第3話 徳は孤ならず必ず隣あり
「ふ、ぅ……」
不安と興奮からかいつもより早く目覚めた私は、寮を出て中心の、この学園のメインである建物へ。試験会場はそこの一階、きっと普段は教室として使われているのだろう、あのホールの三分の一くらいの広さの部屋だ。館の広間と同じくらいだろうか。
落ち着かせるためにそうして意識を試験から逸らしながら、会場の扉の前で一つ息を吐いた。
「大丈夫です、アリス様」
ぎゅっと私の手を握って勇気付けてくれるベルさんに曖昧な笑みを返しながら、それでも緊張は中々解けない。昨日の晩は前向きに考えられていたはずなのに、いざ会場まで来るとこれである。
……しかしこれは仕方のないことにも思えた。何せ今から望むのは、今後の学園生活すべてを決めるといっても過言のない試験なのだ。
勿論、そんな、何一つわからないような試験内容ではないだろうというのは理解している。
けれど他の同期の新入生を見る限り、やはり基本的に十代半ばから後半の少年少女が受けることを前提としたものになっているだろう。
だって今回私や王女様が入学するまで、入学の史上最年少は十四歳だったのだから。
いくら最低年齢を六歳に設定しているからといって、そのような実態があれば試験や授業もそれに合わせているものと考えるべきだ。
加えて私は長い間引きこもっていたのもあって、かなり世間知らずなところがあるという自覚がある。昨日の衣服を仕舞う棚の件なんかがその最たる例だった。
「うぅ」
ダメだ、考えれば考えるほど不安になってくる。
もしかしたらとんでもなくアホな解答をしてしまってやっぱり退学! みたいなことになったりしないだろうか、なんて突拍子もない考えが次々浮かんでくる。
適度な緊張はミスを減らすのに必要だが、これは流石に緊張しすぎである。むしろ、冷静な思考が出来ずに逆にミスを誘発しかねない。
だから早く落ち着かないと、というそれが更に私を焦らせて。
「姫」
そんな悪循環の沼に嵌りかけた私の狭まっていく視界にストップをかけたのはミラさんだ。
うるうると見上げたミラさんはけれどそれ以上何を言うでもなく、ただ微笑んだ。
「みら」
コクリと頷いたミラさん、私はもう一度深呼吸をして。
要らぬ考えを振り払うように、首をぶんぶんと左右に振った。
「……よしっ」
気合を入れ直した頃には暗い穴から覗いているようだった視界は元に戻っていて、私の隣を何人もの同期生が通り過ぎていった。開きっぱなしにされた扉を潜ってそれぞれの指定された席に座る彼ら、彼女らは、冷静なように見えてみんな同じように不安を抱えているらしかった。
ある青年は机に頬杖をついて一見余裕そうに見せながらもその足は常にトントンと床を叩いていて落ち着きがない。
ある少女は不安を隠そうともせず、しきりにブツブツと、何やら己の知識を確認するように呟いている。
私はベルさんとミラさんを見上げた。二人は同意するように頷いた。
確かに周囲に比べて圧倒的に若い――――幼いともいう――――私は不利だろうが、だからといってなよなよと物怖じしていても仕方がないのだ。ずっとそんな調子では、それこそ退学! 案件である。
みんな不安なのだと思えば、少し肩が軽くなる気がした。
「じゃあ、いってくるね」
「はい、アリス様。ちゃんと見守っていますからね」
「お助け出来ないのが残念ですが、姫ならきっと大丈夫です! 」
ようやく会場に入る覚悟の整った私を一撫でしたベルさんはミラさんと一緒に教室の後ろ、護衛や付添い人用のスペース――――と言っても人数分の椅子が並べられているだけだが――――へ歩いて行った。
二人の他には暗めの緑色の髪の女性と甲冑姿の如何にもな騎士が数人、椅子には座らずに並んでいて、誰も同じ三日月のような紋章を付けていることからきっと王女様の従者の方たちだろう。
座らないのはいつどんな時でもすぐに動けるようにという意気込みの表れか、それとも身分的なマナーだろうか。
「えっと」
私の席は……ああ、あそこだ。
丁寧にネームプレートがぶら下げられた椅子を目指す。
「……いちばんまえ」
なんとも困ったことにそこは最前列だ。恐らくもうすぐに来るであろう試験監督の先生の目線が気になって集中出来ないなんてことに陥らなければいいのだが。
そういえば、この席の並びは何が基準なのだろう。
名前順? なら、私が最前列の席になるのは納得がいく。
王国語にも当然前世で言うアルファベット、五十音のようなものがあって、その並びで言うと私の“アリス”という名前はかなり前の方にくる。
それが正しいのか確認しようと左隣、一番先頭の席のネームプレートを見て――――
「えっ」
私は硬直した。
試験の不安なんて、“無限の彼方へさあいくぞ!”――――前世の養育施設にひたすらそれをリピートするやたらやかましい宇宙飛行士の玩具があった――――である。
……ああ、どうして。どうしてですかお祖父様!
この席順に関与したかどうかもわからないというのに理不尽に祖父を恨みながら、恐る恐るその名前をもう一度読み直す。出来れば見間違いであって欲しかった。
しかし、現実は非情である。
「……るーんはいむ、ろーど、るーねりあ」
一体何の嫌がらせだろうか。
いや、一般感覚的には何たる光栄、と歓喜するところなのかもしれない。
「えぇぇ……」
そう、その名前は、私の記憶違いでなければ……。
「――――あら。ご機嫌よう、小さな小さなお嬢さん? 」
くるくるに巻かれた、まるで“月”のように煌く髪に、紅と緑のオッドアイ。
立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は百合の花。
――――ルーンハイム・ロード・ルーネリア王女殿下。
幼き王女様その人であった。
「あ、あの、えっと……」
もごもごと必死に挨拶をしようとする少女を一瞥する。目立つ白銀の髪にまだ幼さの色濃く残る可愛らしい顔立ち。けれどそれでいて何処か儚げな雰囲気を感じさせるその姿はまるで“雪”のようだ。
ついつい、いいから落ち着いて、と助けてあげたくなるが、そういうわけにもいかない。
私は王女なのだ。ならば自分より下の身分の者には威厳を以て相応の振舞いをしなければいけないのだ。
「ふん。挨拶も満足に出来ないのかしら? 」
ああ、違う。こんなことが言いたいんじゃない。
同期生の中で唯一歳の近いこの娘とはこんな出会い方じゃなくて、そう、もっと和気藹々と微笑みあって、よろしくと握手が出来るような……
「まあ、その歳じゃ仕方ないわよね。なんであなたみたいなちっこいのが入学出来たのか不思議だけれど、いいわ。隣席のよしみで特別に握手してあげる。光栄に思いなさい? 」
胸を張ってふんぞり返り、ぐいっと開いた手を突き出す。震えていないだろうか。
こんな言い方ではきっと気を悪くしただろう。恐る恐る彼女を見ると、その不健康なまでに白く細い腕をびくびくと差し出し返してくれた。
もう、ほら、怯えているじゃない。こんな時素直にごめんねと謝ることの出来ない自分の捻くれ加減と王女という身分には辟易とするばかりだ。
「その……ありがとう、ございます、おうじょさま」
「……ふ、ふんっ。別に、一人場違いな幼い子供がびくびく震えているのを哀れに思っただけよ」
場違いな幼い子供というのは自分もである。口を縫い合わせてしまいたい気持ちを唇をきつく結ぶことで抑えながら、じれったいその手をきゅっと握ってやる。
「やわらか……」
その手は子供特有のというか、びっくりするほど柔らかかった。強く握ればふわりと溶けて消えてしまいそうな、そんな小さな手だ。
思わず声を漏らしてしまったのか、首を傾げた彼女に誤魔化すように話題を振る。
「で、あなたは幾つなのかしら? 」
見たところ私より幼いのだ。七歳くらいだろうか。
やっぱりふるふるおどおどとじれったい彼女は数秒待って、ようやく口を開いた。
「ろくさい、です」
「そう。六歳ね――――ってろくぅっ!? 」
六歳……六歳!?
それはこの学園の最低入学年齢ではなかったか。史上最年少は私だと思っていたが、更に下がいたというのか。
しかし神童と謳われ、物心のついた時から特別な教育を受けていた私でさえこの歳での入学は不安に思ったのだ。周囲から浮かないだろうか、と。
王宮の教師……というか専属のメイドは何の問題もないと言っていたが、大人の私に対する評価というのは王族への媚売りが多分に含まれていて大抵アテにならない。まあ、彼女はそんな奴らとはまったく別なのだけれど。
「い、いえ。なんでもないわ」
勿論、他の同年代とは比べ物にならないほど知識があるという自信はある。
中枢貴族との交流という名の社交で接した彼らの娘というのは皆少ない語彙でバカみたいに私を褒めるばかりで、例えば税の仕組みなんかを聞いてみればすぐに化けの皮が剥がれる。慌てたように王様の統治は素晴らしいと賛辞を送るだけなのだから。
……こんな圧政の何が素晴らしいというのだろう。これでは内憂外患の状況を自ら作り出すようなものである。
そもそも父……現国王は、本来ならば王位を継承するはずではなかったのだ。
賢王と呼ばれた前国王は確かに内政だけ見ればかなり有能だった。悪戯に王族貴族、騎士や魔導師ら中流から上流を富ませるのではなく、それを支える庶民に目を向けた。
流石に王族生まれなだけあって、実際は庶民を見下しているような節はあったが、それでも彼らの生活を改善しようとしたのだ。例えそれが反乱を恐れた保身から来たものであったとしても、やっただけ他の王より遥かにマシである。
しかし、ならば外交や社交はと言うと、からっきしだった。
脅されればすぐに怯えて譲歩、常に周囲のご機嫌を伺うようなその言動の数々はとても王と呼べるようなものではない。無論私は実際にそれを見ていたわけではないが、少し記録を漁ればそんな風な人物だったのは一目瞭然である。
当然、長く覇を競ってきた隣国、帝国はそれを好機と捉え、どうせすぐに和平を申し出てくるだろうと戦争を開始した。結果として彼は戦争を起こしてしまったのだ。
……そして、そこを突いたのが父だ。当時王位継承権第二位。即ち前国王の弟であった父は、ずっと兄を疎ましく思っていた。あんな弱虫が自分より上に立つなど許せない、と。
父はその無駄に巧みな社交能力で築いてきた人脈で以て、一斉に王を糾弾して失脚に追い込んだ。退位に追い込まれた王の姿をその後見たものが一人もいないことから、暗殺されたのではという噂すらある。
それはともかく。そうして王位についた父は、囲いの貴族が媚売りに差し出した娘たちの中でも特にお気に入りの令嬢、即ち母を王妃として迎え、欲望の限りを尽くしている。
そんな中で産まれた私はというと、当然放ったらかしだった。両親は自身の欲望のことにしか興味がないのだ。子供の世話をするなんて、とんでもない。後継ぎにさえなればどうでもよかったのだろう。
事実、私の他に子を作ろうとはしなかった。両親ともお互いのことは飽きたらしく、権力を傘に好き放題している姿が、というよりそんな姿しか見たことがない。
「はぁ……」
私は目の前の彼女のことも忘れて、溜息を吐いてしまう。
――――“この世界は腐っていた”。
今や庶民はなんとか食事にありつける程度、時にはそれすらも覚束無い低賃金で長時間の奴隷労働を強いられ、挙げ句の果て凶作による餓死にすら見て見ぬふりをされる。
ノブリス・オブリージュなどというものは御伽の話。権力を持つ人間はずっとその保身、或いは更なる富を求めて常に汚い暗闘を繰り広げて来た。結局庶民などは自分たちに富を貢ぐ道具くらいにしか思っていないのだということを、私は既に理解していた。
「えっと、えっと……」
……きっとこの娘も、そんな貴族の親の見栄張りか何かで入学を無理強いされたのだろう。
基本的に強制退学というものはないと聞いているが、彼女の場合は周囲から孤立してしまって自主退学なんてことも有り得るかもしれない。
そう考えると、何だかやるせない気分になる。彼女が私と同じクラスに分けられるほどの能力があるのかはわからないが、私的にも歳の近い子がいるかどうかというのは大分心の持ち様が変わってくるのだ。
「わたしは、ありす・ふぉん・ふぇあみーる。まりあーなのきぞく、です」
「そう。私は……名乗らなくても知ってるわね。よろしく」
アリス……アイリスをもじったのだろうか。とても素敵な名前だ。
ほとんど何も知らないというのに、何故かそれが彼女にぴったりなような気がした。
花言葉の通り、彼女との出会いが“良い知らせ”になればいいな、などと今更子供っぽいことを思いながら、握ったその手を離した。
……いや。ふぇあみーる。“フェアミール”?
普段聞かぬ家名なのでピンとこなかったが、思い出した。
フェアミールといえば、あの戦争で庶民から騎士、遂には貴族まで成り上がった“英雄”さんじゃない。彼の治めるマリアーナは庶民の間で評判が良いと聞く。基本的に上流が嫌われている中で、それでも好意的に見られているというのはそれだけで注目に値すること。
その娘となれば、他の有象無象の貴族の子らよりは見所がありそうだ。
……なるほど、ならばこの席順にも納得がいった。チラリと教室の後ろを振り返ると案の定、王宮の教師こと、専属メイド――――“ステラ”は静かに微笑んだ。
やはり、彼女が手回ししたということらしい。
私と考えが合いそうな、つまり、友達になれそうなこの娘を隣の席にしてくれたのだろう。
「ふーん……」
ならば尚更、初対面を失敗したかもしれない。
……いや、まだだ。まだ諦めるな私。きっと隣席が王女という衝撃にぼやけてまだ第一印象は固定されていないはずだ。それに握手をするまでは出来たのだから、悲観する段階ではない。
「新入生の皆さんこんにちは。それでは早速、試験用紙を配っていきます」
いつの間にか教壇に立っていた教師から配られた用紙を受け取って、ペンにインクを付ける。
ああ、そういえばクラス分けの試験を受けに来たのだったわね。
「皆さん受け取りましたね。制限時間は一時間、この時計の長針が一周するまでです」
試験の時間を計るのに時計を使うらしい。当たり前に時計が身近にある王女の私が言うのもなんだが、何とも贅沢な。他の地域の魔法学園が聞いたら卒倒しそうな話である。
「それでは……始めてください! 」
そうして問題に目を走らせ、拍子抜けするほど簡単なそれに少し安堵しながら。
意識はずっと、隣のアリスという少女に向いていたのだった
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