第4話 クララ
「それで、どうしたの? アリス。聞きたいことって」
「ん、んっと……あの、ごはんたべたら、おへや、いってもいい?」
「えっ」
授業の残り時間をたっぷりしゃべくって過ごした後、いつも通り一緒に向かった昼食の席でアリスは突然そんなことを言い放った。授業の終了間際で後で聞きたいことがあると言っていたので、座って間もなく料理が並んでその肉を頬張りながら尋ねてみた返答がそれだ。あまりに予想外な言葉に咀嚼するのを一瞬止めて。ゴクリとしっかりとそれを飲み込んでから改めて聞き直す。
「……えっ?」
「えっと、その、あんまりみんなのいるなかではなすことじゃないかなって、おもって。それで、るなのへやに……わたしのへやでもいいんだけど」
ひ、人目のあるところで話せないような内容?
……いや、いや、違う。恐らく私の想像したようなそれではないだろう。だって、アリスの瞳は拒絶されることの怯えが少しと、期待と、それと真剣な色で満たされている。きっと、そんな浮ついた青々しいものではないだろう。それに、アリスが恋慕を抱いているのが誰かなんてことは私は、というか、アリスの周囲の人のほとんどは既に勘付いているのだから。気がついていないのは当人たちだけだ。
ああそれより、早く返事をしないと。アリスの瞳が潤み出している。……あ、かわいい。
「じゃなくてっ!」
「ひっ……!?」
しまった、声に出てしまった。違うの、ごめんね。とうとう泣き出しそうな情けない顔になったアリスに慌てて謝りながら、チラリと隣の卓のステラと目を合わせる。問題ないですと頷きが返って来たのを確認して目線を戻す。困ったように首を傾げながら、潤んだ瞳のままじっと私を見つめるアリス。本当に無意識の仕草なのだろうか。まったく、誑しもいいところだ。現にクラス内だけでも私以外に数人、その魔性に取り憑かれた少女がいるのだから。
「……ええ、いいわよ。勿論」
「ほんとっ!?」
「ほ、ほんとっ」
刹那、キラキラと煌めいた瞳。元が金色なのもあってか、それはまるで真っ白な夜空に浮かぶ星や月のようだ。気を抜くとぼうっと見蕩れてしまいそうなくらい美しい。完全に場の主導権を握られてしまったように感じて、ぶんぶん首を振ってそれを誤魔化す。この仕草もそういえばアリスと過ごす内に伝染ったものだ。私はどれほどこの子に影響を受けるのだろう。……けれど、初めて隣に並んでくれた唯一無二の親友なのだ。恋情は諦めたとしても、それくらいの想いは抱いてしまうというもの。これは仕方のないことなのだ。
「残りを食べてしまいましょうか」
「うんっ」
しかし、ここの食堂の料理は本当に美味しい。食材が縛られてしまっている中でこれほどの種類の品を出せるというのも、凄い。ああ、本当に、料理人を王宮へ連れて帰りたい。是非ともあの舌馬鹿どもに本当の料理というものを教えてやって欲しい。美味しいものを食わせて内側から浄化すれば、奴らの腐り濁ったどす黒い腹も少しはマシになるかもしれないというものだわ。
「おいしいね」
「ええ、とっても」
そんな腐敗した連中のことばかりが浮かびだした心を綺麗に洗い流してくれるのは、やはりこの幼き聖女様で。心の底からおいしい、と笑顔を共有してくれるアリスを眺めていると、なんだかそんなことは直ぐ様どうでもよくなってしまう。その唇の端っこにパンくずがくっついているのが微笑ましくて、優しい気持ちになる。
「……もう。ほら、そのまま動かないで」
「あう?」
「パンくず。くっついてる。……取れた」
「あう……」
と、俯いてしまったアリス。よく赤くなる頬を膨らませていたパンは、こきゅんと可愛らしい音を立てて細い喉の奥へと嚥下されていった。その様子を見ないようにしてあげながら、私も千切ったパンのひとかけらを口に運ぶ。やがて持ち直したアリスはフォークで肉を刺して、小さなお口を大きく開けてそれを頬張った。
「美味しそうに食べるわね、ほんと」
「むぐ……ほお?」
口元を手で隠しながら、独り言に近い呟きにも律儀に答えてくれるアリス。食べ物を口に入れながら話すのは若干はしたないが、そこはご愛嬌だろう。貴族とはいえアリスはまだ六歳なのだし、それにこういう友人同士の場できちきちに儀礼を詰めるのは楽しくない。堅っ苦しいのはアリス以外が同席している時や公的な場での立ち振る舞いだけでもう十分である。
「るなは、どのおにくがすき?」
「ん?」
ふと投げかけられた質問に、パンを飲み込む。すきなおにく、ともう一度要約されたそれにうーんと悩んでみる。どの肉が好きか。どうだろう、素材よりもどう調理するかばかりを重視していて、そんなことは深く考えたこともなかった。言われてみれば単に肉と言っても種類には様々なものがある。よく口にするものを大雑把に括るなら牛、豚、魚、鳥などの四つほどだろうか。他にも羊なんかも偶に食卓に並ぶが、食肉として一般的ではない。割と好きではあるが料理人の腕の影響が特に大きくなるし、アリスが聞きたいこととは少し外れてしまう。言外に食堂で出る中で、と付いている質問だろうから。
「そうねぇ。アリスは?」
「わたしは、うしさん」
「うしさん」
「うん。うしさん」
思わず肩の力が抜けてしまうような言い方に和みながら。……なるほど、牛。それには同意だ。なんというか、肉の美味しさというものを判定する幾つかの項目があるとするなら、牛肉はそれらすべてが平均的に高水準なのだ。程よい油、程よい弾力、主張しすぎない臭い。勿論、質によって大幅にブレはあるけれど、それはどんな食べ物にも言えること。
「牛は美味しいわね。豚は嫌いではないけれど少し脂身が多くて癖があるし……」
「わたしも。おいしいけどね。でも、どうしてぶたさんのおにくはあぶらがおおいの?」
「説明してあげましょう、それはね」
豚は、比較的新種の動物だ。発祥の地域には王国でも随一の規模を誇る馬の牧場があり、昔はそれを狙う肉食動物が多く出没していたようだ。しかし馬は王国内の人や物の流れを円滑にするのに必須の存在であり、軍からの需要も大きい。故にその一大拠点を肉食動物たちに荒らされっ放しにするわけにはいかず、多くの狩人や騎士団までもが動員されて馬を襲おうとした動物たちを一匹残らず殺していたらしい。自分たちの狩場にするには分が悪いと気がついた賢い群れから順に去り始め、結果として牧場周辺は草食動物たちの楽園と化した。多種多様な彼らの内、“猪”と呼ばれていた古来より一帯を生息域とする一種が、天敵たちが消えたことでその在り方を大きく変えていった。そうして誕生したのが現在の“豚”であり、彼らは数の増えすぎた群れが次々と食糧不足で自滅していく中、“貯蓄”による生存の道を選んだ群れが繁栄していった姿なのだという。芽吹きかけの幼いものにまで手を出してしまえば、その後で余計に食べるものがなくなる。だから繁殖期に必要な分を体に食い貯めて、それ以外の時期は極力住処で大人しくしている、というような生き方をしているのだ。脂身が多いのはそういった、食べたものをすぐに貯蓄する性質の体をしているからである。
「――――という、彼らの研究をしている魔導師の仮説を聞いたことがあるわ」
「そーなんだ」
「そーなのだ」
まあ、真実かどうかは知らないのだけれど。私はその魔導師たちのように動物の生態を専門的に調べているわけでも、そこまで興味があるわけでもない。けれど、ここ数年の王国全土規模の不作は人の管理する地以外でも起こっていることであり、ならば餌を求めた彼らがやむを得ず牧場にも侵入するようになって、勿論それを見過ごすわけにもいかないので狩られた分が食肉として流通し始めているのだ……という背景くらいは簡単に推察できる。アリスも誰かから聞いたか若しくは自分で思い至ったのだろう、その辺は理解している風だ。
そんな薀蓄をちょっぴり得意気に披露していると、隣の卓の従者たちから目線を感じて。恐縮させないように耳だけ傾けてみる。
「流石、“高貴な二人”の御二方といいますか……」
「まだ二桁にも満たない齢の御二人がするお話ではありませんわね。ええ、ルーンハイム様が楽しそうで何よりです」
「やはり姫!」
ミランダというらしいアリスの騎士の発言がどういう意味かはイマイチわからないけれど、私とアリスを指した“高貴な二人”という渾名が以前から学園内で徐々に広まりつつあるのは知っている。お互いに幼くしてアイリスに組み分けられ、いつも一緒にいて、更にアリスのことだったり王女である私のことだったりとよく会話の種になることから密かに私たち二人をまとめた渾名が作られた、とのこと。学園祭で目立った所為かそれが明るみに出て、観客として来ていた学園外の貴族や魔導師にまで広まってしまい、知る人ぞ知る呼び名として半ば公然化されてしまいつつあるという。困った話だ。
また、本来は“高貴な”の複数形変化の“ス”は発音しないのだけれど、どうも派生単語である“高貴さ、高貴の生まれ”と掛けて態と発音しているようだ。私が王女であることへの配慮も一因だろう。下手に格を下げるような言い方をすれば解釈次第では反逆罪として処罰されることも有り得るのだから。勿論私はそんなことをする気はないけれど、それを利用するような輩はごまんといるのだ。
そして、後半部分のクララというのは貴族の名家などの女性に着けられることのある、数百年前の名君と呼ばれた女王陛下にあやかった名前で、“光り輝く、著名な、立派な”などの意味を表す。似たような事例では、帝国との戦争で大勝利を収めた当時の女王陛下が由来の“勝利、成功”などの意味が込められた“ヴィクトリア”という名前がクララと人気度で並んでいる。
……とはいえ同じような意味の名前は他にも無数にある中、何故クララが選ばれたのかと少し疑問には思った。ステラが調べたところによるとそれにも理由があって、アリスの発言が元になっているのだという。なんでも、従者の彼女、ノクスベルとの会話で、大仰な褒め方をされた際に“わたしはくららか”などと抗議していたのを誰かが聞いたらしい。きっと昨今クララ女王の言動が何でもかんでも称賛されているのを皮肉って言ったのだろう。面白い抗議の仕方である。
「……ふん。それは表向き、でしょうけれど」
アリスのそれはともかく、そう。私が思うに、しかしそれらは表向きの意味だ。二次的に知った大多数の人はそのまま含みなくそう呼んでくれているのかもしれないけれど、最初に言い始めた連中は恐らく皮肉に近いような体で使っているはずだ。いや、絶対と言ってもいい。何故ならクララ女王には、名君ではあったが晩年狂ってしまっていたなどとする文献が少数ながら幾つか存在する。それに依れば、昔ながらの友人で当時の聖ネージュムール教会で司祭の位置にあったベネデッタ・カルミーナという女性と恋愛関係にあり、晩年まで誰とも婚姻せずにいた為に王位継承が揉めに揉めた挙句前国王の弟が即位、直後王国の地盤を揺るがしたとして身分剥奪の上ベネデッタ共々処刑されてしまったという。確かに婚姻を結ばなかったために王位継承が揉め、更にベネデッタ司祭と懇意にあったのは事実なようだけれど、処刑されたなんて事実はなく、その部分は完全なる悪意の創作である。
しかし、この文献が無駄に悲恋の物語としての完成度が高いために若い令嬢の間では密かに読み物としての人気と知名度がある。恐らく王女である私と、聖女のような容姿と噂を持つアリスをそこに無理やり当て嵌めて揶揄しているのだろう。考え過ぎかもしれないけれど、貴族の、特に令嬢というのは平気でそんなことをする。これで今までまったくそのようなことをされていなければ或いは私が弄れているだけと考えることも出来たけれど、現に私たちに敵意を抱く一派がいて、アリスは直接その被害を受けているのだ。これで裏を勘繰るなという方が無理な話なのである。
「るな?」
ふつふつと怒りが溢れて来たところで、アリスの声が意識を引き戻した。……ああいけない。こんなこと、この楽しい食事の席で考えることではない。私を伺うその瞳は善意の心配と好意で満ちていて。嫉妬程度ならまだしも、こんなに優しく賢く愛らしいアリスに直接敵意を向けるなんて、まったく理解できない。性根が腐りすぎだ。
「ふう……ううん、何でもない。ごめんね?」
また沸き上がりかけた怒りと悲しみの感情を溜め息と共に吐き捨てて、表情を笑顔へ変える。気付けば私たち二人の皿は空っぽになっていた。
「そっか」
「ええ」
代わりにいっぱいになったお腹を摩りながら、ステラに目配せする――――までもなく、従者三人は既に準備を終えていた。お互い優秀な従者に恵まれたものだ。
たちまち気分を明るくした私は“ごちそうさまでした”とアリスに倣って両手を合わせて。立ち上がって傍に寄り、椅子から降りるのを手伝ってやる。ついでにぽんぽんと軽くスカートを払ってあげて、そのまま手を繋ぐ。
「ありがと」
それを彼女は、何の抵抗もなく優しく握り返してくれて。
きっとこれからもアリスは、そしていずれは私も、何かしらの嫌がらせを受けることになるのだろう。
「……行きましょ、アリス」
「うんっ」
……でも。
「変なところ触っちゃダメですよ、ルーンハイム様」
「アリス様、転ばないように気をつけてくださいね」
「大丈夫です、姫が転びそうになったら私が全力で受け止めますから!」
――――でも、きっと大丈夫。
だって私たちの周りには、こんなにも支えてくれる人たちがいるのだから。
次回更新は明日の12時です