第18話 紫丁香花
「なんとか、歌えるようにはなったけれど……」
ふーっと呼吸を落ち着けて、瑞々しい果実水で喉を潤す。休日だと言うのにも関わらず朝早くから起き出した私は昨日までに引き続き、あの後たった二日で完成させたアリスの“歌”を必死に練習していた。切なく悲しいあの詩を、今まで聞いたことのないような曲調で、けれどしっかりと詩に沿うように作り上げたその手腕には感嘆するばかりだ。
「うー、難しいわね」
しかし、そう。一つ問題があるとすれば、難しいのだ。全体的にズッシリと重いような音程ではなく、なのにどこか儚さと切なさを感じるような、本当に、これは新しい音楽だ。そして新しいのだから、当然それを作り出したアリス当人ではない私にとっては歌い上げるのもまず一苦労だった。音の上下はそれほどでもないけれど、速度の緩急が中々に激しいのだ。噛みそうなくらい早く歌わなければならないところもあれば、ぐっと伸びと余韻を聴かせるような部分もある。それを交互に繰り返している構成で、切り替えが難しい。しっかりと曲を覚えていないと流れについていけなくと表すのが一番しっくりくるだろうか。
「それにしても」
ああ、アリスは、私のたった一人の友人はなんて凄いのだろう。作曲の才能もあるらしいことは聞いていたとはいえ、こんな、まったく新しい音楽を生み出すようなほどの才能だとは思っていなかった。流石に算術を除く魔法や歴史などの勉学や、社交について、全体的な知識などは私が先を行っているようだけれど、それも時間の問題かも知れない。彼女が女王であれば王国はどれほど素晴らしい国になるだろうか、なんてちょっとした劣等感すら抱いてしまうくらいだ。
……でも、アリスには一つだけ致命的に苦手なことがあるのもわかっていた。
「私が、守ってあげないと」
それは、“優しさ”である。いや、正確に言えば優しさの意味を履き違えてしまっていること。アリスの寛容さは最早自己否定の域にある。どんなことでも、最終的に自分が悪いと納得してしまうらしいのだ。一体どこでどんな育ち方をすればあんな、自分が他者へ反感を抱くことを徹底的に抑圧するような考え方になってしまうのだろう。最初はフェアミール家に問題があるのだろうと思ったが、従者の様子、あの二人の溺愛っぷりを見るにどうもそういう風には思えない。むしろ、愛情が飽和しているようにさえ見えるのだから。
「生まれついての性格、なのかしら」
それを前提に考えると、結局その言葉に落ち着いてしまう。普段の様子から自分の内側に籠りがちな子であるのは察していたけれど、今度の演劇の練習の中でそれは確信に変わった。あの時、私も具体的に例をやって見せて欲しいとは言ったものの、返ってくるのは精々多少の身振り手振りのついた控えめなものだろうと思っていた。思っていたし、いつもなら恥ずかしがって絶対にしないはずだった。しかしいざアリスがやってみせたのは大人顔負けの、見ている此方もその物語の世界の中に立っているように錯覚させるほどの熱演。あの時のアリスには周囲のことなど、私のことさえ視界に入っていなかったように見えた。自分の中の世界に没入して、完全に登場人物になりきる、いや、憑依していたのだ。才能といえば才能なのだろうけど、それ一言で表すには少し違和感が有る。まるでそうすることに慣れているような雰囲気があったからだ。やはり、不躾なのはわかっているけれど、もう少しあの子の過去について探ってみるべきかもしれない。幸い私にはそれが出来る地位と優秀な従者がいるのだ。
「……私、全然知らないわね。あの子のこと」
まだ会って日は浅いのだ。だから、それは当たり前なのだけれど。それでもなんだか、アリスのことを知らないのが、より深くわかってあげられないのが悔しかった。……私は随分、あの子に魅せられてしまったらしい。
「よっぽど強力な“魅了”じゃない」
一瞬浮かんだ顔を複雑な感情の沸く前にふふっと笑い流して、忘れる。今は物思いに耽っている時間はあまりない。なんとか最後まで歌えるようになったこの歌を、今度は何も見ずにすらすらと紡げるようになるまで慣れなければいけない。目を瞑り、頭の中で歌詞を反芻した。
「んん、ふふん。んんんー」
アリス曰く“サビ”というらしい、曲の一番の盛り上げどころとなる部分を鼻歌で鳴らしながら、頭の中で歌詞を歌って確認する。忘れてしまっていたところや詰まったところを記憶して、重点的にそこを何度も歌い上げる。それからもう一度通して歌って、また。この繰り返しをしていれば、とりあえず詰まることなく歌えるようにはなるだろう。本当はここから更に、自由に音を外したり調和させたりできるようになるまで歌い込みたかったけれど、そこまでするには流石に時間が足りなさそうだ。なんといっても、学園祭はもう明日。本当に、辛うじて最低限が間に合ったという感じ。そもそも、言ってしまえばこの七日間という短い期間で歌を作って劇に取り入れるなんてこと自体が無茶なのである。これがもし、アリスの相方が私以外であったのならば間違いなく無理だっただろう。
「もう一つ見つけた」
アリスの弱点其の二。若干常識に欠けている部分がある。……そんなことを脳内のアリスの棚に書き込んで大事に仕舞い、もう一度最初から最後まで通しで歌う。
この歌は大きく三つの章に分けられていて、最初が私、次がアリス、そして最後を二人で一緒に、といった構成になっている。私が歌う一章の部分は勿論、詩人の視点の歌詞になっている。彼の淡く熱く、悲しい恋の感情が表現されているのだけれど、どうしてか私はその歌詞の贈り相手にアリスを思い浮かべてしまう。私の中で彼女が、上でも下でもなく、唯一隣に並んでいる人だからというのが大きいのだろう。アリスが作った歌だからという印象のせいも勿論ある。……でも、何故だか、それだけではない気がして。その正体を本当は知っているような不思議な感覚があって。
「ま、まさか。そんな、ね……」
頭を過ぎるのは、歌い終わった後の場面。劇の最後を飾る、観客に当日一番の衝撃を与えるであろう締めの演技だ。勿論、本当にするわけではない。流石に学園側とて公的な場で王女にそんなことをさせるわけにはいかないのだ。あくまでしたように見せるだけで、実際にそれが触れ合うことはない。それでも問題になり得るそれが黙認されているのは、場面も相手も私自身が選んだのだという過程ゆえである。……そう。つまり、“唇を交わす”場面を共に演じる、その相手を。
「……アリス」
じわじわと表層へ浸蝕するそれを振り払うように、再び奏で始めた心と音は、それでも変わらず。
……私の歌声はやっぱり、“白雪の天使”に贈られているのだった。
「うー……」
私は悩んでいた。いや、悩んでいるというより恐れていた。それは勿論、明日に迫った学園祭に関すること。具体的にはとある場面の演技についてだ。歌の方は、問題ない。なにせ自分が必死になって作った歌である。歌詞なんて当然誰より覚えているし、音の方は元々お気に入りのメロディを継ぎ合わせて改変したものだ。わからないはずもなかった。
これを後数日で何も見ずに歌えるようになれというのはかなり無茶な注文であるというのは出来上がってから気づいたことだが、ルーンハイムさんは無理難題のはずのそれをなんとかクリアしてくれている。私の案が採用できたのは偏に彼女の才能と並々ならぬ努力あってこそである。歌を教えた翌日にはある程度歌いこなせていたのを聞いた時は改めてお詫びと深い感謝を伝えた。
「い、いやじゃない、のかな」
そう、歌を含め、ほとんどすべての部分は問題ないのだ。授業という名の練習時間の間も、それが終わって午後からの時間も、何度も何度も二人でセリフや動作を調整しながら作り上げた“第六章”はそれなりに見れるものになっていた。私が不安やらの様々な感情を巡らせているのは、最後の、本当に一番最後の部分。即ち、キスシーンである。
「るーんはいむさんと……ちゅー」
口にした途端高鳴り始めた胸にぶんぶんと首を振って、落ち着ける。いや、演技だ。演技。それも、本当にするわけではない。あくまでしたフリをするだけである。しかし学園も案外寛容なものである。劇の一幕とはいえ、学園側が主催するイベントでそういったシーンを認めるとは。
「私と予行演習を致しますか?」
「ミランダさん?」
「はい」
隣で何やらベルさんとミラさんが仲睦まじく話しているのも耳に入らず、ぼうっと想いを馳せる。私はルーンハイムさんが“好き”である。それは間違いない。けれど、その好きのベクトルに関しては自分でも判断がついていなかった。というかそもそも、私には色恋沙汰というのがよくわからない。私の好きはただ好きだという気持ちのみで構成されていて、程度の差こそあれ、そこに方向や傾向などは存在しない曖昧なものなのだ。端的に言ってしまえば、例えばミラさんに向ける好きとルーンハイムさんに向ける好きは同じものであるということだ。だから、私にとって好きに区別なんて……。
「アリス様。よければお話、お聞き致しますよ」
……いや。あるかもしれない。すっと浮かんだ親しい人たちの顔は、皆同列にあった。けれど、一人だけ。一人だけ別の、そう、私の心の最も奥深くに抱きしめた顔があった。
「――――べる」
それは、ベルさんだ。当然といえば当然なのかもしれないが、ベルさんに向ける好きだけは方向が、重みが、何もかもが誰とも違っている気がした。私が知っている人の中で、唯一ベルさんだけは、私が私を認識した時からずっと傍にいてくれたのだ。顔を合わさぬ日なんて、今まで一度としてなかった。あるとすれば背中の怪我で数日寝込んでいた時くらいだろう。なるほど、それがどういったものなのかはわからなくとも、少なくともベルさんに向ける好きは少し特別な好きと言えるかもしれない。今までこれは程度の差だと思っていたが、どうもそれだけで表すには違和感があるのだ。何か、なんとなく、違う気がする、とか、その程度の感覚でしかないのだけど。
「べるは、わたしとちゅーするとしたら、どお?」
「えっ」
ベルさんは笑顔のまま固まって。心なしかまったく変わっていないはずのその表情が百面相を描いたように見えた。ちょっと、質問が唐突すぎただろうか。そんなベルさんをミラさんがつんつんと突くとハッと目を開いて再起動した。
「だいじょうぶ?」
「は、はい、大丈夫です。失礼致しました」
何かを誤魔化すようなニュアンスを感じて首を傾げながら、いや、確かに変な質問だったと反省する。ふと浮かんだ質問をそのまま口にしてしまったが、私もその意図はと聞かれるとわからない。ただ何となく、その答えを聞きたい気がしたのだ。
……まあ、しかし。いま答えが欲しいのはそれではない。フリとはいえ、私のような幼い一貴族と口づけを演じるのをルーンハイムさんは嫌に思ったり、そもそも立場的に拙かったりしないだろうかという不安、疑問だ。私は咳払いを一つして気持ちを切り替え、改めて質問をした。
「んとね。その……ちゅーの、まねっこするところ。るーんはいむさん、いやじゃないかな……って、おもったの」
「なるほど。嫌に思われないか、ですか」
「うん」
ベルさんは何処かホッとしたように吐息を漏らしながら、うーんと顎に指を一本当てて。ほんの数秒考え込むと、朗らかな笑みをして。
「はい。嫌じゃないと思いますよ」
「ふえ」
余りにも自信を持って断言するのでつい、どうして、と目で根拠を探るようにしてしまう。そんな疑いの目線を受けてもベルさんは一つも嫌そうな顔をせずに、あくまで私の考えですが、と一つ前置きをして。
「アリス様、アリス様を王女様と一緒に最後の場面を演じる役に選んだのは誰でしょう?」
「え? えと、るーんはいむさん、だよ」
「はい、そうですね。……それがそのまま、アリス様の不安への答えではないでしょうか?」
どういうことだと疑問符を浮かべる間もなく、ベルさんは更に補足した。
「つまり、王女様自身が選んだということです。場面も、相手も」
なので、と言葉が続きそうになって、私はやっとベルさんの言いたいことを理解した。私は難しく考えすぎていたのだ。至極、単純で簡単な答えが目の前にあったではないか。
「……いやなのに、えらばない」
「はい。ですから、アリス様がそのような不安を抱える必要は御座いませんよ」
そうだ。相手を誰だと思っている。ルーンハイムさんだ。彼女は嫌なことは嫌とはっきり言うだけの気概も権威も持っている。ベルさんの言うとおり、私と一緒に最後の場面、第六章を、と推したのはルーンハイムさん自身だ。勿論待雪物語を細部まで把握していたルーンハイムさんはそのシーンがあることをわかっているはずで、それでいてその場面と、相手として私を選んでくれたのである。これがルーンハイムさんの好意の証でなくてなんだというのか。
「そっか。……うん、そだね」
「はい。大丈夫大丈夫、です」
安心させるように私の頭を撫でつけてくれるベルさんの手の温もりに甘えて。私はまだ、無意識の内に食堂の一件を引きずっているのかもしれない。人から向けられる感情についてナイーブに、疑心暗鬼になっているのだ。
「姫」
「……みら」
思い出して少し憂鬱に垂れ落ちかけた手を、ミラさんが優しく握った。私を見つめるその瞳には慰めと好意の色があって、不意にあの割れるような拍手と歓声を思い出した。そうだ、大丈夫。前まではちょっぴり冷たかったクラスメイトだって、今はみんな優しくしてくれる。人の心は変わる、変えられるのだ。
そうして溢れかけていた、自分でも気がつかなかったれ一粒の雫を、ベルさんが何も言わずに拭ってくれて。きゅっと目を瞑って開いて、身を預けていた大好きなお膝から立ち上がった。そろそろ、食堂が開く時間だ。
「……るーんはいむさんのとこ、いかなきゃ」
「今日も食堂で待ち合わせでしたね」
「では行きましょう、姫!」
どたばたと支度を整え、部屋を飛び出し歩みを鳴らす小さなハイヒールは。
「るーんはいむさん、おはよっ……!」
「ええ、おはよう。アリス」
――――以前よりはきっと、ずっと。私の足に、馴染んでいた。
次回更新は明日の12時です




