂“神様”に聞き届けられて、叶ったのだろうかと思っていた。……でも。
「アリシア様のこと、ですか?」
「うん」
「ですが、その……アリス様がアリシア様と顔を合わせられたのは、本当に生まれた直後だけで……」
「うん。でも、おぼえてるのかもしれないの」
私の表層意識の及ばない記憶の奥底で、生まれた瞬間の母の顔が、声が残っているのかもしれない。そもそも、記憶のない生誕から二歳までだって、まったく自我がなかったはずはない。ここに私は、アリスはきちんと存在していて、ベルさんたちもその私に世話をしてくれていたはずなのだ。これは或いは、母の記憶が混ざったことで混濁しているのかもしれない。
……でも。でも、もしそうでなければ、当時の私はただ息をするだけの人形だったというのだろうか。ならば元々の“アリス”という人格は何処へ行ったというのだろうか。そんなことは、考えたこともなかった。有栖は、アリスを消してしまったのかもしれない。そんな酷く恐ろしい考えが脳裏を過ぎって、今更だとしても、当時の私のことを確認する必要があった。
「あのね、べる。わたしの……いっさいくらいのわたしって、どんなだったの?」
「一歳の頃のアリス様ですか……?」
「うん」
するとベルさんは難しそうな顔をして。不安に見つめる私の頭を一つ撫でるとポツリポツリと回想を呟き始めた。私はただ黙って、それを聞いた。自分の考えは、ひとまず思考の隅へ押しやって。
「……そうですね。不敬を承知で率直に申し上げるならば、光が無かった、でしょうか」
「ひかり?」
「はい」
ベルさんが悲しそうに、私を案じながら意を決して放った一言は、当然あまり身に覚えがないものだった。けれど、光が無かったという比喩は多少ながら私にも理解できる。文字通り、瞳に光が見えないような、ぼうっと、若しくは陰鬱とした、何事にもまるで反応のないような状態ではないだろうか。そしてそれは、私の不安を更に加速させるのに十分な証言だった。垂れ下がった眼で見上げて先を促すと、ベルさんは頷いて続けてくれた。
「今のアリス様は、色んな表情をされます。そのように悲しいお顔をされることもあれば、心から楽しそうに、幸せそうに笑顔を浮かべられることもあります」
「うん」
ああ、それは、そうだ。私も人間、悲しいことがあれば涙が出るし、嬉しいことがあれば笑顔で喜ぶ。けれど、有栖からアリスになった直後は諦観と反動ばかりに心を支配され、あまり面には出さなかった自覚はある。そういうことを、言っているのだろうか。それとも、もっと、それ以上に。
「からっぽ、みたい、な」
一瞬にして沈痛な表情を更に歪ませたベルさんは、少し考え込むようにしながら。びくびくと答えが返ってくるのを待つ私に、しかしゆっくりと首を振った。
「いえ。確かに、心ここに在らず、といったご様子ではありました。瞳を覗いて見ても、私を見ているようで何処か別の世界を見ているようでした」
「じゃあっ!」
「――――ですが。……ですが、アリス様は、ずっとそこにおられました」
遮るように、ほとんど叫ぶような声を出そうとしたのを、更にベルさんが遮った。その瞳は、じっと私の瞳を見つめている。ずっと、ずっと見ていたと言わんばかりに。
「あの時から変わらず、私の目はアリス様を映しております。お生まれになられた時からずっと、アリス様はアリス様です。今まで一番近くで共に在った私が、それを保証致します」
「ぁ、う……」
強く、そう言い聞かせるように断言したベルさんの視線の奥で凛と煌く光に、思わず押し黙る。諭すように言ってくれているその様子はきっと、原因まではわからなくとも私が私という存在の連続性に悩んでいることを見抜いているのだろう。見たことのない瞳だった。いつものように私を肯定してくれるのでもなく、でも否定するのでもない。ただじっと、“私”を視ている。……そんな、瞳だった。
「わたしは、わたし」
「はい。アリス様は、アリス様ですよ」
大丈夫、大丈夫とあやすように抱きしめながらそう言うベルさんに既視感を感じた。そうだ、夢の中の母も同じようなことを言っていた。それももっと、核心を突くような。“有栖”のことを知っていて、それを前提として何かを伝えてくれようとしていた。覚えておきなさいと言われたのに、それ以外のことで頭が一杯になって、夢から覚めて今の今まで思い出せなかった。
あの時、母は言っていた。
“本当はそのどちらも、貴女自身よ”。
「――――どっちも、わたし……?」
「アリス様?」
有栖も、アリスも、私。なんとなく、その意味はわかるような気がした。例え有栖という別世界での人生の記憶があるとしても、私は私なのだと。有栖は、今やアリスなのだと。そんなことを言ってくれていたのではないだろうか。
でも、何故だか違和感を感じる。そうじゃないと、私の中の何かが告げている。そこに明確な理由やロジックは見当たらないというのに、ただ直感として違うという感覚だけが心に在った。
「うーん」
「どうされましたか」
……いや、やっぱりやめよう。こんな混乱した頭で幾ら考えたところで、わからないものはわからないのだ。きっと時間が経つに連れて整理が出来て、その内わかることも増えていくだろう。変にこれ以上悩んで、ベルさんを心配させる方が問題だった。心配の二文字をまんまその目に浮かべるベルさんに、そっと困ったような笑顔を返した。
「わたしは、わたし」
「はい。アリス様は、アリス様です!」
ホッと、安堵に緩んだベルさんの頬が愛おしくて。いつも心配をかけてしまっていることが申し訳なくも、そう案じてくれるのがやっぱり嬉しくて、そんなベルさんを少しでも労ろうとして。きっと寝惚けと気の緩みからだろう。
「いつもおしごと、おつかれさまぁ」
「ふふ。ありがとうございます、でもアリス様のお世話は私にとってお仕事ではありませんわ?」
「ううん、ちょうほうの……あっ」
「えっ」
早速漏らしてしまった、“贈り物”に含まれていた記憶。
笑顔のまま固まって、次いで見るからに焦った様子で詰め寄るベルさんに揺さぶられながら。
「……てへ?」
それから何とか言葉を濁し、誤魔化すこと十数分。結局、幸か不幸か、今までにも積み重ねってきたベルさんの勘違いが更に勘違いを呼び、何らかの物事から洞察して気がついたのだという風に勝手に納得してくれたのだった。
次回更新は明日の12時です




