第12話 明日視る瞳
「おひるごはん! 」
「今日は肉料理みたいですね。私もお腹が空きました」
ミラさんがそうお腹を摩りながら言ったのに頷く。今日は珍しくルーンハイムさんは一緒ではない。何やら祖父……学園長に用事があるらしく、授業が終わるとすぐに従者の人を連れて学園長の部屋へ向かっていった。ここのところお昼はずっと同席していたので、何だか新鮮な気分だ。
「ぜいたく」
いやまったく、客観的に考えてみれば王女様と食事を同席できなくて新鮮だなんて、お近づきになりたい貴族の嫉妬を買うこと間違いなしである。しかしルーンハイムさんもいいのだろうか。私より余程有力な貴族の子も複数いるはずだというのに、そういった付き合いをしている姿を見た覚えがない。或いは裏できちんと社交をしているのかもしれないが、私に大きな時間を割いてくれていることは確かだ。私としては初めての友だちということもあり、彼女と接する時間が長いのは嬉しいことだが、少し心配になるくらいにはずっと一緒にいる。……まあ、私が言えたことではないのだけど。
「おいしそう」
けれどとりあえず、目の前の料理に意識を集中しよう。せっかくの美味しい料理だ。うわの空で味もろくに感じぬままただ腹を満たすのではそれこそ贅沢がすぎるというもの。ナイフとフォークを取って、早速ぎこちない動きで肉に刃を走らせる。音を鳴らさぬように切るのは中々一苦労だが、これもその内慣れていくのだろう。
「ナイフもお上手になりましたね」
「ほんと? えへへ」
「はい、扱いを覚えて一年と少しとはとても思えません」
「ありがと」
ベルさん的には、合格点らしい。勿論身内贔屓も多分に含まれているだろうが。けれど確かに、ルーンハイムさんやその従者の人にも特に不快な様子をされたことはない。一応歳相応の、許容されるくらいの水準でマナーは守れているということだろう。これも授業で習ったことだが、貴族の社交において食事というのはやはりかなり重要なポジションを占める。挨拶と言葉と、そして食事のマナーを覚えられればとりあえずはやっていけると言われるくらいだ。一刻も早くマスターしなければ。
「いただきます」
そんなことを考えながら肉を切り分け終わって、一旦食器を置く。ベルさんとミラさんも私に続いて両手を合わせた。食前のいただきますはまだ一度も欠かしたことがないのはちょっとだけ誇らしく思っていた。結局ただのエゴではあるが、しないよりは良いだろう。
「なんのおにくだったっけ」
「豚のお肉、と言っていましたね」
給仕の人がちゃんと教えてくれたはずのメニューを思い出せなくて、果実水で喉を潤しながら。ベルさんがすぐに教えてくれて。そうだそうだ、豚のお肉だ。本当はスープから手を付けるのだとか色々あるのだけど、今は特に誰かと社交として会食しているわけではない。こういう場でのマナーはまあ、カチャカチャ音を立てないとかそんな最低限の常識といったレベルだ。授業では時と場合は関係なく常に最上級のマナーをと教えられるが、ルーンハイムさん曰くその辺は暗黙の了解とのこと。王族や貴族とて人間、ずっと気を張っていては疲れるし、気の知れた友人や従者との食事くらい気楽に、肩の力を抜いて楽しめばいいということらしい。それには私も同意だが、案外そこは融通が効くのだな、とちょっぴり驚きもした。
ともかく、そういうわけなので遠慮なく肉の一切れにフォークを刺して口に運ぶ。じゅわり、と噛み締めた瞬間に溢れる肉汁、きっと香辛料と一緒に焼いたのだろう、濃厚な風味が広がっていく。牛と比べて油の多いその肉は、また違う噛みごたえと満足感を与えてくれる。ホクホクとついつい頬が緩んで、美味しいものでお腹を満たせるという幸福感に包まれていく。
「おいしい」
「日常的に香辛料を味わえるなんて、思いもしませんでした」
ミラさんも同じような顔で感動していて、ベルさんもそれに同意した。確かに、栄養ゼリーの残った一滴を必死に啜っていたあの時から比べれば考えられない環境だ。それにここの食堂は王国全土でも別格なのだろう。食事を目当てに入学する生徒さえいそうなものだ。
……この代金が含まれている学費とは一体どれほどの金額なのか、改めてゾッとするが、今は気にしないことにしておく。いつか絶対返そう。大丈夫、マリアン畑があればきっと何とかなる。
「まりあん……」
ハッ、と。無意識にマリアンというワードを浮かべてしまった。やってしまった、忘れるようにしていたのに。しかしもう遅い。ハッキリとあの黄金の果実のことを思い出してしまった。当然、恋しくなる。今すぐにでもマリアンを求めて駆け出してしまいそうなくらいに。
「あら……アリス様? 」
「まりあん」
「マリアンが食べたいのですか? 」
「まりあん」
「そうですか。ふふ、なんとなくそう仰られる気がしていました。授業を受けられている間に、ミランダさんが街で買ってきて下さいました」
「まりあん!? 」
「はい、まりあんです」
我ながら何故会話が成立しているのか全くもって不明だが、流石ベルさんである。持ち前のエスパーばりの気遣いで既に用意しているという。ベルさんが私以上に私のことを理解してくれているのは知っているが、未来予知のようなことまでされるとは思っていなかった。そんなに朝の私はマリアンを食べたい顔をしていたのだろうか。
「姫は本当にマリアンがお好きですね」
「みらよりすき」
「えっ」
「じょうだん」
絶望的な表情になったのに慌てて付け足して、ホッとした様子のミラさん。コロコロ表情を変えてくれるのが面白くて、時々こうして冗談を言ってしまう。が、当の本人は冗談じゃないのだろう。よくない。自重せねば。
「んく……ふー」
咀嚼した肉を飲み込んで、スープで舌の上に残ったちょっぴりしつこい油の香りを胃へ流す。スープの方は野菜を煮込んだあっさりしたもので、この濃い豚肉によく合っている。やはりこうして順番に拘らず和気藹々と食べるのを予想したメニューなのだろう。これらすべての品を合わせて一つの料理なのだ。
「アリス様は本当に幸せそうに食事をされるので、御一緒させて頂くと料理がより一層美味しく感じられます」
「そ、そお? 」
満面の笑みで言ったベルさんは、お世辞ではなく本音で言っているのだろう。私も、一人で食べるのが嫌いなわけではないが、こうして好きな人たちと一緒に食べるのは食事の楽しさが増幅されているような気がする。食事に限らず、楽しい時間を大好きな人と共有する。これほどしあわせなことがあるだろうか。
「うんうん」
しみじみと喜びに浸りながら、夢中で料理を平らげる。最後の一口をたっぷり味わって、果実水で喉を爽やかに潤した。幸福と満足感の余韻に浸りながら、ふぅ、と一息。二人は一足先に食べ終わっていて、適度に会話を挟みながら私が食べ終わるのを待っていてくれた。
心地いい沈黙がしばらく続いて、ふと。
「まりあんは、おへや? 」
「はい。マリアンは滅多なことでは腐りませんから、お部屋でもしばらくは持ちます」
「そーなんだ」
また一つマリアンの良い点を知ってしまった。果実といえば冷やしておかないとすぐに傷んでしまうようなイメージだったのだが、マリアンはそうでもないらしい。ああ、素晴らしきかな、マリアン。やはりマリアンこそ天の与えたもうた恵みの果実。
「お部屋に戻ったらすぐにお食べになりますか? 」
「んー……いまは、おにくでおなかいっぱい」
マリアンのために別腹を設けることは簡単だが、別にお腹がいっぱいの時に無理をして食べることもあるまい。手に入ると知れば途端に欲は薄くなる。まったく人とは罪な生き物だ。
「では、夜に? 」
「うん。よるは、ちょっとすくなくしてもらう」
「それがよろしいですね」
そう、この食堂はそういった便宜を図ってくれたりもする。なんて至れり尽くせりなのだろう、私がチラリと給仕の人を見ると彼は静かに礼をしてくれた。お任せあれ、ということなのだろう。
しかし、席からカウンターまでは結構離れている上、食堂ではどこもかしこも声で溢れているというのに、大声で言ったわけでもないこんな小さな会話をよく把握できるものだ。勿論、私たちだけに耳を澄ませていたわけでもないだろう。一体どんな耳をしているのだろうか。穏やかな笑みを常に浮かべている彼はその佇まいに反して、ずっと気を張り巡らせているのかもしれない。何にせよ私にはとても出来ない芸当、尊敬の一言に尽きる。
「姫、今日の授業は如何でしたか」
「んー。きょうはね、どうぐつかって、おおきなかずのけいさんした」
「大きな数ですか」
「うん。ひゃくとか、せんとか」
「なるほど。私は指で数えられる分の計算しか出来ません」
唇を尖らせて冗談っぽく言ったミラさんがくすりと破顔して、それに釣られて私も笑う。けれど確かに、デジタルな計算機などは当然ない中で大きな数字の計算というのは中々に難しいのだ。
――――とはいえ、今日の授業で使った計算具は流石にそれには及ばぬが、凄いものだった。発明した人物の名を取って“パスキャローヌ”と呼ばれているそれは、乗除算を簡単にする計算具である。まだ一般的ではないらしいが、学園はこの器具は有用であると授業に導入しているようだ。
どんなものかと端的に言えば、0から9の段までの九九の刻まれた十本の木の棒だ。例えば6の棒だと上から順に6、12、18と、最後の54まで九九が段で区切られて表記されている。
そして特徴というか、この計算具の凄いところなのだが、それぞれ十の位と一の位の間に斜線が入っているのだ。これは一見、何の意味もないただの桁の区切りに思える。しかし、複数桁の計算になった時にその本領を発揮するのだ。
例えば、3×179みたいなややこしそうな乗算をするとして。その場合、パスキャローヌは式の内、桁の多い方、この式だと1と7と9の棒を使用する。そしてその三つの棒を横にぴったりと並べて、今度は式のもう片方の数字、3の段を見ると、そのままその並んだ数字が解になっているのだが、ここでその桁を区切る斜線が役に立つ。それぞれの段は均一な四角形なので、棒を並べると斜線は隣の棒の斜線と繋がって、段とは別に斜めの区切りを作り出す。
その区切りの中の数字は、それぞれ一の位と十の位となり、この計算だと1、7、9の三段目なのでそれぞれ3、21、27と並ぶ数字の、3と21の2、21の1と27の2が同じ区切りに入る。そしてその数字を足し算すると、その桁の解になるのだ。
この場合は順に3+2で5、1+2で3となる。後は足し終わったそれを各桁の数字として左から読むと537。即ち3×179は537ということが一目瞭然でわかるのだ。複数桁同士を乗算する場合はもう一手間掛かるのだが、いやはや、これを考え出した人物には脱帽である。まさしく天才、偉人と呼ばれる類の人なのだろう。前世の知識がある私からすれば要するに筆算と同じような原理なのだが、棒を並べるだけで瞬時に視覚的にわかるという点にかなり感嘆した。勿論使い方を理解して驚いたのは私だけではなく、ルーンハイムさん含めクラス中がおお、という声で満たされていた。
「姫……? 」
「……ぁ、ううん」
そうして授業を振り返っていると、突然沈黙してしまった私を心配したミラさんの呼びかけが降って、なんでもないと首を振る。次の算術の授業ではあれを使った除算の方法を教わるらしい。計算自体は別に好きだったわけではないというのに、ただパスキャローヌを扱えるというだけで今から次回が楽しみである。
学ぶって楽しいなあ、なんて若干解釈の間違った感動を抱いていると、ベルさんがさて、と場を区切って。尋ねるような視線にこくりと頷いて返した。
「では、そろそろお部屋に戻りましょうか」
「あい」
部屋に戻ったら授業の予習をしよう。明日は魔法の授業だ、少しでも深く理解できるように頑張らなければ。よし、と気を入れ直して席を立つ……立とうとして。
「――――わっ……!? 」
「アリス様……!? 」
周囲を確認せずに立ち上がろうとしたのがいけなかった。ぐい、と背中で椅子を押したと同時、何かにぶつかったかと思えば頭上からバシャリと熱い液体が勢いよく落ちてきて、直撃した右肩に瞬間的な痛みが走る。
「あ、っづ、ぅ……」
「姫っ、大丈夫ですか!? 」
「う、うん……だいじょうぶ」
バランスを崩した私をすぐに支えて、焦ったように声を荒げるミラさんを宥めて。このくらいなら少し火傷したかもといった程度だろう。今は、それより。
床に飛び散ったその熱い液体の正体を見る。これは……スープだ。
「ちょっと、人にぶつかって、昼食まで台無しにしておいて我が身の心配ですか? 」
「ぁ、え、えっと……」
即座にごめんなさいと叫ぼうとして、先に向こうから批難が上がる。振り向いた先には気の強そうな、ミラさんより少し上くらいの歳に見える少女。空になったスープのお椀をぷらぷらと見せつけるように片手で振りながら、明らかに嫌悪と怒りの表情をしている。その怒気の篭った鋭い視線に、私は怯んでしまって。
「その、ご、ごめんなさ……っ」
「どうしてくれますの。お気に入りの靴も汚れてしまったではありませんか」
有無を言わせぬ語調にどう謝っていいのかわからなくなって、駄目だと、無礼で烏滸の沙汰もいいとこだとわかっているのに涙が滲み始めてしまって。けれどそれが溢れる前に、私を隠すようにベルさんが間に割って入って。
「誠に失礼致しました。この度の無作法は、従者であり、常に主の周囲に気を配るべき私が愚かにもその役職を忘れて気を緩め、その結果起きてしまった事態。すべて私の責任です」
「はあ? だからなんだっていうのかしら」
訝しげに詰め寄る彼女。この学園の生徒という時点で貴族なのは明白で、ならば同じ貴族とは言えどその無礼は高くつく。だから、だからこそ、ベルさんが次に何を言おうとしているのかがわかってしまって、怖いとか、泣きそうで声が出ないだとか、そんな馬鹿なことを言っている場合ではない。私の不注意が原因なのだから、私が悪いのである。そんなことは誰の目にも明らかだ。
ぎゅっと私を背中に隠したまま後ろ手で掴んで離してくれない手を振り払って、頭を下げようとして、けれど。
彼女の更に後ろから聞こえた声が、それを遮った。
「……で。これは、何の騒ぎかしら? 」
ふん、と不快そうに紅と深緑の瞳を尖らせ、腕を組んで佇む背中に従者を引き連れて。堂々と張った声を凛と鳴らす金色は。
「――――るーんはいむ、さん」
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