第20話 貴族令嬢の彼女がいかにして友を見つけたか
「……よし。いくわよ、アリス」
「うんっ」
アリスの小さな柔らかい手をそっと離して。壇上に上がるや否や、今までより更に大きい歓声と拍手を浴びる。まだ劇が終わったわけでもないというのに今日一番であるそれは、きっと私が王女であるがゆえなのだろう。彼らは確かに演劇を楽しんでくれているようだけれど、だからといって身分の上下を忘れたわけではないのだ。勿論、それに拘らない一部の魔導師なんかは本当に歓迎として音を鳴らしてくれているのかもしれない。けれどそれだって、”王女だから”という要因はゼロではあるまい。でも。
「演技が終わる頃には、絶対」
絶対、その演劇の感動だけで以てこれ以上の拍手を響かせてみせよう。ただ私が王女だからというだけの、まやかしばかりの歓声ではなく。ただ素晴らしいものを見たという気持ち、そこから生まれる感動で湧き上がる自然なそれを、響かせてみせる。大丈夫、私とアリスなら、アリスが生み出したこの新しい“歌”なら、それが出来る。
「るな」
「ええ」
それを始める前にもう一度、どちらからともなく顔を向け合って。交わすのは一言だけで十分だった。それだけで、お互いの気持ちは通じ合っていた。短いようで長いような、この七日間。二人で積み重ねた努力の成果を、すべて出し切るのだ。
「ルーンハイム様……」
観客席に戻した視線の先で、ステラが私を見ていた。ここまでは届くはずもないその呟きが、私の耳にはきちんと聞こえていた。その隣でアリスの従者二人が同じような面持ちでアリスを見ている。チラリと隣を伺うと、彼女も当然それには気付いているようで、大勢の観客を前にしてほんの少し強張っていた表情が和らいだのがわかった。
「……そうよ、ね」
ピリっと胸に走った痛みのことは、今は忘れて。だいじょうぶ? と視線で尋ねるアリスに微笑みを返した。それを合図に、互いの距離を少し離して、更に一歩前に出る。目を瞑って、集中を高めていく。やがて拍手と歓声が収まり、ピン、と一本の静寂が場を支配したのを感じ、すぅっと深く息を吸った。そして。
「――――ああ、どうして、どうしてですか。天使様」
突然天使から告げられた、もう会えないという言葉。第六章は、その直後から始まる。ゆっくりと開いた目を悲しみに垂れ下げて、声にもそれを含ませる。胸を両手で抱えて崩れるように膝をつく。その先でアリス、いや、雪の天使は儚げに背中を向けている。数秒の沈黙、俯いていた顔を天に向けた天使は、白く細い喉で震えた声を鳴らした。
「……かえらねば、ならぬからです」
まだ舌足らずな愛らしい発音で紡がれる言葉は、しかし何処か消えて行きそうな悲哀と天使という穢れのない無垢な存在を感じさせて。アリスの聖女さながらの神秘的な容貌に目を見開いていた彼らは、すぐに別の理由で彼女に惹き込まれた。あの時の私と同じ、彼女の世界の住人となったのだ。
「何故、何故なのです。今までこの世界で過ごした時間は、本当にただの夢だったとでも言うのですか」
「……いいえ。けれど、ゆめは、いつだってゆめなのです。あなたにあなたのげんじつがあるように、わたしにもわたしのげんじつがある」
縋るように一歩立ち上がると、天使も此方に振り返って。悲しみと慈悲の混ざった、複雑な苦笑をする。それに一瞬、演技だということを忘れそうになる。アリスは天使の心情を完璧に表現している。……いや。
「ああ、天使様……」
アリスは今、天使を演じているのではない。正しく今の彼女は、物語の“天使”なのだ。きっと私のことも、ルーンハイムという少女ではなく、天使との悲しい恋に落ちた一人の詩人として見えているのだろう。
「ゆきをふらせたら、わたしはもとのばしょへかえらなければなりません」
「そん、な」
詩人に絶望を告げるその言葉に目元を抑え、嗚咽を漏らす。天使はそれをただ、俯いて眺めていた。そう、彼女はいずれ帰らねばならない。そして、私も帰らねばならないのだ。元いた、本来の自分の場所へ。
「……もし、もしも」
項垂れる詩人を見て、天使は一歩だけ歩み寄り、そしてしゃがんだ。雪を司る天使と一人の人間は、この一時、恋に悩むただの二人に帰す。感情がそこにある限り、こと恋愛なんかに関しては、誰にも違いなんてものはほとんどない。好きな人と会えなくなるのは、誰だって悲しいのだから。
「もしも、わたしがただのしょうじょだったら、あなたは、こんなおもいをせずにすんだのでしょうか」
何かを無理やり押し殺したような、震えた声。詩人はハッと顔を上げた。そうだ、辛いのは私だけではないのだ。本当にただ一方的に向けた恋情であれば、こんな時間が設けられることもきっとなかったのだから。
それを証明するかのごとく、天使の瞳は潤んでいた。
「いいえ、天使様。それは……それは、違います」
壊れそうな天使の言葉を、しかし否定する。それは、違う。確かに、あなたがあなたでなければ、私が私でなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。けれど。
「何故なら私は、こんなに苦しい今でも、あなたといる時間を幸せに思えるからです。何故ならあなたがあなたで、私が私だからこそ巡り会えたからです」
「けれど、でも」
「はい。確かに、こんな悲しい、苦しい終わり方をするなら、出逢わなければよかった。……そんなことを、一つも思わなかったと言えば嘘になりましょう」
……そう、そうだ。
――――もしも、私が私でなかったら。
きっと、ここで出逢うことはなかった。
――――もしも、あなたがあなたでなかったら。
こんなにも、恋焦がれることはなかった。
「……でも、私は。他の何を犠牲にすることになるとしても、あなたへのこの想いにだけは嘘を吐きたくありません」
「うそ、ですか」
例えどれだけ苦しい結果が待っているとしても。例え、どれほどの悲しみが待っているのだとしても。その気持ちにだけは嘘を吐けなかった。誤魔化すことなんて、やっぱり出来なかった。
「はい。それだけは、きっと、あなたも同じだと信じています。……あなたは、私と出逢いたくなんて、ありませんでしたか?」
「……いいえ」
そっと目を伏せた後、今度は溢れる涙も隠そうとせずに。天使は、首を振った。私はそれが嬉しくて、けれど悲しくて。泣き出してしまいそうになるのを堪えながら、“詩人”は言った。
「……ならば、こんな想いをせずにすんだ、したくなかったというのは、嘘になります」
本当は気付いていた。
知っていて、それでも吐いた“嘘”を、最後まで貫くことが出来なかったのだ。
「しじん、さん。……ああ、やはり、てんしがうそなんてつけるはずも、ありません」
「天使様……」
そう、天使は優しい嘘を吐いた。自らの胸が張り裂けるような悲しみを隠して、答えを出さぬまま去ろうとした。けれどそれは、彼女にとって最も残酷な嘘。そんな酷い苦しみを、ただ彼女にだけ背負わせるようなことを詩人は許せなかった。
「しじんさん。……でも、それでも、わかれねばならぬというのは、かわりません」
「……いいえ」
そして訪れるそれを、しかし否定した。わかっている、実質的には、本当は、そんなこと叶いはしないということを。けれどそれでも、それを信じることは、夢を見続けることは出来る。詩人は、そう考えたのだ。
「私は、待ちましょう。次に雪が降る、いつかの未来まで。例えどれだけの時を待つことになっても、もしかすれば生きている間にそんな日が来なくとも。それでも、私は、待ちましょう」
「……しじん、さん」
「……だから、教えてください。私の気持ちへの、あなたの答えを」
そうして詩人は、目を瞑る。
今までの日々を。二人で楽しく、慌ただしく過ごした、この積み重ねた濃密な短い時間を。
そうして私は、目を開ける。
これからの日々を。捨てなければならぬ想いを、それでもまた積み重ねられると信じる長い時間を。
「……私は、あなたが」
そして、二人で外を眺めるような仕草をして。続きのセリフが紡がれないのに、観客が首を傾げていて。
私はもう一つ大きく息を吸うと、ありったけの想いを乗せて。
「……“降り積もる雪に空を仰ぎ”」
その歌を、響かせた。
「“凍える指に恋う温もりは――――”」
……わかっていた。本当は、気付いていた。
あの日、初めてあなたに会った時から。不器用な言葉に、快く笑顔を返してくれた時から。
初めての“ともだち”と過ごす時間は、いつからか、初めての“好きな人”と過ごす時間に変わっていった。
あの時、あなたを隣に座らせたのも。あの時、あなたを食事に誘ったのも。
今この時、あなたとこの場面を演じるのを望んだのも。
「“零れた涙に夢と儚く……”」
めぐる想いを歌声に変えて、頬を伝う涙を拭い、何とか私の部分を歌いきる。
続いて、アリスもその透き通るような天使の歌声を響かせる。そこにいつもの辿たどしい発音はなく。私はそれを成した努力を知っている。何度も何度も歌い込んで完璧を追い求めるアリスを、傍で見ていたのだから。
「“舞い落ちる雪の空で仰ぐ”」
……わかっていた。ずっと、見て見ぬフリをしていた。
“王女”であるこの身では、それが許されぬと。
将来、次代の王を産まなければならない私は、その恋をしてはならないのだと。
「“凍える指を包めぬ夜は――――”」
けれど、それでも、この想いを隠すことは、知らないフリをするのは、もう出来なくて。
だから、伝えさせてください。詩人と天使の仮の姿で、私のあなたへの想いを、伝えさせてください。
「“零れた涙に夢と儚く……”」
アリスが担当の部分が終わり、最後。
今度は二人で歌声を重ねて。呆然と静まり返った学園中に、聞いているすべての人の心に、“待雪物語”を。
「「――――“覚める夢にまた雪を待つ”」」
そして、雪を待つ“詩人”のように、私も待とう。
いつかその想いを届けられる日が、それが許される日が、来ると信じて。
だから、今は捨てるのだ。忘れるのだ。
一度だけ伝えたら、胸の奥の奥の、秘密の場所に大事に仕舞って。
その日までは、“ともだち”の私でいよう。
「――――、……」
やがて、歌は終わる。深、と最後の音が染み込むように消えていって。まだ余韻の醒めやらぬ中、詩人と天使は――――私とアリスは、向かい合った。
ねえ、アリス。私は待つから。
その日が来ないのだとしても、これからずっとそれを夢に生きていきたいから。
……だから、今この一瞬の、刹那の誤ちだけは、どうか。
「る、るな……?」
紅く染まったアリスの頬に左手を添え、痛いほど心臓が高鳴るのを感じた。もうどちらのものなのかもわからないその鼓動の音を絡めるように、右手で細い腰を引き寄せる。演技だよね、とわたわた可愛らしく戸惑う様子に苦笑しながら、ごめんね、と小さく呟いて。
その薄い桃色の唇に、自らの唇を重ね合わせた。
「――――っ、んむっ……!?」
きゃっ、と何処からか黄色い声が聞こえた。
大人の貴族たちは次々に隣の者と話し始め、その後ろで私とアリス双方の従者が狂ったように騒いでいて。
「んん、ふっ、る、なぁ……いきが」
「……はっ!? ご、ごめんなさい、アリスっ」
一体どれほど重ねていただろうか。少なくとも十秒近くはしていた気がする。完全に夢中になってしまって、時が経つのを忘れていた。半分蕩けたような瞳で抗議してくるアリスに理性を破壊されぬように目を逸らしながら、もう一度ごめんね、と。
「ほら、さいご、までっ」
「えっ」
キスを? なんて馬鹿な言葉が漏れる寸前で、そういえば自分たちが演劇の真っ最中だったことを思い出して。慌てて意識を待雪物語に戻した。
……そうだ、口付けを交わした二人は、お互いに愛を告げて。それで、この劇は閉幕。詩人と天使の物語は終わり、私の待雪物語が始まるのだ。
「うん」
「じゃあ、ほら」
頷いた私を、アリスが促して。なんだかいつもと立場が逆のようだ。ルナ、と愛称で呼ばせたのは、大正解だったらしい。未だ王女だということに遠慮してか、何処か一歩引いた付き合い方をしていたアリスは、そう呼ばせた直後からかなり踏み込んだ、隣に並ぶような態度をしてくれるようになった。私のことを完全に気の知れた“親友”だとして認識してくれたのは間違いなく、私はそれが嬉しいようで、やっぱりちょっと悲しかったのだった。
……そうしてまた零れそうになった涙を、ぶんぶんと散らして。
手を取り合い、じっとその無垢な金色の瞳を見つめて。
「天使様……私は、あなたを」
「しじんさま……わたしも、あなたのことを」
アリス。
私はあなたを。
あなたの、ことを。
「愛して、います」
――――さようなら。私の、初めての恋。
これにて第三章完結となります。
次回更新は明後日の12時です。