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ノブリス・オブリージュ ~引きこもり令嬢が何故聖女と呼ばれたか  作者: 剥製ありす
第一章 奴隷労働者の彼がいかにして貴族令嬢になったか
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第5話 ブルーな朝と黄金のマリアン

 まぶたの外から(まばゆ)い光が注がれる。それが瞳の奥まで染み入って、未だ夜にいた私の意識を朝に進ませる。眩しい、けれど、ああ悪くはない気分だ。回転を始めた脳が小鳥の鳴き声を知覚した。


「ん、っふ……ぁ」


 朝だ。昨日は色々と、忙しない一日だった。

 初めての父との対面。前世から持ち越した精神的疲弊の自覚。

 この身には負担が大きかったらしく、父が去り、夕食を済ませて、ベルさんに体を濡れタオルで拭いてもらった後、すぐに眠ってしまったのを覚えている。

 いつもはそこから子守唄を聞かせてもらったり、本を読んでもらったりするのだが、ベルさんが戻るほんの十分くらいをベッドの中で待つ内に、そのまま眠りに落ちてしまった。

 そんないつもより早い就寝だったせいか、どうやら早く目覚めたらしい。珍しく、ベルさんに起こされる前に自分で起きた。

 にしても、鳥が鳴いていたというのに今日は雨なのだろうか。体が妙に湿りに包まれて……うん? 湿り?


「ぁっ……!?」


 寝起きの心地いい気怠さなど彼方へ吹き飛んだ。ガバッと身を起こし、急な激しい動きに酔ったようにふらつきながら布団を捲る。恐る恐る可愛いフリルのあしらわれたワンピースの下、ドロワーズのさらにそのまた下で悪夢を封じ込めているであろう厚手の布を確かめる。


「……うそぉ……」


 前言撤回、気分は最悪だ。生暖かい湿気が足の付け根から内ももの上部までを濡らす。

 なんということだ。昨日まではそろそろ卒業できそうだと浮かれていたというのに、それが遠のいていくのがわかる。代わりとばかりに込み上げる羞恥が頬を沸騰させる。


「もおぉぉ」


 ぼふん、と重力に身を委ね、うつ伏せに枕に顔を埋めて足をバタつかせた。顔全体を覆う熱を枕に無理やり擦り付けて、現実逃避の沈黙。


「……もらした」


 昨夜用を足さずに眠ってしまったのがいけなかったらしい。幼い堤防は奮闘虚しく崩壊し、ノアの洪水は呆気なく訪れた。

 前世世界で一般的だった紙おむつなんてものは、文明が恐らくまだ中世レベルであるこの世界には当然存在しない。

 厚めの布が下腹から臀部を覆い、その上を抑えるように薄い布一枚が巻かれた、排泄物が最低限外に漏れぬようにされた程度のもの。イメージとしては布おむつの簡易版だ。

 けれど布団や寝巻きまでは濡らしていないというのが救いだろうか。これでベッドに染みまで作っていたらきっと私は今日一日立ち直れなかった。


「はぁ……」

 ブルーにため息を一つ、のそのそと布団から這い出るとベッドの端にちょこんと腰掛け、足を垂れ下げる。怪我をしては危ないから、と高価だろうにカーペットの敷かれた床。もこもこのスリッパに足裏をつけて、伸びをしながら立ち上がった。


「んんっ……ん、ふー。よい、しょ」


 スカートをたくしあげると腰から手を滑らせてドロワーズに指を引っ掛け、そのまま腰を曲げて足首辺りまで引っ張り下ろし、足を抜いて脱ぎ置く。続いておむつに手をかけたところで“換え”と拭くものがないことを思い出す。


「つんだ」


 と絶望しかけたところで廊下を歩く音。きっとベルさんだ。いつものノックと声がして、部屋の扉が開いていくのを見て助かったと安堵。

 危うく蒸れと湿りに侵されるこの気持ちの悪い感触をしばらく味わわねばならぬところだった。


「おはようございます、アリス様……と、あら……」


 朝食を持ったベルさんの視線が濡れたおむつに向かって、それがなんだか無性に恥ずかしくて、たくしあげていたワンピースの裾をぐい、と下に引っ張って顔を背けた。


「お気になさらずともいいのですよ。お着替えとタオルをお持ち致しますので、ちょっと待っててくださいね」


 優しく包んでくれるような声が近づいて、ベルさんは机に盆を置くと私を一撫でして再び廊下へ戻っていった。

 結局座ってベッドを汚すわけにもいかないので、裾を持ち上げたまま立ち尽くす羽目になった。なんという羞恥プレイだろうか。こんなところを父や他のメイドにでも見られたら一体どうしろと言うのだ。一生もののトラウマである。


「お待たせしましたアリス様。さあお着替えしましょうね」


 ものの数分で戻ってきたベルさんの手にはタオルと、脱いだものを入れる籠。籠の中には新しいおむつと、ドロワーズ、ワンピース。ついでに部屋着も着替える流れらしい。

 促されるまま袖から腕を抜くと、ベルさんが上から引っ張って手伝ってくれる。肌が直接空気に触れて、穏やかな気温とはいえちょっぴり寒い。


「おむつのお取り替えをしますね」

「ぁい」


 ベルさんが着替えを取り出したのを確認して、そのまま湿ったおむつを脱いで籠に入れる。すると濡らしたタオルの両端がその透き通るような白い手先で摘んで広げられて、


「ちょっと冷たいですよー」

「ひゃうっ……」


 ぴたりと肌に冷たい感覚。備えてはいても、いつも思っているよりほんの少しだけ冷たくて、毎度のことながら声が漏れる。そうして私の体を包んだタオルがベルさんの手でゴシゴシと擦り付けられていく。

 お腹、横腹、背中。胸。そこから腕に飛んで、肩まで滑りあげると次は首元、脇。そこまで拭いたところで二枚目のタオルに切り替えて、今度は下半身。足首から腰まで上っていって、お尻。そして、下腹部。


「蒸れてしまわないように、しっかりと……と、ちょっと足を開けてもらえますか?」

「う、うん……」


 言われた通り、肩幅より少し広いくらいに足を開く。さすがに気恥ずかしいが、まあいつものことなので。天井のシミでも数えていることにしよう。ひとつ、ふたーつ。


「はい、綺麗になりました。では乾いたタオルで拭いていきますね」

「ぁい」


 今度は濡れた体がふかふかのタオルに優しく包まれていく。どこか満足気なベルさんと目が合わないようにしながら、新しいおむつに足を通す。その上から裾に可愛らしい装飾の施されたドロワーズを穿く。まず腰を通して、左右に伸びた布で足を包んでリボンで止める。

 ドロワーズとは言っても前世の近現代のものとは違い、内股の部分は縫い合わされていないのでおむつを穿いていなければ丸見えなわけだが、そもそもベルさん他メイドさんたちの服装を見る限り、前世での中世ヨーロッパと同じく女性が下着を履くというのがまだあまり一般的ではないようだ。

 あれは倒れるほんの一月前だったか。短い昼休憩、現実逃避に駆け込んだ休憩室で、乱雑に積まれた古本の中から中世騎士物語を見つけ出していなければさぞかし私は困惑したことだろう。知っていても未だに違和感を覚えるのだから。

 そして何より、大変心臓によろしくないのでせめてベルさんには下着を履いていただきたいところである。ベルさんへプレゼントを贈る機会があれば必ずドロワーズにしようとぬいぐるみをもらった時に決めた。


「上手にリボンを留められるようになりましたね」

「あぃがと」


 よくできました、とリボンを留められたことを真面目に褒められるのは若干屈辱的な気がしないでもないが、そんなことをいうわけにもいかないので甘んじて受け入れる。けれど、ちょっぴり雑にワンピースに袖を通したのくらいは見逃してくれてもいいだろう。


「……それにしても、アリス様の髪は本当にお綺麗ですね」

「そぉ?」

「はい。まるで雪のように白く儚く、きめ細かい毛先にサラサラの手触り。同じ女性として、少し嫉妬してしまいます、ふふっ」

「べる、も、きれい」

「まあ……! ありがとうございます、アリス様。では私も自信を持たなければいけませんね」


 ベルさんはそう言って私の乱れた髪を指で梳き撫でながら、見惚れるような笑顔を向けてくれる。それにどうしようもなく胸が高鳴ってしまう。しばらくうっとりと撫でられ続けて、ベッド横の机に置かれた朝食のことを思い出した。きっともうスープは冷めてしまっているだろう。

 その目線に気がついたのか、ベルさんは最後に頭頂から後頭部まで撫で下ろすと、タオルと脱いだ服を入れた籠を持ち上げて。


「それでは、私は先にこれを片付けてきます。スープも、温かいものにお変え致しますね」

「ぁ……ううん、だいじょうぶ」

「……ですが、冷めてしまっていますよ?」

「いい。これ、たべる」

「……アリス様は本当に優しいお方です。畏まりました、では少し待っていてくださいね」

「うん」


 また何かしら変な方向に納得したらしい。単純に、せっかく作ってくれたのに勿体(もったい)ないからという意味だったのだが。そして、やっぱり私に自分で食べさせる気はないらしい。私にあーん、をするのがベルさんの密かな楽しみだというのなら、まあ、満更でも、ないけど。

 再び扉が開くとベルさんは出ていこうとして、たまたま鉢合わせたメイドとぶつかりそうになる。昨日ベルさんに説教を喰らっていた赤髪のメイドさんだ。昼休憩はやはり抜かれたのだろうか。


「……あっと、大丈夫?」

「っとと……ぁ、は、はい! 万事問題なしでありますでございます、マム‼」

「誰がマムよ……悪いんだけど、これ洗濯場へ持っていっておいてくれる?」

「マムの仰せのままに!」

「……私じゃなくて、フェアミール家に忠誠を尽くしなさい」

「いえす、まむ! では失礼致します!」


 そういえば従者として私や父に接している以外のベルさんの姿を見るのはとっても珍しい。なかなか苦労しているらしいが、私にとっては新鮮で、ちょっと楽しい。


「お目汚し失礼致しました、アリス様。ではお食事にしましょうか」

「うん」


 赤髪のメイドさん、名前はなんというのだろうか。彼女が去っていったのを見届けて、ベルさんがそばへ戻ってくる。いつものように私は布団を被りながら座って、ベルさんはベッドの端へ腰掛けて。そんな何気ない日常に少し頬が緩む。

 盆の蓋が退けられる。いつも通りスープとパンと……いや、今日はリンゴではないらしい。これはなんだろうか。メロン?


「今日のデザートはマリアンを用意しました。ここ、私たちの住むマリアーナの特産品なんです」

「まり、あん?」


 後半の言葉はよく聞き取れなかったが、マリアーナは確かここらの地名だったはずなのでたぶん名物です的なことを言ったのだろう。やはり語彙が貧弱だ。朝食を済ませた後で教えてもらおう。

 この身ももう四つである。未だに簡単な単語の組み合わせでしか話せないというのはさすがに問題だろうし、昨日の父との対面しかり、ここのところ言葉がうまく使えなくて不便を感じることが多くなってきた。

 話は戻って、この船のような形にカットされた黄金の果物はマリアンというらしい。響きからしてもまんまメロンである。前世では知識にこそあれどついに食べたことはなかったから、どんな味がするのか非常に楽しみだ。甘いのだろうか、それとも酸っぱいのだろうか?


「はい、あーん」

「あーん」


 ベルさんが伸ばしたスプーンに唇を開く。スープはやはり冷たかったが、問題なくおいしい。というか、あの栄養ゼリーに比べればなんでもおいしいと思う。


「やっぱり冷たいですか?」

「ふめはい」


 と苦笑するベルさんに素直に応えながらもしっかり味わって喉へ流し、パンに手を伸ばして一口かじる。楕円形をしたソレはどちらかというと素朴な味わいで、けれどスープの味が少し濃い目なので、それくらいがちょうどいい。

 私がパンを咀嚼し終えたのを見て、再びスプーンが伸ばされる。こういう細かいところの気遣いがやっぱりできたメイドさんだなぁと思わせる。たまに気遣いが行き過ぎて変な勘違いをするけれど、それはご愛嬌というものだろう。


「あーん」

「ぁむ」


 こうしてあーん、をしている時のベルさんはやっぱりどこか嬉しそうだ。なんとなく、そのオーラでこっちも嬉しくなってくるくらいに。

 パンとスープを交互に食べるのを何度か繰り返して、同じくらいのタイミングで両方がなくなる。これもベルさんが調整しているのだろうか? だとすればもはや見切りの域だ。これぞプロフェッショナル。

 そしてその二つを平らげた私の目はメロンもどき、マリアンとやらに釘付けである。未知の食べ物というのはいつでも心が躍る。


「ふふ、そんなに眺めなくてもなくなったりしませんよ」

「ぁう」


 なんだか自分が卑しん坊な気がして、身を縮める。実際物欲しそうに見ていたのは確かなのだから否定はできない。とっても好奇心旺盛なお年頃なのである。そういうことにしておこう。


「はい、どうぞ」

「ぁい」


 はむ、とスプーンで崩したそれを一口。


「……おいひい」

「リンゴとはまた違った甘さでしょう?」


 リンゴが爽やかな甘さなら、これはなんというか、舌の上にだんだんと優しい風味が広がっていくような、上品な味だ。ちょっぴり足りないくらいの甘さが逆にもう一口を求めさせる。瑞々しい食感もいい。


「もっと、もっと」

「ふふ、あーん」


 とってもおいしいマリアンをベルさんに食べさせてもらう贅沢をたっぷり堪能しながら、そういえば、と忘れかけていたお願い事。言葉の習得だ。


「べる」

「はい?」

「わたし、もっとはなしたい。おしえて」

「えぇっと……」


 拙い発音と言葉足らずのそれをちょっぴり苦戦しながら飲み込んでくれたベルさんが感心したような笑顔になって。


「もちろんです。自分からなんて、アリス様はおりこうさんですね」

「そお?」

「はい。アリス様くらいの年頃の子は、みんな勉強なんて嫌がって走り回ってるものですよ」

「そう」


 なぜだかほんの一瞬悲しそうな顔をした気がしたが、瞬きの間にまたいつものにこやかな表情に戻っていた。気のせいだったろうか。


「では、朝食をお片付けした後にいくつか適した絵本を持って参りますね」

「うん」


 部屋の絵本は内容を覚えるくらいには読んでしまって、そろそろ飽きてきていたので新しいものを持ってきてもらえるのは嬉しい。

 それにしても、まったく何から何までベルさんには世話になりっぱなしである。何も返せていないのがもどかしい。


「べる」

「はい」

「あぃがと」


 するとベルさんはちょっぴり困ったような顔をして。


「……いえ、私がしたくてしてることですから!」


 珍しく語尾を強めた声に思わずきょとんと首を傾げて。まあいいか、とマリアンのおかわりを催促した。


「もっと」

「ふふ、好物の認識を改めなければいけませんね?」


 頬を甘く膨らませては次を強請(ねだ)るその光景は、マリアンがなくなって肩を落とした私をベルさんが慰めるまで、もうほんの少し続いた。


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