第3話 無知の知
「おはよう。昨日はぐっすり休めたかね」
「おはようございます、先生」
始業の時間となり、いつもよりほんの少し遅れて教室へやって来た祖父は教壇へ上がると言った。次々とクラスメイトが挨拶を返したのを、眠たそうに瞼を擦りながら生返事で応えていて。それにつられて私も眠気がぶり返しそうになるが、ぶんぶんと首を振ってそれを散らした。微睡んでいては授業など頭に入らない。しっかりしなければ。……まあ、それを教える当人が眠たそうなのだけれど。だがそれは仕方ない部分もあるだろう。学園祭に際して、忙しいのは何も生徒だけではないのだから。むしろ、関係するすべてを処理しなければならない教師側の方が労力は大きいだろう。しかも彼らは学園祭が終わったからといって、さあ通常営業だ、とはいかないのだ。色々と後片付けもせねばなるまい。
「……眠たそうね。昨日しっかり休んだの?」
「ふえあ……」
ぼうっとそんなことを考えていると、これまたいつもよりかは疲れた声音でルナが言った。私は間抜けな声を返してしまって、やっぱり眠気は意識したところで中々とれるものではない。ルナはそんな寝惚けた様子を見てちゃんと休んだのかと疑っているようだが、一応、昨日は一日部屋の中にいた。食事でさえ食堂まで行くのが億劫で部屋で済ませたのだ。ミラさんが以前買ってきてくれていた干し肉が残っていて助かった。けれどそれでも、一日部屋でぐったりしているくらいではとれないほどの疲労を抱えていたらしく、この通りである。何でもないようなフリをしているが実は今朝は遅刻しかけた。起床時刻がいつもより半刻以上も遅かったのだ。なんとかいつも通りの時間に来れたのは私がぐーすか寝坊している間にベルさんとミラさんがすべての準備を整えてくれていたからだ。いつにも増して平身低頭な寝起きであった。
「うん。やすんだ」
「そう。まあ、かくいう私も眠いのだけれどね。ふあ、あ……」
「んふ。いっしょー」
のほほんと中身のふわふわな会話を交えながら、なんとか頭を働かそうとするも上手くいかない。今朝何を食べたのかも曖昧である。ああでも、そうだ。“手紙”のことだけは覚えている。マリアーナからの、つまり父からの手紙だ。内容は学園祭に行けなくてすまないという謝罪と、上手くやれているかとの心配だった。結局届いたのは昨日だったが、本来は学園祭が始まる前に届くように、と出したのだろう。演劇をすると聞いた、頑張れ、みたいな文面があったのだ。遅れることもあるだろうとそこまで気にはならなかったが、なんとなくベルさんに聞いたところ、何でもここ最近は手紙に限らず、あらゆる物流が遅れがちらしい。
そういえば、あの父と対面して間もない頃、仕事部屋を見せてもらった時も、今年は不作だったから税を減らすというような話をしていた覚えがある。それはマリアーナに限らずだったのかもしれない。全土での不作ともなればその解消には年単位で時間がかかるだろうし、こうしてじわじわと遅れて影響が出てくることもあるだろう。
……今思えば、ここの食堂にもその影響は顕著に出ているのではないだろうか。メニューに上がるのは肉や魚料理ばかり、野菜はスープの具としてくらいのものだ。毎度それらばかりを出すのは単に貴族ばかりが通う故のことだと思っていたが、実はその裏に農作物の不作があるのだろうか。
アヤメとの出逢いだってそうだ、彼女は餓えに餓えて私たちに襲いかかってきたのだ。勿論子供の身で群れからはぐれてしまったというのが一番大きいのだろうが、それでもあの知能と身体能力なら小動物くらいは狩れそうなものである。それが出来なかったのは、そもそも獲物がいなかったからだとは考えられないだろうか。もしも本当に全土で農作物が不作だったのだとすれば、それは規模からして人の育てているものだけに当てはまるような要因で起きたものではないはずだ。もっと自然環境そのものの……とすれば、それらを餌とする草食動物は当然数を減らし、生き残るためにより慎重になるだろうし、そうなれば必然的に肉食動物の獲物も減る。それが間接的にアヤメとの出逢いを、あの状況を作り出した。
「アリス?」
考えれば考えるほど、それが正しいというような気がしてならない。基本的に館の内に、そしてここに来てからも学園内に引きこもっていたが為に、或いは自分のことばかりで精一杯だった故に知らなかっただけで、もしかすれば王国は今、かなり深刻な事態に陥っているのではないだろうか。
……ルナなら、きっと何か知っているだろう。授業が終わったら聞いて見てもいいかもしれない。
「アリスったら……大丈夫?」
「う、うん、だいじょうぶっ。ちょっとねぼけてた」
「まったく。もう始まるわよ、ほら。しゃんとしなさい」
「あい」
そのことは今はとりあえず頭の片隅に仕舞って、授業モードに切り替える。幸いじっくり考え込んだおかげで脳のリハビリになったのか、眠気は大分マシになっていた。んんっ、と一つ背伸びをして、更にぺちぺちと軽く頬を叩こうとして。
「……もうちょっと周りを気にしなさい。」
「えっ」
その横からぷにっ、と。僅かに頬を赤らめたルナが手を伸ばして、人差し指で私のお腹を突いた。バッと視線を下げると、衣服が捲れ上がってお腹がお臍まで露出していた。かーっと顔に熱が溜まっていくのがはっきりとわかる。
「きゃぁ……」
「きゃあじゃないわよ、きゃあ、じゃ。……大方いつもローブばかり着ているから、上下で分かれていることを忘れていたとか、そんなところでしょう」
図星である。いやほんとまさにその通り、いつもワンピースのものばかり着ているから今もそのつもりで、服の捲れるのなんて欠片も意識していなかった。きゅっと心なし隠れるようにルナの方へ寄って縮こまりながら、周りを伺えば祖父を含め、クラスメイトみんなが微笑ましげな苦笑を浮かべながら見て見ぬフリをしてくれていた。……いや、何人かだけ妙にギラついた目線で此方を見ている少女がいる。が、ルナが其方を睨むと慌てたようにその視線も消えた。なんとなく火花が散っていたような気がする。一体何の攻防だ。
「……えー、では、本日の授業を始める」
こほん、と一つ咳払いをした祖父に背筋を正した。あちこちで花を咲かせていた声がピタリと止み、けれど和やかな雰囲気はそのままに。不思議なもので、ついさっきまであれほど教室中に蔓延していたゆるだらお怠けムードはこの時にはもう霧散していた。切り替えが早くて羨ましい。
「さて、今日は……そうじゃの。少し本筋から外れて、御伽噺の話なんかをしてみようかの」
「おとぎばなし?」
ついつい身内の体で普通に聞いてしまって、ハッと口を噤む。流石に気が抜けすぎである。それでも祖父はどうやら見逃してくれるらしく、うむ、と微笑むようにすると話を続けた。
「そう、御伽噺じゃ。皆は幾つも知っていることじゃろう。今日は、それらに出てくる魔法について考えてみよう」
「おとぎばなしの、まほう」
こくこくと何度か頷きながら。なるほど、御伽噺に出てくる魔法について、か。中々興味を惹かれるテーマだ。とっても面白そうである。この魔法は実在するのか、再現できるのかとか、実際に在ったとしたらどんなものかだとか、そういった話をするのだろう。未だ疲労が残って怠さを感じている私には丁度いいリハビリになりそうだ。ふと周りを見ればみんなそれは同じだったらしく、少し肩の力を抜いて話を楽しむような姿勢になった。祖父は勿論、そういうことを理解した上で配慮して、態とこのタイミングでそういう“寄り道”をしてくれているのだろう。或いは自分が疲れているのもあるのかもしれないが。しかし実際、寄り道ではあるもののこういったテーマを考えるというのは視界が広くなって良さそうだ。きちんと勉強にもなるだろう。……特に、そういった御伽噺とされているような魔法を持ってしまった私には。
「そうじゃの、まずは……“マリーちゃんのまほう”はどうじゃ、皆一度は読んだことがあるじゃろう」
祖父の言うとおり、私もそのお話は知っている。というか、御伽噺に関してはこの教室の誰よりも知っているという自負がある。なにせ数年間部屋で引きこもっている間、ずっとそういった絵本ばかり読んでいたのだから。少なくともお館に置いてある分は全部内容を覚えるくらいには読んだ。マリーちゃんのまほうは、タイトルの主人公マリーちゃんが館で出される料理に飽きて、新しい食を求めて下町へ飛び出した先で庶民の貧しい暮らしを知り、意地でも新しい料理を食べたいがために成長の魔法を使って飢餓を解決するといったお話だ。無邪気なお嬢様が貴族の本来の姿を体現する、時を積み重ねて“大人”になった現在の貴族への皮肉とも解釈できる。王国の御伽噺にはそういった風刺的な色が秘められている場合が多いように思える。これら物語を生み出したのは庶民の出身がほとんどを占めているらしく、庶民の人々の間全体で暗黙に共有されているそういった不満が顕れているのかもしれない。
「ぱんがないなら……」
「――――育てればいいのだわ。そう、そのセリフで有名じゃな」
ぼそりと思い出すように呟いたそれが、思いの外待ってましたとばかりに拾い上げられてちょっとびっくりする。ぼーっとしてたら唐突に指名された時みたいに若干体が跳ねて、それをルナが机の下でぽんぽんと膝を叩いて宥めてくれた。幸い全員の意識が話に向いていたので気付かれることはなかった。別に気付かれたからどうということはないが、ただ単純に間抜けな感じがして恥ずかしい。授業の初っ端でお腹が丸見えになる醜態を晒しておいて今更感はあるが。
「物語の内容は置いておいて、さて。その魔法に目を向けてみよう。彼女の魔法は何だったかな?」
「成長の魔法、です」
「そうじゃ。作中では枯れかけだったり発育の悪い作物を一気に実らせる描写があったな」
青年が答えたのにうむ、とまた頷いて。祖父は細かな受け答えを重視した授業の進め方をする。そうすることで授業への積極的な参加を促し、無意識の内に集中させているのだろう。やはり学園長というだけあってか、こうした話に引き入れる技術は匠である。ただ聞くだけの常に受け身な授業ではなく、自分からも何かを発する。それが本当は別に、態々口に出すほどのことじゃなかったとしても、その一連の流れがあるだけで退屈をしなくなる。また、指名して質問を振ったりもしてくるので適度な緊張を維持できるのだ。
「では、皆はあの成長の魔法が実在すると思うかね?」
目立った回答はなかったが、私含め、皆一様にうーんと微妙な表情をする。ない、と断言は出来ないが、そんな話は聞いたことがないからである。実際、御伽の存在とされていたはずの氷の魔法は存在したのだから。
「はは、答えにくい質問だったかな。聞き方を変えよう……この世界の何処かの誰かに、成長の魔法が発現する可能性はあると思うかね?」
今度は全員が頷いた。可能性があるかどうかならあると断言できる。私からしてみれば、魔法というものが存在する時点で何事も有り得ないなんてことはないのだ。前世のこともあるし、まだまだ世界は不思議なことばかりなのだ。
「うむ。そうじゃ、可能性はある。しかし諸君らは最初実在するかどうかを聞いた時は否定的な反応をした。それは何故かな」
……確かに、そう聞かれると何故だろう。あの時はそんな話は聞いたことがないからと思ったが、その後可能性を尋ねられると途端に気持ちは肯定的になった。有り得ないなんてことはない、と。これではある種ダブルスタンダードである。微妙に論点が違うからという言い訳も出来るが、実在すると思うかというのも結局は自分が可能性としてどう思うかの話であり、本質的に聞かれていることは同じなのだから。違うと感じるのは、たぶん感情的なものである。
そして、祖父の質問への答えを探す。可能性があるかどうかと聞かれるとあると言えるのに、実在するかどうかを尋ねられるとないと答えてしまいそうになるのはどうしてだろうか。
……いや、これが例えば、氷の魔法について尋ねられていたのならどうだろう。私は当然、両方の質問で自信を持ってあると答えられたはずだ。それは、その魔法が存在すると“知っている”から。同じく、実際に各所で目にした炎や水、身体強化の魔法なんかもそうである。知っているとはつまり、それの存在を感じられる、信じられる出来事があったということ。つまり……。
「みじかに、ない、から……?」
答えは返ってこないと思っていたのか、丁度語りだそうとしていた祖父は一瞬固まって、そのまま口を閉じると少し驚いたように目を薄く開いた。それからにこやかな表情になると、嬉しそうに、大仰に拍手までして。皆の注目が集まるのがわかった。
「――――然り。百点満点の解答じゃ。……そう、皆が二回目の質問で肯定しながらも最初の質問で首を傾げてしまったのは、それを身近に感じたことがないからじゃ。では、これからわかることは何かな」
「……私たちの暮らしと魔法は、密接に関わっているということ、でしょうか」
後ろの席の青年が答えた。祖父はふむ、と髭をしゃくりながら。否定はしなかったが、求めていた答えではないようだ。しかし一つの正解でもある。一秒に満たないほどの間を開けてそうじゃの、と頷くと続けた。
「ワシらにとって魔法とは、常に身近にあるもの。魔法があるから今の社会があり、文化がある。それは間違いではない。しかし、ワシが思うのは、もっと根本的な部分じゃ。言ってしまえば、魔法は一つの例に過ぎない」
祖父がそう返すと教室は沈黙した。全員が答えを求めて考え込んでいるからだ。祖父は何を言うでもなく、ただそれを見守ってくれている。“私たち”が自力でそこに行き着くために。私はなんとなく、その答えがわかり始めていた。けれど漠然とした、何か感覚に近いようなもので、言語化するのに手間取っている。すると一足先にそれを完遂したルナが、少し自信なさげに唇を開いた。
「……視野を広く、自分の考えに凝り固まることなく柔軟な思考を持て、と。そういうことかしら」
それはまさに私が感覚として掴んだ答えを言葉にしたもので、思わず声が出そうになった。授業が始まった時と同じくらい気が抜けたままであったら恐らく、それ!それがいいたかった!などとみっともなく叫んでしまっていただろう。白い目で見られるか苦笑されること間違いなしである。
「その通り! いや、皆実に優秀だな。そうじゃ、ワシが言いたかったのは、まさに王女殿下の言った通り。……人は基本的に、自分が体感したもの以外を信じにくいのじゃ」
祖父はそこで一度言葉を切ると、何か遠い日の記憶を見ているような瞳で、だから私は、私たちは誰も何も言えなかった。そこには長い……長く、長く積み重ねられた、“時間”があったからだ。その言葉の重みが、私たちにそれを理解させるのに十分すぎるものだったからだ。
「皆には……――――皆には、そうなって欲しくない。視野を広く持ち、色んなものに見て触れて欲しい。世界は常に、自分が思うよりも少しだけ大きい。そこには思いもしないことが沢山ある。そして、その思いもせぬことと出会った時、信じられぬと目を瞑るのではなく、しっかりとそれを見つめて欲しい。そうすれば、ああ……君たちは、きっと気が付けるじゃろう」
祖父はそれ以上を、何に気付くのかは言わなかった。それを見つけるのは私たちだからだろう。その先の言葉は、人それぞれなのだ。きっと祖父はそれに気が付けなかったのだろう。目を瞑ってしまって、ずっとそれを後悔しているのだろう。だから、私たちにはそんな想いをして欲しくないと。教師としてではなく、“マッグポッド・マウリスタ”というただ一人の人生の先達として、教えてくれたのだ。学園祭も終わって、色々と一段落した今このタイミングでそれを教えてくれたことにも意味があるのだろう。知らなかったものを、“誰かと何か一つのことを一緒にする”ということを、“ともだち”を知った今だからこそ、より素直に受け入れられる。世界は常に、自分が思うよりも少しだけ大きい。
「……さて。本日の授業は以上。残りの時間はそうじゃな、のんびり雑談でもしようかの。……いや、どうも体が怠くて仕方がなくてな。授業なんてやっておれんわ。はっはっは!」
祖父の冗談に笑顔の咲いた教室は、それから授業が終わるまでの間、ずっと笑い声が響いていて。私もそこに混ざれていることを改めて嬉しく思いながら。
……やっぱり、王国の現状のことを、後でしっかりルナに聞いてみようと決意したのだった。
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