第2話 聞くは気の毒、見るは目の毒
「お疲れ様でした、姫」
「うん。ありがと」
初めての学園祭を十分に堪能した私は、夕食後ルナと別れ、半日ぶりに部屋へ帰ってきた。勞ってくれる二人にそう返事しながら扉を開けて、潜って。パタリとそれが閉まる音を聞いた途端、ドっと全身にくまなく疲労が襲った。部屋へ帰ってきたことで気が抜けたのだろう。一瞬意識が遠のくほどの脱力を感じて、その場に倒れ込みかけたのをすかさずベルさんが支えてくれた。
「わっ……とと、大丈夫ですか? アリス様」
「あふ……つかえたー」
「ふふ。とっても頑張っておられましたものね。アリス様の演劇、素敵でした」
「ほんと?」
ひょいと私を抱き上げたベルさんの首に、滑り落ちないようにしっかり両手を回して。ふっと息がかかるくらいの距離の優しい表情に癒されながら、なでなでと後頭部を撫で付ける手の温かさに埋まる。疲れもあってか、ぽうっと蕩ける視界にふわりと笑顔が溢れて、ベルさんの声が密着した体を直接通って胸の奥まで響いていった。
「はい。ほんとです。約束のお歌も、聞かせてくれました」
「えへ。どうだった……?」
言うまでもなく、それを察してくれていたのに自然と頬が緩んで。作曲の経験など一つもない私の、ただ好きなフレーズをツギハギしてなんとか出来上がったあの歌の感想を聞く。専門的なことなんて何一つわからないし、あらゆるところからパクっただけと言われればまあその通りなのだが、それでも頑張ったのだ。自分なりにまとまりのあるようなフレーズを選んで、それをおかしくないように組み合わせて、所々の繋ぎの部分をなんとか自分で考えて。これでも結構、頑張ったのだ。だから、有り体に言ってしまえば、ベルさんにそれを褒めて欲しかった。きっとそうして初めて、この頑張りが報われる気がしたから。
「そうですねぇ」
と、ベルさんは考えるようにしながら、ベッドの方へ。揺れる肩越しにミラさんが演劇で使ったドレスなど、色々と片付けをしてくれているのを眺めて。ふと此方に気付いて目が合うと、ミラさんはどうされましたか、と尋ねるように首を傾げながら微笑んでくれる。ううん、と小さく首を振りながらありがと、と唇を動かすと、なんでもないとばかりにいえ、と返してくれる。テキパキと慣れた手つきで軽い整理をするのをただ、邪魔しては悪いとそれ以上は何も言わずに。
「ベッドにお降ろししますね」
「うん」
ベルさんがゆっくりと腰を曲げてくのに合わせて、私も両手を少しずつ離す。ぽすんとお尻から順番にベッドへ体を降ろして行って。後頭部がきちんと着いたのを確認したベルさんの体が離れていくのがなんだかちょっぴり寂しく感じて、じっとその夜空のような瞳を見つめてしまう。すぐにそれに気付いたベルさんはくすり、少し困ったように笑って。逆再生で再び近づいてくる体。
「……大丈夫ですよ、ちゃんとお側にいますから」
「う、うん……」
相変わらず全部見透かされているのが恥ずかしくなって、ふいっと逸らした頬に。ちゅっと、柔らかい音が弾んだ。すぐに離れていったその感触の正体を理解した私がパッと見上げた先で、ほんのり頬を赤くしたベルさんが大丈夫です、ともう一度繰り返して。ぐるぐると目が回るような錯覚を覚え、隣に転がる相棒を勢いよく掴むと両手で抱いて、それに顔を押し付けて覆い隠した。濃密に凝縮された数秒、お互いに沈黙していたのを打ち破ったのはミラさんの抗議の咳払いだった。
「――――こほん!」
「……はっ、い、いえ! お歌のお話でしたね、えっとっ……!」
まったく、私もいるんですからね、とぷんぷん怒ったミラさん。何処か可愛らしく感じてしまうが、続くそーいうのは二人きりの時にしてくださいとのお言葉はきっと何か勘違いしている。出来れば早急に解消したいがしかし、今の私にそんな気力はなかった。ぐったり。
「ぐたー」
「よしよし。……それで、お歌ですが、そうですね」
「きらきら」
実際に瞳を輝かせる体力は残っていないので、感情表現は言葉で行う。こんな時にオノマトペは大変便利である。まあ、行動を口に出してしまうというのが無意識の変な癖になっているらしく、今に始まった話でもないのだが。ともかく、声に出した通り期待と不安でベルさんの感想を待つ。あんまりだった場合はぜひ厚いオブラートに包んで頂けると嬉しいです、ベル様。
「まず第一印象として、聞いたことのないような、けれど親しみを覚える歌だった、というのが大きいです」
「きいたことない、したしみ」
「はい。お歌自体は今まで私の聞いた、どんなお歌とも違う、新しい音楽でした」
これはルナもそうだった。やはりまずは、今まで聞いたことがないという新鮮さに気を惹かれるらしい。そもそも土壌からして違うのだから、勿論そう感じるのだろう。けれどベルさんは更に、親しみを覚えた、とも言ったのだ。これは、どうしてだろう。
「でもその根本というか、うーん……言葉にするのが難しいのですが、私が普段から耳にするような音楽と何処かで同じ部分も感じたのです。こう、音の訴えかけてくる何かが……」
……なるほど。ああいや、なるほど。私はベルさんのその言に、何かがカッチリとハマったような感覚を覚えた。
ベルさんがあの歌に親しみを覚えた理由。それはきっと、音楽の“社会性”なのではないだろうか。音楽を通して訴える何か、その内容。つまり、音楽の生まれる環境、アーティストたちが音を生み出すその背景が、私のいたあの世界、時代のそれと一周回って近似しているのではないだろうか。
「いっしょ」
そう、一緒だ。一緒なのだ。文化や文明の度合いこそ大きな差があれど、上が下を奴隷的に搾取するというこの封権的、専制独裁的な社会環境そのものが、一緒なのだ。その身分を決める生まれや財力などの一つに魔法という要素が加わったに過ぎない。結局はほとんど同じこと。ならば、そこから生まれてくる音楽というのは、本質的に同じ部分があるのではないのだろうか。世界が変わっても、人間は人間である。私はそれをいい意味でも悪い意味でも、幾度も痛感してきたのだから。
「はい。いっしょ、なものを感じました」
「うんうん」
スッキリと疑問が解ける、解けたような気がする快感に、にっと頬が上がった。いけない、また内側に沈んでいた、と意識を浮上させて。するとベルさんが何故だかホッとしたような、というか実際にホッと安堵の息を吐いていて。どうしたの、と目線で尋ねると苦笑しながら。
「アリス様のお歌を、完全ではないもののなんとなく理解することが出来ている、と。そんな情けない安心です」
「……えっ?」
一体何の話だろうか、と己の言動を振り返って、納得した。……ああ、そっか。偶然にも会話が成立してしまっていたのだろう。ベルさんの視点からすれば、そういうことになるのだ。感想を求められてなんとなく感じたことを言うと、それに私が一言補足して。同意を返すと更に私が喜んだようににっと笑ったわけで。
……たぶん、ベルさんが理解したものは私の意図しない、元の作品様方の高尚な感じの何かです。私が込められたのはベルさんたち大好きな人への想いだけで、そんな、聴く人に訴えるような何かは考えてもいません。でも、本質が一部一緒なのだという結論は今し方思索の果てに得たとおりで、つまりベルさんが理解したらしいなにかは実際間違いでもないのだろうから反応に困る。今更否定するのも変だ、とりあえず頷いておこう。まあ、というのは言い訳で、単に今の思考でなけなしの気力を消費したばかりに撤回したり代わりの言い分を考えるような気力がなく、疲れで頭がろくに回らないから投げやったというのが本音なのだけど。
「ふぁ……」
そのままベルさんと他愛もない話を続けていると、とうとうぼうっと視界が霞み始めて。重い瞼を擦りながら欠伸をした。うつらうつらと揺れる意識が心地よくて、気を抜けば一瞬で深い眠りに落ちていってしまいそうだ。明日は休みだから、遅刻を心配する必要がないというのも有難い。きっと、流石に学園祭で疲れているだろうから翌日は休日にしておこう、というような学園側の配慮なのだろう。
「あら……ふふ。もうお眠りになられますか?」
ハッ、と。沈みかけていた意識が、ベルさんの声で蘇る。なんとか半分ほど目を開ければベルさんと、片付けを終えたらしいミラさんが私を覗き込んでいた。何も聞いていなかったが、たぶんもう眠られますか的なことを聞いていたのだろう。こくりと小さく頷いて、半開きの瞼を完全に閉じる。ああ、体が重い……。力が抜けていく。
「おやすみ、べる、みら……」
「おやすみなさいませ、アリス様」
「おやすみなさい、姫」
ふんわりと私を包むように返ってきた二つの“おやすみ”に、私は頭の中のランプを消して。長く濃い、とっても楽しかった一日の記憶を夢に浮かべ始めた。
「お眠りになられましたね」
律儀にもおやすみなさいと一言置いて夢の世界へと沈んでいったアリス様を、邪魔をせぬように見守りながら。ミランダさんが静かな声でそう言った。やはり、かなりお疲れになられていたのだろう。それもそうだ、あんな数の観客の前で演劇、それも一番最後の場面を王女様としたというのだから。そんな緊張、大の大人でもそうそう耐えられるものではない。幼く……そして、人混みの苦手なアリス様にとって、どれだけの負担だったのだろうか。幸いだったのは、王女様がそれを支えようとしてくださったことだ。出番が来て舞台に上がる際、お二人は手を繋いで歩いていた。きっとその“繋がり”のおかげで、アリス様は大勢の観客を前に、それでも御自分の世界へと集中することが出来たのだろう。けれど、やっぱり不安を抱えておられたのだ。どうだった、と感想をお求めになる姿は少し怯えているようにすら見えて、ぎゅっと抱きしめて差し上げたくなる可愛らしさも秘めていた。ベッドにお降ろしした時の寂しげな目線にはとうとう我慢できず、頬に口づけまでしてしまった。反省しなければいけない。頬とはいえ、何処の世界に主に勝手にキスをする従者がいるというのか。
「ん……」
吐息を漏らして寝返りを打ったアリス様に、意識を引き戻した。アリス様のこととなると、ついつい周囲も気にせずに考え込んでしまうのは悪い癖である。少々不自然に長い間に私を見たミランダさんにそうですね、とようやくの返事。もう数年も前に差し上げたぬいぐるみを、未だに大事に抱いてくださって。あどけない寝顔をそれに埋める姿を見ているとでれでれと頬がゆるゆるになりそうになるが、それを声に変えて発散させることで堪える。
「ふふ……ぐっすり、ですね」
「姫の演劇、本当に凄かったです」
「はい。前の席の魔導師の方々も驚いたように話しておられましたね」
うんうん、と頷き合いながら、改めてアリス様の演技を思い出す。……ええ、まるで、本当にそこに待雪物語があるようだった。舞台の上のアリス様はもう、完全に白雪の天使様そのものだった。しかし、演技もお歌も、きっと得意なのだろうというのはなんとなくわかっていたことだけど、あんなに上手だとは思っていなかった。ミランダさんはきゃーきゃー声を上げて狂喜乱舞しておられたが、従者でなければ私もそうしていたかもしれない。お生まれになられてからずっと傍にいた私ですら、初めて知った一面だったのだ。それと、アリス様だけではない。王女様も、とてもお上手だった。色々とその才覚の噂は耳にしていたけれど、どうやらどれも真実らしい。……あの、此方まで伝わってきたような強い感情移入の仕方は、それだけではないように思えたけれど、それ以上は邪推である。あくまで、そういうものは常に当人同士のお話であるべきなのだ。王女様のあの涙に秘められた決意は簡単に察することが出来たけれど、決して口を出すべきではない。唯一何か言える人がいるとすれば、それは王国中でただ一人、彼女の隣を歩くことの出来るアリス様だけだ。
「……そういえば、ノクスベルさん」
「はい?」
ふと掛けられた声に振り向くと、何やらニヤニヤと気味の悪い笑顔を浮かべているミランダさん。ヒソヒソと内緒話をするように隣まで寄ってくると、わかってますよ、とばかりの確信めいた声音で。
「さっきの姫へのキスは、やっぱり演劇でのあれに対抗して、ですか?」
「……へ? ――――はいっ!?」
い、いきなり何を言い出すのだろうか、この人は……!
確かにそれ以外の、王女様自身の感情が篭っているように思えたとはいえ、そんな、演劇でのキスに、あろうことか“対抗”などと……私は、アリス様の従者だというのに。いや、それ以前に、何故私がアリス様に恋慕を抱いている前提で話しているのだろう。突然そんなことを言われて混乱していたけれど、突っ込むべきはまずそこである。
「その慌てよう、やはり」
「い、いえ! ですから、そもそも私は……!」
「あ、そこからですか? 流石に、普段のお二人を見ていて、お二人共まったくそんな感情がないようには思えないですけど」
「えっ」
「幾ら姫がお生まれになられた時からずっと一緒にいるとはいえ、どう見ても普通の主従ではないです。明らかに親愛を通り越してます」
「そ、それはっ!」
グサリ。いつかカルミアにも言われた、意図的に見ないようにしていた点を突かれて。うっと息が詰まる。わかっている、本当は。……けれど、それこそあってはならないのだ。従者が……それも、十数年も歳の離れた幼い同性の主に、こ、恋を、するなど……。
「ん、んう…… べる、みら……?」
「あっ」
しまった。声には出さなかったが、ミランダさんと二人同時に、そんな言葉が漏れた。これはちょっと、騒がしくしすぎた。アリス様がお疲れで眠られているというのに。折角休まれていたのを起こしてしまった。完全に従者失格である。ミランダさんがばっと口を抑えるのを横目に、私は慌ててアリス様の傍に寄った。
「……大丈夫です。申し訳ありません、少し騒がしかったですね」
「ん、ふふ……たのし、そーだね」
主の眠りを妨げたのにも関わらず、むしろ自分が楽しいところに水を差したとでも言いたげな様子にキュンと胸を撃たれる。ああ、アリス様。どうして貴女は、そうも自分を顧みずに人に優しくなれるのですか。ベルは、とっても心配です。眠たげな瞼の下、真っ白な頬を包み込むように撫で、左手でその小さな細い手をきゅっと握る。すると安心したように再び眠りに落ちていくアリス様を静かに見守って……。
「だいすきだよ、べる……」
手を離そうとしたその間際、不意打ち気味に飛び込んだその言葉。ピシッ、と緩みかけていた何かの糸がもう一度張りを取り戻したのがわかった。
――――今、今この状況で、それを言うのですか、アリス様……!
完全に硬直した私に、ほら、とばかりに胸を張るミランダさんが向けた会心の顔は。
……若干、いやかなり、腹立たしかったのだった。
次回更新は明日の12時です