第11話 リイン・カーネイション
真っ暗な暗闇だ。先がまったく見えないというわけではない。しかし、何も見えないのだ。どれだけ目を凝らして遠くまで見渡そうと、延々と暗い何もない空間が広がっている。ここは、どこだろう。
「べる……?」
試しに一抹の希望を込めて呼んでみるが、当然返事はない。何か導いてくれるものも人もいないのなら、自分でどうにかするしかない。かといって、アテがあるわけでもない。そもそもこれは何だ。一体私はどういう状況なのだ。わけのわからない不安と、静かな暗闇に一人。酷く心細くなって思わず涙が溢れそうになる。ダメだ、大丈夫。まずは落ち着いて整理しよう。潤んだ瞳を袖で拭って、とりあえずその場に座り込んだ。冷たい。
「えっと……」
直前の出来事を思い起こす。私は確か、図書室にいた。そこで不幸な事故に襲われそうになり、なんだかよくわからないままに見えるようになった“流れ”、それも時間か、若しくは重力の流れだと思われるそれを操って難を逃れた。そして、その事故の原因、今までを謝りに来てくれたあの少女と仲直りして、それから……それから?
「ぁえ」
そうだ、それからどうした。そこで急にぷつりと途切れている記憶を深く漁って、もう一度途切れる寸前までを順に再生する。ルナが簡単に和解したのを呆れたように見ていて、そして……ああ、ベルさんだけが不安そうな顔をしていたんだ。それで、どうしたのか声を掛けようとした。その先の記憶が何もないのを考えるに、きっとここで気を失いでもしたのだろう。魔力は大幅に消費したとはいえ、まだ十分に残っていたような気がする。けれど、頭痛だ。そう、流れを操作する時、ずっと激しい頭痛を覚えていた。なるほど、たぶんあれは脳を酷使したことによるものだったりしたのではないだろうか。改めて思えばあんな、起きたことを逆戻しするような魔法を操作するのに負担がかからないはずがない。それだけでなく、そもそも体感時間が何倍にも加速され、更に万物の流れを認識して、その上で世界の理を無理やり捻じ曲げるようなことをしたのだ。人間一人の脳が耐えられるわけがない。なら、もしかして、私は。
「しんだ、の?」
ゾクリ。とてつもない寒気が背筋の神経を直接なぞり上げた。いや、いや、待て。死んだなら、意識はないはずだ。こうして何かを考えることなんて出来ないはずだ。
……でも。絶対そうじゃないとは言い切れないのが、恐ろしかった。だって私は既に、そんな有り得ないことを経験しているのだ。死んだはずがアリスという貴族の少女として、生まれ変わった、なんていう。それを考えれば、何が起きても不思議ではない。もしかすれば、死んだあとは皆こんな状態になるのかもしれない。
「こわい」
違うと一蹴出来ないのが、怖くて堪らなかった。もう二度と光を拝めないのが、あの日常に戻れないのが、ベルさんに会えないのが、怖くて堪らなかった。いやだ、そんなの、いやだ。せめて、せめて最後にありがとうとさよならを、お別れを言わせて欲しい。もう一度ベルさんに抱きついて暖かい腕の中で頬を擦り付けて甘えたい。
「べる」
……まだだ、まだ、わからない。異常な事態なのには変わりないが、死んだとも限らない。例えばここは死ぬ直前の生と死の狭間の空間で、引き返せる道があるかもしれない。そうだ、悲観的になりすぎるのはよくない。泣き喚いて蹲っていても状況は変わらないのだから。私はそれを、身を以て学んできたはずだ。
「でぐち。でぐち、さがさなきゃ」
もう一度、目を凝らして、今度は一つの違和感も見逃さないようにしっかりと周囲を見渡す。何か、何かないだろうか。移動してみるのは拙いだろうか。変に取り返しがつかなくなっては絶望しか残らない。でも、このまま待っていても何も起きそうにないのもまた事実だった。……立つだけ。場所は動かずに、立つだけ立ってみよう。それならきっと大丈夫だ。だってさっき私は立っていた状態から座ったのだから。同じ状態に戻るだけだ。大丈夫。
「よし、よしっ……」
震える足を手で支え、ちょっとずつ、ほんの少しずつ立ち上がる。徐々に膝が伸ばされて、恐る恐る足を支える手を離す。そのまましばらく身構えて……大丈夫だ。何も起きていない。立てた。ちゃんと、立てた。言葉にすればたったそれだけのことが、私に絶大な安心感を齎していた。今ならベルさんにアリス様が立った、と大げさに言われても、笑顔で返せる気がする。これがクララの気持ちなのだろうか。いや、そんなことを考えている場合ではない。ぶんぶんと首を振って、もう一度周囲を確認するために顔を上げて――――
「ひっ……!?」
何かが、聞こえた。びくりと大きく跳ねた体を収まったばかりの震えが再び襲い、情けないことに失禁すらしてしまいそうだった。だって、仕方ない。この状況でいきなり何かが聞こえたのだ。聞こえて欲しいのか聞こえて欲しくないのかの判断もつかないまま、じっと耳を顰める。
「だれか、いますか……?」
「……ぁ、ああ、あ」
「きゃああああぁぁッ!?」
自分で尋ねておいて、返事らしきものが応えたのに腰が抜けかける。……チラリと股を確認した。大丈夫、漏れてない。生命の危機に瀕しているかもしれないのに妙に暢気だと思うかもしれないが、これはこれでまた別の死活問題である。視線をまた周りを彷徨わせる作業に戻らせると、やがてはっきりとした“声”が聞こえ始めた。今度は悲鳴で遮るようなことはしない。
「ぁ……りす……あり、す」
「え……?」
それは確かに、聞き間違いでなければ、私の名を呼んでいた。呆然と固まる中、その声は更にはっきりと、そして私の方へ近づいて来ている。不安に思いながらも、けれどどうしてか逃げようとは思わなかった。何故か私はその声に聞き覚えがあるような気がしたのだ。
「――――アリス」
「ひゃっ……」
きょろきょろと忙しなく視線を巡らせて、ついに明瞭な、女性の声になったのにぶわりと冷や汗を垂らす。まるで出来の悪いホラーのようにゆっくり声の聞こえた方を向いて。
金色が、あった。
「アリス」
不気味などとは程遠い、優しく包まれるような声色。その中には少なからず私への好意が含まれているように思えた。悪意は、感じない。恐怖を困惑が上回って、それでも震える冷たい手を、そっと“彼女”が握った。まるで月のように神秘的な黄金をした長い髪がふわりと揺れて、その下で金色が――――私と同じ、金色をした二つの瞳が、にこりと微笑んだ。無意識に、私はそれを呟いた。知らないはずの、それを。
「――――おかあ、さま?」
彼女は何も答えなかった。けれど、ただそっと、少しだけ。その眉が、悲しそうに垂れ下がった。それだけで、十分だった。不思議なことに、私はこの人が自分の母親だと確信していた。いや、それも何か違う。この違和感は何だ。私は、何を感じている。
「アリス」
「は、はいっ」
「あなたは、アリス? それとも……“有栖”?」
「えっ……?」
違和感の正体を探り始めた思考は、完全に硬直した。彼女は今、確かに私のことを“有栖”と呼んだ。実際には同じ名前を二度続けて言っただけだが、そう呼んだというニュアンスを私は理解できた。何故なら私は彼女の尋ねる通り、アリスで、同時に有栖でもあるからだ。どういうことか、それに貴女が私の母だとしてどうしてそれを知っている、そもそもここは何処ですか。次々に繰り出そうとした質問は、彼女の声に遮られた。
「覚えておきなさい。本当はそのどちらも、貴女自身よ」
「それは、どういう……」
尋ねる間もなく、ぎゅっ、と。私は、彼女に抱きしめられていた。
もう、何もかもがわからない。聞きたいことが多すぎる。不安を隠しもしない私の瞳をじっと同じ瞳が見つめ返してくれて。ごめんね、と、彼女は一つ呟いてから。
「大丈夫。ここは、そうね。夢のようなものよ」
「ゆめ?」
「うん、夢。アリスは今眠っているの。大丈夫、もうすぐ目を覚ますわ。そうすればまたすぐにベルや貴女の騎士に会える」
「……うん」
「いい子」
額に掛かった髪をかきあげるように撫でてくれる大きな手がとっても暖かくて。すぐに帰れるという言葉も相まってじんわりと、心と体が安堵で満たされる。ぽうっと緩んだ頬にくすりと微笑みが反射した。もう、一つも疑いはなかった。彼女はアリシア。私の、おかあさまだ。
「っ、ぁ、ぐ、ひうっ」
「ど、どうしたの?」
「わたし、わたし、ほんとうは、ずっとあいたくて、たすけられなかったの、ずっとこうかいしてて……っ」
「……アリス」
「ひっく、ごめん、なさい、ごめんなさいっ……!」
自分が何を喋っているのか、最早まったくわからなかった。けれど、どうしてかそんな言葉が嗚咽とともに溢れ出てくるのだ。どうしても、そう伝えなければいけないという気持ちが思考を追いやって、もうごちゃごちゃで、やっぱり何もわからなかった。でも、紛れもなくこれは私の本心。それだけは理解していたのだ。
「謝るのは、私よ……ああ、ごめんね、アリス。本当に、ごめんねっ……。傍にいてあげたかった。ハッティリアやベルたちと一緒に、あなたの成長を沢山甘やかしながら見守りたかった……!」
「……っ、う、うううぅぅ」
「ね、アリスはいつ立てるようになったの? いつ言葉を話せるようになったの? いつ、いつ……そんな大切な一つ一つの思い出に一緒にいられないのが、悲しくて仕方がなかったッ……!」
「あああぁぁ……! わたしも、わたしもいっしょにいたかったよぉ……!」
気付けば彼女も……母も、涙を流していた。戻らない暖かさを確かめるように、本当はそこに在ったはずの幸せで慰めるように。ただ、ただ抱きしめあった。したかったこと、出来なかったこと。一つ一つ、大切な雫を交わせながら、ただ私はおかあさんの胸の中に甘えた。
「おかあさん、おかあさんっ……」
「アリスっ……!」
どれだけ泣いただろうか。どれだけ呼び合っただろうか。涙が枯れて、嗚咽も出ないくらいに喉が潰れても、私は決して、母の背中から手を離さなかった。
……離せば、もう二度と。
ほんとうにおわかれなんだって、わかってたから。
「ねえ、アリス」
「ぁい……」
悲しそうに、本当に寂しそうに。なのに何処か満足したような、幸せそうな顔で私の涙を拭ってくれる母が、次に何を言うのか、考えるまでもなくわかって。何度も首を振って、それを遠ざけようとした。でも、その望みが絶対に叶わないのも、わかっていた。胸に顔を埋め、弱々しく最後の抵抗をして。宥めるように後頭部が梳かれるのを感じながら、その言葉を待った。
「……お母さん、そろそろいかなきゃいけないみたい」
「っ、……ぐ、ぅぁっ」
キューっと、胸が締め付けられる。わかっていたのに、知っていたのに、どれだけ備えようとその現実は簡単に私の心を抉った。でも、泣かない。もう、これ以上は、泣かない。だって、お母さまの声が、ひどく震えていたから。私がいやだいやだって泣けば、もっと苦しくなるって、わかっていたから。嗚咽を必死に押し殺して、涙を何度も拭って、私は泣き崩れかけの歪な笑顔を持ち上げた。
「――――う、んっ……!」
また泣きそうになったお母さまは、ほっぺたと額と、それから唇にちゅーっと長いキスをしてくれて。だから、私も同じ場所に同じ順番で、同じ長さのキスをした。また溢れてきた涙はやっぱりどうしても止まらなかったけど、最後には二人とも、笑顔になって。
「最後に一つ、贈り物を置いていってあげる」
「おくりもの?」
「私の記憶。全部は無理だけど、これからアリスは大変でしょう? だから、その役に立ちそうなものをアリスの頭の中に残していってあげる」
「ありがと」
「ふふ。お誕生日祝いよ、ずっと祝えなかった分の」
へにゃり、と、そっくりのだらしない笑顔で、もう一度、もう一度だけ抱きしめ合って。その肩越しに、まるで朝日が昇るが如く、凄い勢いで暗闇が光に変わっていくのを見た。ああ、本当に、お別れなんだ。
「……もう、本当に時間みたいね」
「……うん」
やがて光は私とお母さま以外のすべてを照らして。じっと、母の顔を見た。母も、私の顔を見た。これから先、絶対に忘れることのないように。
「おかあさま。だいすきだよ。あいしてるよ」
「私も、愛してる。大好きよ、アリス」
どんどん眩くなっていく光が、母の姿を消していく。優しく暖かく、天に昇っていくように、母が見えなくなっていく。それでも私は、母は、最後まで手を離さなかった。最後まで、笑顔を崩さなかった。ずっと、同じ色の瞳の向こうに視線を贈り続けていた。
「しあわせになってね、アリス――――」
響いて掠れていく声を、言葉を、しっかりと胸に刻んで。
私は、もう泣かなかった。もう迷わなかった。絶対に、幸せになる。傷ついても、傷つけても、それでも絶対にいつか私の望む“しあわせ”をこの手で掴んでみせる。母の、みんなの想いがこもった、この“アリス”という名に誓って。
……だから。みててね。わたし、みんなといっしょにがんばるから。
もしもいつかしんじゃってそっちにいったら、がんばったねって、ほめてほしいな。
でも、いまはおわかれだから。しばらくおわかれだから。
だから、まっててね。
「さようなら、おかあさま」
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