第14話 七つ転んだ足許に
「んぁ……ふ」
ぽう、とようやく見慣れてきた天井を眺めた。まだ微睡みの覚め切らぬ、光のぼやけた視界がはっきりとするまでそのまましばらく、欠伸を零しながら。頭が回り始めると同時に両隣のベッドを見た。丁寧に畳まれた布団。ベルさんとミラさんはもう起きた後らしい。早く起きなければ、と体を起こそうとして、部屋の中心の方、私の足の方角から。一日の始まりを告げる声が届く。
「おはようございます、アリス様」
「おはようございます、姫」
勿論、二人の声だ。きっともう着替えなどの準備を済ませて待っていてくれたのだろう。もう少しこの寝起きの気怠さに浸っていたい気もするが、遅刻してしまっては問題だ。両手を突いて、ゆったりと体を起こす。
「おはよぉ」
間延びした声で返事を返して、まだぼやけている目を軽く擦った。膝の上に転げ落ちた相棒をきちんと寝かし直しながらベッドの脇へ足を落とす。ちょっぴり冷たい靴に足裏を着けて、なんとか立ち上がる。
「ちょっと、おきるのおそかった? 」
「そうですね、いつもよりぐっすり眠っていらっしゃいました」
「そっか。いそがなきゃ」
体の感覚通り、やはり普段より長く眠っていたらしい。おおよそ30分くらいだろうか。十分間に合うが、あまりのんびりしている時間はない。さっさと二人の傍まで寄って、背中の紐を解く。
「あら……今朝は何かご用事ですか? 」
「……うん? 」
そのまま袖から腕を抜こうとして、ベルさんの質問にきょとんと首を傾げる。用事というか、登校の用意をしているのだけど……あ、いや。
「ふふ。お忘れですか? 今日は休日ですよ、アリス様」
「そだった」
そうだ、すっかり習慣のままに動いていたが、今日は授業が休みの日である。七日に一度の全休だ。寝る前はきちんと覚えていたはずなのに、寝惚けてしまっていた。だからいつもより深く眠っていたのだというのに。何だか恥ずかしくなって、徐に脱ぎかけの薄地のワンピースに再び袖を通した。
「かわいい」
「ミランダさん」
「つい」
明らかに微笑ましそうにした二人の目から逃げるようにベッドに戻って、相棒を胸に拾い上げる。履いたばかりの靴を脱いで、意味もなくぷらぷらと足を揺らした。休みだ、休日だ。館にいた頃は毎日そうだったというのに、こうして休みでない日ができることでそれがとっても幸せに感じられてくる。以前はたった数時間の休息すら宝のように思えていたというのに、まったく慣れとは怖いものだ。
「姫。今日はどうされますか? 」
「んー……」
私の眺むのが一段落するのを見計らって、ミラさんが尋ねたのにまた頭を捻る。せっかくの休日だ。なんとなく、何かをしたい気持ちもある。けれどそれと同じくらいこのまま部屋でのんびりしていたくもあった。これがルーンハイムさんに何かお誘いでも受けていたらるんるん気分で部屋を出たのだが、昨日の食堂でのこともあり、しっかり休めるようにと気遣ってくれたのか、特にそういったお誘いも受けていなかった。まあ、一度睡眠を取ったことで整理は付いたが、ダメージがないと言えば嘘になる。どうしても、次に顔を合わせたらどう振る舞えば、とか、更に嫌われたのだろうな、とか。少しそちらに意識が向けば直ぐにネガティブな思考ばかりが溢れてくる。実際あの後、夕食に向かう際の足取りはかなり重かった。幸い、彼女とは時間がズレていたのか会うことはなかったのだが。
「……うん」
やっぱり今日は、一日中ベルさんとミラさんとのんびりしていよう。こんな状態で外出をしても、ろくなことが起きない気がする。
ぶんぶんと首を振ってあまり考えないようにしながら、答えを待ってくれているミラさんの目をじっと見つめ返した。
「おへやにいる」
「そうですか。では、のんびりぐたーっと過ごしましょう」
「うんっ」
何も言わず、頷いてくれる二人に感謝しながら。きっと、昨日のことを気にしているのはわかっているのだろう。どうしても甘えてばかりだ、と溜息を吐きそうになるのを誤魔化して、一度相棒を膝に置いて体を伸ばす。
「んんっ、ぁ……ふにゃ」
ぽきぽきと背中が鳴って、じんわりと体の解れる快感が広がっていく。ぐっと伸ばした両手をぼとりと糸の切れたように落として、欠伸を一つ。相棒を抱き直してそのまま、ぼすんとだらしなくベッドに倒れ込んだ。何故かそれをじっと、立ったまま見つめている二人に気が付いて、なあに、と目で尋ねる。すると止まっていた時が動き出したかのように二人はハッと目を開いた。
「い、いえ、なんでもありません、アリス様っ」
「で、では、朝食に昨日食べられなかったマリアンでも! 」
そうですね、とベルさんが慌てたようにまな板がわりの布を机に引いて、ミラさんが棚の上に鎮座していたまんまるの果実を……。
「……まりあんっ! 」
それを認識した瞬間、気怠さなどは一気に吹っ飛んだ。がばっと体を起こすと靴を履くのも忘れて、ぺたぺたと机まで走り寄る。そういえば、昨晩は結局夕食後すぐに寝てしまって、まりあんを食べられずにいたのだ。マリアンを摂取出来なかったというのは誠に由々しき事態である。どうして忘れていたのか、一刻も早く補給しなければ。
「ひ、姫、落ち着いてください」
「マリアンは逃げませんよ、アリス様」
「まりあん」
最早、言語中枢などは絶賛崩壊中である。私の頭の中にはマリアンのスライドショーで一杯である。終いには味覚の記憶まで舌に再生されて、じゅるりとはしたなくヨダレが垂れそうになるのを拭った。
「今切り分けますから、もう少しだけお待ちくださいね」
「まりあん」
ベルさんがミラさんに借りたナイフでマリアンに切り込みを入れて、こくこくと頷きながら、いやごくごくと何度も喉を鳴らしながら瞳を煌めかせる。しゃくり、と大した抵抗もなく刃が沈んで、ふわりと漂った甘い匂いが鼻を温める。急速にお腹が空いていくのを感じた。
「一応、豚の干し肉なども買ってきたのですが……」
と、ミラさんは自分のベッドの隣の小棚の上の革袋を目で示して。確かに、流石にマリアンだけでは腹は満たされない。というか満たしては勿体無い。一日でたくさん食べてしまっては明日の楽しみが減るのだ。
「たべる」
「はい、お水も用意しますね! 」
“鳴き声”ではなくきちんと言葉で返して、すると嬉しそうにしたミラさんが足早にベッドに戻って水筒と一緒にその革袋を持ってくる。
そういえば、水筒の水は広場の噴水から汲んだものらしい。あれは私が思うような景観用の飾りではなく元々給水場として作られたのだとか。若干衛生面が気になるが、まあ今更である。そもそもそれで問題が起きたのなら誰も使おうとしないだろうし、何かしらの対策をしているのだろう。何にせよベルさんとミラさんが大丈夫と判断しているのだから大丈夫だ。
「ありがと」
「いえ! 」
ミラさんがテーブルに三人分の干し肉と水筒を並べたのと同じくして、ベルさんがマリアンを一切れ綺麗に取り分けて、私の前に置いた。そのままマリアンを布でくるんで棚の上に戻そうとしたのに待ったを掛ける。
「どうかされましたか? 」
「うん。べると、みらのは? 」
「え、っと……私たちの分、ということですか? 」
「うん」
「そんな、これはアリス様のマリアンですので」
「いっしょにたべよ」
「ですが……」
ちょっぴり困ったようにしたベルさんはいえ、と諦めたように頷いて。くるんだばかりの布を開きながらマリアンをテーブルに戻した。私のために買ってきてくれたというのは勿論嬉しいのだが、切り分けてもらった自分の分だけを二人の目の前で食べるというのは流石に心苦しい。私はこのマリアンを手に入れるために何もしていないのだ。二人にも相応の、いや、私以上に食べる権利がある。それに、一人で食べるよりは三人でのんびり談笑しながら楽しみたい。
「よろしいのですか、姫」
「うん。わたしだけだったら、ぜんぶたべるまえにくさっちゃうかも、だしっ」
「くっ……、こほん。畏まりました! 」
いくら保存が利くと言っても、断面を露出したままでは早い内に食べきらなければ腐ってしまうだろう。日を置いて熟れたマリアンも美味しいのだが、食べられなくなっては本末転倒である。それならば三人で美味しい内に食べてしまいたいという考えもあった。
そんな思いで返事をすると、唐突に胸を抑えながら顔を俯けたミラさん。……大丈夫だろうか。時々話している最中にこうして苦しむようにするものだから何か病気でも抱えているのかと心配したこともあったが、そういうわけではないという。ベルさんはある意味病気のようなものですと言っていたが、どういうことかまったくさっぱりである。
「では、私とミランダさんの分も切り分けますね」
「うんっ」
「ありがとうございます」
ミラさんに抱き上げてもらって私には少し大きな椅子に座って、ぱたぱたと、さっきとは別に上機嫌に足を揺らして。ベルさんが三人分のマリアンを並べ終わるのを待つ。そうしてベルさんが再びマリアンを棚の上に戻した頃には、その大きな――――両手でなんとか抱えられるくらいの大きさ。私にとってはおっきいのだ――――まんまるは丁度半分ほどになっていた。
「お待たせしましたアリス様。頂きましょうか」
「最近姫に釣られてか、私もマリアンが大好物になってしまいそうです」
「なって」
いやぜひともハマって欲しい。好きを共有するのは楽しいし嬉しいのだ。後は素直にその魔性の味覚を受け入れれば晴れてマリアニストである。歓迎しよう、同志ミラさん。共に世界最大のマリアン畑を築くのだ。
「まりあんばんざい」
「ば、ばんざ……? 」
……うん、急に前世の言葉なんて使われてもミラさんはわかるはずもない。当たり前である。いや、でも。どうも前にも似たようなことがあったような。私が呟くのと同時、ベルさんがふふんとちょっとだけ得意げに胸を張った。おっきい。
「デジャヴュ」
「ばんざーい、ですよ。ミランダさん。ね? アリス様」
……ああそうだ! 思い出した。随分前にベルさんとも同じような会話をしたのだ。以来使う機会は特になかったが、その時になんとなくの意味を教えていたような気がする。
ふふ、と笑いかけてくれたベルさんに何だかジーンとする。その中身が何であれ、二人だけの秘密というのが、あんな日常の小さな一幕のことを覚えていてくれたのがとっても、とってもとっても嬉しくて。
「うんっ。ばんざーい、だよ。えへへ」
自分でもわかるくらいに、へにゃりと“しあわせ”に頬がゆるゆるになってしまった。眼前のマリアンも相まって、もう気分は有頂天である。そんな最高の状態でさあ、と両手を合わせて、いつもの挨拶をしようとして。今度はベルさんが胸を抑えた。
「――――ぐうっ……!? 」
「えっ」
ぴし、とさっきのまま固まっていた顔が苦しげな、けれど何処か幸せそうな何とも複雑な表情を描いて。私もびっくりして固まっているとミラさんが慣れたようにその背中を摩った。
「の、ノクスベルさん。深呼吸です、深呼吸! 」
「すー、はー……すー、はあぁ……」
「気持ちが顔に出てますノクスベルさん」
「どうしてミランダさんは平気なのですか……!? 」
「丁度瞬きしてしまって見逃したんです。時を戻したい」
「えっ」
置いてけぼりである、というのももう何度思ったことだろうか。とりあえずなんか楽しそうではあるので無事だと判断して気にしない。邪魔するのは悪いかもしれないが、そろそろマリアンを食べたいのでこほんと一つ咳払い。
「……し、失礼致しましたアリス様」
「申し訳ありません、姫! 」
「う、うん」
そうやって謝る二人の顔はやっぱりどこか幸せそうである。何なのだ。すっかり混乱してしまったのはまあ、ひとまず置いて。改めて両手を合わせて、意識をテーブルの上で輝く果実に戻す。いざまりあん!
「いただきます」
何だかんだで食前のそれだけは三人しっかりと揃って、まずは水で口の中を洗い流す。頭がスッキリするほど冷たくはないが、それなりにひんやりとしていて丁度いい。次に干し肉を食べるかいきなりマリアンに手を付けるか迷うが、ここは大人しく干し肉に手を伸ばす。こう言うと何だか失礼だが、干し肉だって中々簡単に手に入るものではないのだ。これは豚だと聞いたから、値段的にはこの袋一つ分でマリアン半分くらいだろうか。
肉の種類にも寄るが、例えば馬や羊、乳牛など、そもそも食肉用に動物を育てること自体がほぼなく、庶民に取っては肉というのはご馳走だったり、それまで沢山利益を齎してくれた彼らへの供養として食べるのだとか。以前館で食べていた師匠……ハングロッテさんの農園の牛肉もそういった、怪我や老衰など様々な問題で役目を果たせなくなってしまった牛である。
――――けれどそんな中でも最近食用として浸透しだしているのが、“豚”である。元々は一部の地域のみで出没する畑を荒らす害獣だったのを、殺しただけではネージュムールの教えに反すると食べていたのが始まりならしい。それがある時、不作によって生活が危機に陥った庶民の一人がいっそのこと特産品にでもしてはどうかと食肉としての販売用に育て始めてみたのだとか。例えばマリアーナなどではまだまだ珍しいが、王都には当然行商人だったりが沢山売りに来るのでこうして様々な形で広まっている、ということのようだ。
「おいしい」
「ふふ、よかったです、姫」
ルーンハイムさんに教えてもらったそんな豆知識を思い出しながら、乾いて引き締まった肉を噛み締める。私はどちらかといえば牛の方が好きだが、どっちも美味しいので実際は好みの上下はあまりない。というか、こんな贅沢品を好き嫌いするなど、とても。基準があの必要な成分だけをただ詰め込んだドブのような栄養ゼリーなので、どれも極上の絶品である。
「そういえば、アリス様」
「んむ、こきゅ……ぅ?」
しっかりと肉の旨みを味わって嚥下しながら、ベルさんに生返事で返す。私が聞く体制を整えたのを見て、続きが話される。
「具体的な日付は知らないのですが、毎年新入生が入って少し経ったこの時期に“学園祭”、というものがある、と聞きました」
「がくえんさい……? 」
「はい。なんでも、各学年、クラスごとに出し物をするお祭りだそうです」
「おまつり」
学園祭という聞き慣れぬ単語にいまいちピンと来なかったが、お祭り、と聞いて理解する。つまりそのまま学園の中で開くお祭りということらしい。出し物とは何を指すのだろう。やはり、何か小さなお店を開いてみたりするのだろうか。私の知るお祭りとは、朧げにそんなイメージがあるくらいのものである。
「そうですね、演劇をしたり、演奏や合唱をしたり、何かの研究をしたり。クラスで協力して一つのものを作り上げて発表する、というものみたいですよ」
「ほへー」
なるほど、私の思うお祭りとはまた雰囲気が違いそうだ。どちらかといえば発表会という方が私的にはしっくり来るだろう。それなら一応、前世の学校にもあった。その実態はとにかく何かしらの形で今の社会を賛美するというただの洗脳の一貫として行われるものだったが。
それはともかく。これは学園側としては恐らく、クラスメイト同士の絆や連帯感といったものを意識させることで自らが頂点だと傲りがちな貴族の子たちに、協力の大切さなんかを教えるという目的があるのだろう。根拠もないただの憶測だが、祖父の言葉を思い出すに案外的を射ている気もした。
「なにする、のかな」
「これも聞いた話ですが、アイリスのクラスは、いつも“演劇”をするらしいですね」
「えんげき」
演劇。演劇……うーん。いや、演劇がどういったものか自体はわかる、が。どうも自分がそれを上手く出来る気がしない。だって普段からこうして周囲に内心を読まれっぱなしだし、言葉も大分話せるようになったとはいえまだまだ拙いのだから。こんな私が上手く役を演じられるとはとても思えなかった。出来れば他の、例えば合唱なんかならまだ自信があるので有難い。でも、まあこんなことを思ったところで本当に演劇だと決まっているなら仕方ない。別に演劇をすることが真の目的ではないのだから、下手なりに全力を尽くそう。
「そっかー」
「もし本当なら、アリス様の演劇、とっても楽しみです」
「そ、そお? 」
「でも、姫は絶対、悪役には向きませんね。全部可愛らしくなってしまいますから」
「それは……確かに、そうですね。ふふ」
「……うぅ」
どう反応していいかわからず、嬉しいような恥ずかしいようなその感情を隠すようにマリアンに齧り付く。気が付けばもう、ネガティブな気持ちを忘れていることすら忘れていて。
「ぁ、おいし……っ」
どんな時でも、やっぱりマリアンは美味しかった。
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