第13話 剣
「あ、あなたはっ……! 」
その反応にまたふん、と嫌そうな顔をした王女様、ルーンハイムさんに、食堂中の注目が集まったのがわかった。何かひそひそと会話をするでもなく、誰もがただゴクリと喉を鳴らして事の顛末を見届けようとしている。しかし、一番混乱していたのは間違いなく私だった。
ただでさえ予期せぬハプニングで、それを庇おうとしてくれているベルさんが相手の反応次第では危うい状況に陥りそうだというところにルーンハイムさんがやってきたのだ。せっかく友だちになれたのに、もしかすればこのことで嫌われてしまうかも、なんてちょっと落ち着いて考えれば過剰にも思える不安をほぼ確信として認識してしまって、思考と感情の混雑具合を更に加速させたのだ。こんな状態ではとても冷静な行動なんて取れるはずもなく、なれば私はただ口を開けて驚くことしか出来なかった。
「誰か説明してくれるかしら? 私の友人が、何かしたのかしら」
「ぃ、いえ、その……」
すると先程まで不機嫌そうに私を睨んでいた彼女は急激にしおらしく、というより怯えたような、焦燥の表情になって。……無理もない話だ。彼女には一切の非が無いとはいえ、明らかに不快そうな王女様に詰め寄られれば言葉も上手く出てこないだろう。すべては私の不注意の起こしたこと、ベルさんの代わりに責任を取ろうとしている態度のこともある。ここはしっかりと、私が彼女に無礼を働いてしまったのだということを、私自身がきちんと説明すべきだ。
深呼吸を一つして、ざわつく心をなんとか抑える。震えそうになる声を必死に律しながら私はルーンハイムさんに事の次第を説明した。
「ん……それで? 」
「だから、わたしが、わるいです。ちゃんと、あやまらなきゃ」
「ふーん」
混乱もあって、いつもより尚更拙い私の言葉を、ルーンハイムさんは小さく頷きながら聞いてくれて。最後まで話終わるとその薄桃色の唇からはあ、と溜息を漏らした。
……失望された。そんな思いが胸中に重くのしかかって、自然と顔も俯いてしまう。きっと私は浮かれていたのだろう。心を開ける友人もできて、授業もなんとか着いていくことが出来ていて。思いの外順調な学園生活に安堵しすぎてしまっていたのだ。だから、こんな少し気を張っていれば起きないような過ちを犯す。後ろでベルさんとミラさんがなにやら声を掛けようとしてくれているのが気配でわかって、けれどこれに関しては何をどう考えても私の過失なのだ。許してくれるかはわからない。でも、やはり、私がきちんと謝罪しなければ。
静かになった彼女の方を向いて、顔を上げて。ごめんなさい、と頭を下げようとして。次に発せられた声は、しかし私のものではなかった。
「大体わかったわ。幾つか、疑問があるのだけれど」
「るーんはいむ、さん……? 」
「いいえ。あなたにではなく、そこで妙に縮こまっているお方に」
そう言うとルーンハイムさんは更に一歩彼女の方へ踏み込んで。じっとその忙しなく視線を彷徨わせる目を見上げるようにして。私はルーンハイムさんの意図がわからず、動けなかった。
「な、何で、しょうか……王女殿下」
「どうして怯えているのかしら。あなたは悪くないのだからもっと堂々としていればいいじゃない。ねぇ? 」
煽るような語気で尋ねると周囲の目を睨み返すように見回して、その内の何人かの少女が目を逸らしていた。最後に従者のステラさんを見ると、肩を竦めるようにした彼女にルーンハイムさんははあとまた溜息をして。
「さて。いつから貴族のご令嬢は、給仕係の仕事を自分でするようになったのかしら。大層謙虚でお優しい振る舞いじゃない」
「そ、それはっ……その、貴族として、普段あの給仕の方が私たちに尽くしてくださるのを当然と甘受してはならない、と」
「なのに、自分より遥かに幼い少女の少しの粗相には憤怒すると。ええ、確かに彼女は幼くとも貴族ですものね。偉く身分に忠実なご令嬢もいたものだわ」
何故だか、彼女を責めるような言葉を繰り始めたのに慌てて止めようとして、黙ってなさいと手で制される。一瞬向けられた視線に含まれていた優しさと悲しみの色に何も言えなくなる。その手はすぐに向きを変えて、私とは対角線上の、給仕カウンターのすぐ隣の席を指差して。
「私の持つ情報では、あなたはあそこのご令嬢方とお友達のはずよね。今日も一緒に食事をしていたのではなくて? 」
「は、い……そうですが、それが何か――――」
「おかしいわね」
急に舌を早めて何事か捲し立てようとした彼女の弁を遮るように、ルーンハイムさんは断言した。私の頭はもう真っ白で、当事者だというのに、状況に置いてけぼりだった。ふと後ろを振り返ると、ベルさんとミラさんはホッとしたようにルーンハイムさんを見つめていた。その瞳には理解と僅かな怒りが垣間見えて、余計に何が何だかわからなくなる。
「彼方の席でご友人方とお食事をしていたのでしょう? なら、一体どんな事情があってそのスープ一つだけを片手に態々この席まで歩いてきたのかしら」
「ッ……! 」
「例えばあなたが本当に謙虚で寛大で、給仕係が自らの食事を運ぶのを遠慮して自分で運ぶほど格下の身分の者に優しいお方だったとして。あなた方の卓は給仕の受付からすぐ隣だというのに、こんなに遠回りをしているのは何故? 」
「ず、随分幼いお方が見えたものですから、つい気になってお話をしてみようと……ッ! 」
「ふーん。……スープ片手に? 」
ルーンハイムさんがそこまで言ってようやく、私は事態の真相を理解し始めていた。自分の不注意で、というところばかりに気が取られて気付いていなかったが、確かに、あそこが彼女の席なのだとすれば。一緒に食事をしている友だちの下を離れ、熱いスープを片手にここまで来た理由とはなんだろう。本当に、私と話したかったのだろうか?
……いや。
「……そっ、か」
ふと伺った先の彼女の目を、私に向けられた突き刺すような煮えたぎった瞳を。
私はよく、よく知っていた。
あれは、“敵意”だ。“妬み”だ。”憎悪”だ。自分より恵まれたものを許せない、かつて私が恵まれた誰かに向けていた業火だ。私は驕っていた。無意識に自分を、肯定的に捉えすぎていた。今まで、自分の周囲にいてくれる人がみんなそうだったのをいいことに、悪意を向けなければ、いつも通りにしていれば好意を向けてくれると、そうでなくとも突然嫌われるようなことはないと、勝手にそう、思い込んでいたのだ。
……違う。世界はそんなに優しくない。人はそんなに高尚な生き物じゃない。自分より恵まれているように見える者がいれば劣等感を抱く。最初は尊敬だったそれも、差が開くほどに黒く染まっていってしまう。そうでない人もいる、けれど。それは常に少数派なのだ。でなければ、人の文明はここまで発展しない。競争がなければ発展はなく、相手より優れることを追い求めなければ競争は起きないのだから。
理解していたはずのそれを、私は忘れていた。誰もがベルさんやミラさんや、ルーンハイムさんや、私を好きでいてくれる大切な人たちのように、私を好きになってくれるわけではない。好意を向けてくれる人がいれば、また嫌いに思う人も同じ数だけいるのだ。私は万人に愛される、御伽噺の“聖女”ではない。自ら、そう言っていたはずだ。
「……ごめんなさい」
それでも、だからこそ、私は彼女に謝らずにはいられなかった。確かに状況的に考えて、彼女は態とこういった事態を作ろうとしたのだろう。それが私の不注意でなかったとしても、何かしらの手法でもって同じような事を起こしたのかもしれない。
しかし。しかし彼女はただ、私が嫌いなだけなのだ。嫌いなものを視界から追い出そうとすることを、誰が咎められようか。感情、特に負に属するものというのは、簡単に抑えられるものではない。これが例えばあのままベルさんへ害を及ぼしていたのなら、私も間違いなく彼女にそういった感情を抱いたことだろう。
「ごめんなさい」
……でも。私は決めたはずだ。せめてこの目で見える範囲くらいは、私自身に振り下ろされる剣くらいは、受け止めてみようと。出来るならばそれでも抱擁を返そうと。そう、心に誓ったはずだ。ならば、ここで剣で返してはならない。きっといつか嫌いが好きに変わることを信じて。
「がんばらなきゃ」
何故だか苦しい胸を抑えながら、必死に作った笑顔に向けられていた三対の悲しげな瞳に。
私はその時、気付けなかった。
「姫……」
王女殿下のおかげでなんとか収まったあの場を抜けて、部屋まで戻ってくると姫はすぐに眠ってしまった。きっと体力的な話以外に精神的にもお疲れになったからだろう。そうしてベッドでぬいぐるみを抱いて愛らしい寝息を立てる姿を眺めながら、私はノクスベルさんと二人、ただ並んでそれを眺めていた。
「ノクスベルさん」
「……はい」
お互いに、何が言いたいのかはよくわかっていた。即ち、姫のあの、今にも壊れそうな笑顔についてだ。順調だと思っていた。相手が王女殿下だというのには驚いたが、初めての友人もできて、授業もむしろ、周囲よりかなりよく出来ているように見える。しかし、現実が上手くいっているのと内面がそれに追従して健康とは限らない。そして姫のあの様子は、とても健康とは言い難かった。確認するように目線で尋ねると、姫を一番理解しているノクスベルさんも心配そうに頷いた。
「やはり、学園という新しい環境は大きな負担ではあるようですね」
「こうもはっきりと露見するまで気付けないとは、騎士失格です……」
「いえ。私ですら、気付けませんでしたから」
まあ、確かに、ノクスベルさんが気付けないことなら他の人が気付くのはもっと難しいのだろう。けれどそれでも、姫の傷はやはり癒えていなかったということに気付けなかった自分が、悔しい。一年かそこらで、あの日の記憶が消えるわけがないのだ。ノクスベルさんを助けようと、自分の身などまるで省みずに必死の形相を浮かべていた当の姫が、あの事件のことをそんな簡単に忘れるわけがないのだ。私は漠然と、姫の歪みはその記憶から来ているように思えた。
「がんばらなきゃ、ですか」
ふと、ノクスベルさんが姫の頬を手の甲で撫でながら、独り言のようにぼそりと呟いた。その横顔の表す感情は多すぎて、私では読み取れきれない。ただ一つ、彼女が姫を深く愛しているのだということだけははっきりとわかった。
「……十分です。もう十分、頑張っているんですよ、アリス様」
「ん、ぅ……すー、……」
ノクスベルさんは今度はもう片方の手で頭を撫で始めて、ぴくりと跳ねた体はけれどすぐに心地良さそうに沈んだ。完全に、信頼しきっているのだろう。もしも私が同じことをすればどうだろうか。やはり目を覚ましてしまうのだろうか。それとも、安心して眠りに就いてくださるのだろうか。
「アリス様。私が、私たちが、そばにいます。ずっと傍で手を繋いでいますからね」
「ノクスベルさん……」
泣きそうに潤んだ瞳を瞑って誤魔化して、きゅっと姫の幼い手がノクスベルさんの手で包まれる。聞けば、ノクスベルさんは姫が生まれた時からずっとその傍で仕えてきたのだという。そこにはもう、主従を超えた、家族より深い繋がりと信頼があるのだろう。
そして、そんなノクスベルさんも感じ取ったのだ。姫の、ごめんなさいという言葉から、がんばらなきゃという健気な笑顔――――いや、泣き顔から。きっと姫は、私たちのように染まっていないから、純粋無垢でお優しいから。どんな相手でも、自分を嫌っている相手でも、自分から嫌いという気持ちを向けなければ、それを受け止め続ければいつか好きになってくれると信じているのだ。その考えはとっても穢れのないもので、幼くて、だからこそ危険だった。誰かが守って差し上げねば、すぐに踏み潰されて良いように利用される。それこそ、いつか危惧した反体制派の旗印なんかとして。
「そんなことは、絶対」
させない。させてたまるものか。荒野に芽吹いたたった一つの蕾を摘む者がどこにいる。姫はいずれ、大輪の花を咲かせる。私たちはそれに惹かれて集うのだ。儚く、けれど眩く、真っ白に咲いた一輪の雪の華に魅せられて、癒されて。そうしてその先に、“しあわせ”がある。
……私はそう確信していた。だから、だから。
「……姫」
今は見守るしか、なかった。姫を守るためならどんなことだってしてみせよう。
けれど、姫自身が、自分を守るということを覚えなければ、私たちがいくら周りで盾を構えたところで限界があるのだ。それに、あのひたむきさ、優しさは最早、自傷自虐の域に達しようとしている。私はあの笑顔の下に、胸を抑えて震える手を見た。その爪がいずれ心臓に届いてしまった時、瞳の黄金は消えてしまう。だからといってそれをダメと取り上げてしまっては、姫は心の寄る辺を無くすのだ。
だから、見守るしかない。傍で支えながら、それでも傷ついた時には癒してあげて、少しずつ自分の守り方を覚えて強くなっていくのを見守るしかない。ノクスベルさんはまた違う想いを抱いているのかもしれない。けれど私は、私には。それくらいしか、出来そうもなかった。騎士が姫に見せるのは、背中でなくてはならないのだから。
だから、姫。どうか今はぐっすりとお休みください。
その眠りは誰にも妨げさせません。
私は。
「必ず、必ずお守りします」
――――私はあなたの、騎士ですから。
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