第20話 貴族令嬢の彼女がいかにして民の光となったか
「いたっ」
「ああお嬢様っ! 大丈夫ですか?」
「だいじょうぶ」
思わず跳ね除けた左手を胸元に戻し、抱えていた生地を置いて右手でそれをさすった。
血は出ていない。ぷらぷらと何度か、痛みを払うように手首を振って、再度生地を持ち上げながらクロリナさんに微笑みを送る。
ホッと胸を撫で下ろしたクロリナさんが私の手元を見て、私はついでに現状の出来を尋ねた。
「……どお?」
「とっても綺麗にできていますね」
「ほんと?」
「はい。きっとノクスベルさんも喜んでくれます」
「えへへ」
出来上がったこれを渡す瞬間を思い浮かべて、自然と頬が緩む。
クロリナさんとした内緒の約束――――ベルさんに手作りのドロワーズをプレゼントしたいという“おねがい”は、もうすぐにでも叶いそうだ。
……手作りとはいっても、もちろん裁縫なんかしたこともない私ではドロワーズを一から作るなんてこと無理で、そこも含めての結構無茶振りな、お願いというよりは相談に近いものだった。
裁縫を一から学ぶ覚悟で待っていた私に、先日納税も兼ねてやって来たクロリナさんは、なんと完成一歩手前のドロワーズを、これに私が最後の仕上げをして渡しては、と解決案とともに持ってきてくれたのだ。
その“仕上げ”というのは装飾、裾や腰の部分にレースを縫い付けるというもので、本当は一番初めにするらしいのを態と飛ばして作ってくれたんだとか。
いくつか種類のある中から花柄のものを選んだ私は今日、クロリナさんの教えのもと、何度か針を指に刺してしまいながらも必死にそれを縫い付けていた。
「……そういえば、お嬢様」
「あい」
「学園に通われるそうで……?」
不慣れに縫い進める私の手元を見ながら、ふとクロリナさんが尋ねた。
その表情はちょっぴり不安そうだった。
「うん。つぎのおたんじょうびの、ちょっとあとくらい」
「そうですか。入学式の日には、ぜひ私にもお見送りさせてくださいませんか?」
「ほえ」
思わぬ提案に手を止めて、きょとんと目を丸くしてクロリナさんを見上げた。
その瞳に冗談の色はなくて、どうやら本気のようだ。
「うん、もちろん。……でも、どーして?」
確かにクロリナさんとは友好関係にはあるが、それでもこうして会うのは、魔法検査の時を含めてもまだ数度目くらい。
もちろん見送ってくれるのは嬉しいけれど、そこまでしてくれる理由がわからなかった。
私が不思議そうにすると、クロリナさんは柔らかく表情を崩して。
「そうですね。お礼、という意味もあります」
「おれい……?」
私は何か、クロリナさんに感謝されるようなことをしただろうか。
孤児院の子たちが服飾の仕事に参加しているのを秘密にしていることかとも思ったが、それなら改めてお礼という言い方はしないような気がする。
私の本当の魔法を黙ってくれている時点でもう釣り合いは取れているし、そもそも孤児院の話だってたまたまイメージが合っていて、それをなんとなく口にしてしまっただけで、あの時言わなければその後も態々誰かに聞くようなことはなかっただろう。
つまり私としてはクロリナさんにそういった、いわゆる貸しのようなものはなく、むしろ今こうして裁縫を教えてもらうなど恩ばかりの一方通行のつもりなのだ。
だからお礼と言われても、いまいちピンとくるものがない。
「お嬢様の噂が広がっているのは、知っておられますか?」
「……う、うん。じいさまにきいた」
私の噂というのは見学の時に祖父に聞いて初めて知ったあれのことだろう。
王都から戻ってきた際も、道行く人々にむずかゆい目線を向けられたのを覚えている。
……けれど。そんな、噂で言われるような誇り高いことをしたつもりはない。あの日襲ったのがアヤメでなければ、私は助けに割り込むことすらできなかったかもしれないのだから。
体長が私とほぼ同じかほんの少しほど小さいくらいの子供の金狼だったからこそ、辛うじて一歩踏み出すことができたのだ。
例えばあれがもう一回りも大きければ、私の足は竦んで動かなかっただろう。
「孤児院の子供たちの間でもあの噂で持ち切りで、私にはそれが広まってから以前よりあの子たちの笑顔が増えたように思えるのです」
「えっ」
「きっと……」
クロリナさんはその後に何か続けようとして、けれど。
穏やかだったその表情をほんの一瞬だけ歪ませて、言葉を飲み込むように口を閉じた。
「……いえ。また、私はお嬢様に恩をいただいてしまいました。それで返せるとは思いませんが、くださった笑顔の分、お嬢様を笑顔に、と。……お見送りしたいという私の気持ちが一番の理由なのですが」
「えがお」
……クロリナさんは、笑顔をくれたから笑顔を、と言った。
それは背中の傷跡に刻まれた、私の誓いに少し似ていて。
「しあわせのために、しあわせを」
クロリナさんは口を開けたまま言葉をなくして、そうして目を見開いた。
真実を教え、私たちを守って散っていったかつての、前世の恩師の姿が頭をよぎる。
彼は火種を束ね、育て、やがて業火になった炎で現在を焼き尽くすことによって変革を起こそうとしていた。当時の私もそれに共感し、賛同した。
しかし結果は、さらなる抑圧だった。
――――ならばそれでは、ダメなのだ。
安易に剣を振り上げれば、向こうも剣を抜く。
そして傷が憎しみと反感を抱かせ、また次の傷を生む。
どこかで止めなければ、それはずっと続く。
……もちろんこの世全ての、なんて大それたことは言えない。
けれど私は、私のしあわせのために。
せめて大切な人たちがいつもしあわせで溢れているように。
見える範囲でくらいは、剣を受け止め、傷を代わって、できるならば抱擁を返そう。
そうして負の感情がやがて笑顔に戻った時、きっと天秤は釣り合うのだ。
「聖女、様……」
ポツリと、クロリナさんが呆然と呟いた。
……聖女様だなんて。私は私がしあわせになりたいだけだ。
ちょっぴり勘違いされたかもしれない。
「……ぁう」
いきなりしあわせのためにーなんて言ってしまったのがなんだか恥ずかしくなって、頬が熱くなったのに顔を俯けて。やがて沈黙すること十数秒、ようやくクロリナさんは戻ってきてくれた。
……ただし、なぜか涙を流しながら。
「えっ」
「ああなんと、なんと尊いお方……」
「えっ」
感極まった様子のクロリナさんが、その腕を大きく広げた。
ふわり、とそれが私を包んで。
「デジャヴュ」
「お嬢様っ……!」
「ふぎゅっ!?」
ふぎゅ。むぎゅ。苦しい。柔らかい。デカい。
私は空気を求めてジタバタと暴れながら、妙な敗北感に打ちひしがれた。散々である。
「お嬢様、そのお考えはとても、とっても、素敵で立派なものです。……ですが」
「むぎゅ」
「絶対に、お一人で抱え込もうとはなさらないでください。私は、私たちは大人です。お嬢様のように純粋無垢で、何よりも尊い、まるで雪のような心を持つことはできません」
私はぴくぴくと手を痙攣させながらもしっかりとそれを聞いた。
私よりずっと、人を助けて、そして失敗もしてきたであろう、クロリナさんの言葉には確かな重みがあった。胸にも重みがあった。
「――――けれど、だからこそ、それがお嬢様に向けられぬよう守ることはできます。ですから、辛い時は私たちを頼ってください。……約束です」
「やく、そく」
心理的な温もりと物理的な苦しさでごちゃまぜになりながらも、酸素を求める肺を抑え込んで返事を絞り出して、それに満足そうに、ありがとうございます、と微笑んだクロリナさんに。
私は穏やかに意識が消えていくのを感じながら、その言葉を決して忘れぬよう、震える手を“約束”のカタチにしてぷるぷると差し出した。
「あいる、びー、ばっく……」
「お、お嬢様……? ――――はっ!?」
謎の言語を発しながらぐったりと力尽きた私に気づいたクロリナさんが、やっとその拘束を解いてくれて。私は恐らくベルさんの傷を癒やした時の次くらいの必死さで空気を吸い込んだ。
「ぜー……ぜー、ひゅー……うぅ」
「また同じ過ちを……! 申し訳ありませんお嬢様、つい感極まってしまって……」
それからしばらく背中をさすってもらいながら、なんとか呼吸を整えて。
作業を再開した私は、またぷすり、ぷすり、と。
それから一時間ほどかけて、どうにかベルさんへのプレゼントを完成させたのだった。
「お水、ありがとうございました。ノクスベルさん」
「い、いえ、そんな! ありがとうございます」
態々お出ししたカップ一式を持って降りてきてくださったクロリナさんに慌てて頭を下げる。
どうやらアリス様との“ひみつ”の用は終わったらしい。
「では……私は戻ってもよろしいのでしょうか?」
「はい。お嬢様はノクスベルさんを待っています。渡したいものがあるみたいですね」
「渡したい、もの」
アリス様が、私に渡したいもの。
一体なんだろうか、見当も付かない。
クロリナさんは考え込むようにした私を見るとほんの少し悪戯気な笑みをして。
「ふふ。では、私はこれで……。お邪魔致しました」
「ぁ……いえ。また、お店にもお伺いさせていただきますね」
「はい。その際はまた、ご贔屓にしていただければ」
先導して玄関の扉を開け、外へ見送る。
少し歩いてからまた振り返ってお辞儀をしてくださったのにしっかりと返礼して、街の方へ歩いていったのを確認して扉を閉めた。
「渡したいもの……」
なんとか対応していたものの、頭の中にはもはやそのことしかなかった。
クロリナさんが少し急くようにお帰りになったのは気を使ってくれてのことだろう。
……私がアリス様のこととなれば途端にそれしか考えられなくなるのは、クロリナさんもよく知っているのだ。
「アリス様っ」
何はともあれ、アリス様が私を待っている。ならば急がない理由はない。
私は足早に部屋へ向かった。
途中階段ですれ違ったカルミアがびっくりしたように会釈したのに、若干雑に返してしまったのを苦笑されながら、三階まで一目散に上がって部屋の前へ。
「らららー、らっららーら、らららー」
扉の向こうで、アリス様が楽しそうに歌っているのが聞こえる。可愛い。
音を保存できるような魔法があればすぐに使っているところである。
「アリス様……? 入ってもよろしいですか?」
それはさておき。
コンコン、と歌の邪魔をしないように小さくノックしながら、声を掛ける。
すると歌が止まって、あい、と聞き慣れた愛らしいお返事、それに従って静かに扉を開けた。
……それにしても、いつも何を歌われているのだろうか?
歌って差し上げたことどころか、今まで一度も聞いたことのない、どこか壮大さを感じさせる美しい伸びのメロディだ。
もしかすれば、アリス様には音楽の才能もあるのかもしれない。
「失礼します。いえ、ただいま、ですね」
「えへ。おかえりなさい」
もしも尻尾が生えていれば全力で振ってそうな勢いで笑顔になったアリス様につられて、私の頬もゆるゆるである。
アリス様は最近、本当に表情がよく変わるようになった。
魔法検査の日くらいからだろうか。何かがきっかけになったらしい。
けれど相変わらず、時折疲労と怯えで塗り潰されたかのような濁った瞳になってしまわれることがある。アリス様の抱えておられる恐怖と不安が消える日は来るのだろうか。
……いや、いつか、きっと、私が消してみせるのだ。
「べるー」
「はい、アリス様」
私を窺うようにするアリス様は、何やらもじもじと後ろ手にものを隠しているような仕草をしていて。
そうだ、渡したいものがあると聞いて飛んできたんだった。
あくまでそれに気づかぬ風を装って、なんですか、と優しく尋ねた。
「あの、ね」
「はい」
「べる、もうすぐたんじょうび、でしょ」
「ぇ、ぁ……はい。そうですが……」
アリス様が切り出したのは予想外の言葉で、私は目を丸くした。
いや、確かに、私はもう少しで誕生日……正確には“ノクスベル”という名前をいただいた日、だけど。
物心付いた時には孤児であった私では、自分の生まれた日どころか、己の名前すら知る術がなかった。酒場ではいつも“そこの”だとか“お前”だとか呼ばれていて、てっきりそれが名前だと勘違いしていた頃もあったくらいだ。
だから、アリシア様が私を拾って、さらに名前まで付けてくださった日。
それが、私の誕生日になった。
……けれどそういえば、私はその日付さえもアリス様にお話した覚えはなかった。
ハッティリア様にでもお聞きしたのだろうか。
「だから……その、ちょっとはやい、けど」
するとアリス様は気恥ずかしそうに、頬をほんのり染めながら隠していたそれをゆっくり私に差し出して。
「――――おたんじょうび、おめでとっ」
ドクン、と、不意に胸が高鳴った。
私はそれをすぐに、受け取れなかった。
「べる……?」
不安気に目尻を垂れ下げたアリス様を、思いっきり。苦しいくらいに、抱き締めた。
「ふぎゅっ」
「アリス、さま……っ……」
衝撃で真っ白になった心に、徐々に色が戻っていく。
桃色のそれはとっても温かくて、なぜだか涙すら滲んだ。
「べ、べる、どしたの……?」
「わかりませんっ……でも、私は、私は今、とってもしあわせです、アリス様……!」
「わたしも、しあわせ、だよ」
いいこいいこ、と頭を撫でる小さな手が愛おしくて。
つい甘えてしまうような不思議な魅力に完全に理性を壊してしまう前に、なんとか顔を上げた。
「アリス様……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「よろこんでくれて、ありがと」
ああ、いけない。誰がこの溢れる想いを抑えられるというのか。
私は、もしかすれば今までの人生で一番喜んでいるかもしれなかった。
それでも必死に心を落ち着けて、その手に抱えられた一着の可愛らしいドロワーズをしっかりと受け取った。へにゃりとアリス様の表情が嬉しそうに緩んで、また抱き締めてしまいそうになる。
「アリス様が、作ってくださったんですか?」
「うん。……ほとんど、くろりなさん、だけど。わたしはれーすをえらんで、ぬいつけたの」
「では、クロリナさんにも感謝しなければなりませんね……」
ほう、とドロワーズを広げてまじまじと眺める。
確かに本体の方は一つの縺れもない。紛れもなくクロリナさんの仕事だ。
そして、そのレース。アリス様が選んで縫ってくださったという、花柄のレース。
私はその柄に、見覚えがあった。
「これは、アリス様の……」
するとアリス様はぱたぱたとベッドの方まで走っていって、ぬいぐるみを拾い上げるとそれに顔を埋めて、目のちょっと下までを隠してしまった。
その反応を見るに、やはり私の考えは正しいらしい。
――――これは、アリス様の穿かれているドロワーズのものと同じ柄だ。
ちょっぴり不器用に縫い付けられたそのレースに頬ずりしてしまいそうになるのを堪えていると、小さな声でポツリ、と。
聞き取れるか聞き取れないかくらいのそれを、私は当然聞き逃さなかった。
「……おそろいがいいって、いってたから」
ふるふる、と自分が震えるのがわかった。
きっとアリス様は、以前私の部屋に来て、桃色のシーツを見つけた時のことを言っているのだ。あの時『ももいろ?』と尋ねたのに私が、同じ色のものが良かったので、と答えたのを、健気にも覚えておられたのだ。あれから辛いことや大変なことがいくつもあったというのに、ほんの一言だけ交わしたその会話をずっと覚えておられたのだ。
愛らしいというか、いじらしいというか。なんと……。
「かわいい」
咎めてくれるミランダさんやハッティリア様は、今はいない。
ついに私は、それを言うのを堪えられなくなった。
みるみる顔を俯けたアリス様はぶんぶん首を横に振ると、唐突に私の手を握って。
「――――ぉお、おそといこっ……その、あやめみにいく……!」
急なお願いに首を傾げつつ、昼食を済ませてからはいかがですか、とお聞きしそうになって、けれどそれを呑み込む。
……なるほど、きっとこれは本来、渡してからしばらくして、落ち着いた後でお願いするつもりでおられたのだろう。慌てた様子で強引に話を変えようとするその様子は、明らかに照れ隠しのようだった。
もちろん、それを指摘するなんてことはせず。
いただいた大切なドロワーズを、きちんと棚に仕舞ってから。
私はそっと、その手を握り返して指を絡めた。
「畏まりました、アリス様?」
「……うぅ」
余計に赤くなったアリス様にクスリと微笑みを零してしまいながら、その手を引いて部屋を出る。さっきの巻き戻しのように、今度はアリス様と一緒に、ゆっくりと階段を下る。
そうして大階段に差し掛かったところでちょうど、広間で昼食を待たれているハッティリア様にカルミアがお盆を運んでくるのが見えて。
それとほぼ同時に階段の隣で扉が開くと、ミランダさんも顔を見せた。
こっちに気づいた三人はそれぞれ私とアリス様を順番に見て、自然と柔らかな表情をした。
「なんだ、広間で一緒に食べるか? アリス」
「でしたらすぐにご用意致しますよっ!」
「姫! ちょうどお部屋をお訪ねしようとしたところでした」
ふとアリス様を見ると、アリス様も私を見上げていた。
その瞳が何を言いたいのかは、すぐにわかった。
「……いえ。申し訳ありません。アリス様はメリーランド牧場の方で金狼……アヤメと一緒に、昼食を摂られたいようです」
「ごめんなさい」
こくこく、と隣でアリス様が頷きながら言った。
やはり、そういうことだったようだ。
それを聞くとハッティリア様とカルミアは顔を合わせて、ミランダさんは何やら焦ったようにバタバタと部屋へ戻っていった。
「そういうことなら、仕方ないな。一緒に食べるのは夜に回そう」
「すぐご用意致しますね! パンとチーズ、ええとそれから干し肉も……」
厨房へ駆けていったカルミアを見送りながら、階段を下りきる。
長卓の隣まで歩いていくと、アリス様はじっとハッティリア様を見つめて。
「どうした、アリス」
「どろわーずははかない、よね。べつのもの……んー」
「ドロワーズ……?」
ハッティリア様が不思議そうにしたその言葉の意味が私にはわかって、けれど黙っていることにした。私にそうされたように、きっとこれもまた、“ひみつ”でされるおつもりなのだろう。
「お待たせしましたアリス様ーっ!」
入っていって数分も経たぬうちに戻ってきたカルミアから昼食の入った籠を受け取ろうとして、視線を感じて。私はアリス様からぬいぐるみを預かった。
「ありがと」
「いえ」
私の代わりに昼食を受け取ったアリス様はそれを左手に抱えると満足そうに頬を緩めた。
準備が整ったのを確認して、玄関へ。するとバタンと音を立ててまた階段の隣の扉が開いた。
「姫ええぇぇッ! お待ちください、私も同伴しますっ!!」
「うん。みらもいっしょにいこ」
どうやら先ほど部屋へ戻ったのは外行きの準備をしに行っていたらしい。この頃ミランダさんもなかなか、アリス様のことを察するのがうまくなってきたようだった。
「では」
コクリと頷きを返すと、ミランダさんが扉を開いて。
けれどアリス様は外へ出る前に、もう一度振り返って。
「ぇと、その……ちゃんと、いってきますって、したくて」
はっ、と。
止まった刹那の時間の中。
私たちが感じたのは、きっとみんな同じもので。
「アリス様……」
「うぅ?」
ああ、ああ。
どうしてか、たくさんの日々が蘇った。
……あの日。
お生まれになったアリス様を、アリシア様の震える腕の中から抱き上げた、あの日。
息も絶え絶えに、アリシア様は仰った。
――――『どうか、この娘を』
大切な人が……私にとって、紛れもなく母であった彼女が、目の前で儚く散りゆくその瞬間。
私は、託されたのだ。永遠に咲き誇るアイリスの花とともに。
――――『しあわせにしてあげて』
どうすれば、しあわせか。何が、しあわせか。
私は考えていた。あの日のアリシア様と同じように。
あの日のアリス様と、同じように。
――――『すこし、ずつ。ちょっと、ずつ。……べるも、てつだってくれる?』
アリス様は、いばらの道を選ばれた。
そこにはきっと、いくつもの試練と涙が待ち構えている。
「どうしたの、べる」
「……いえ、そうですね」
しかし、歩いている。
アリス様は歩いている。
幼い足で、儚い瞳で。
自分の力で、強い意志で。
「ずっと、おそばにいますからね」
不意に、雲間から光が射した。
眩くも温かいそれは、今。
尊き一歩を踏み出されたアリス様を、世界が祝福しているようで。
「……うん。べると、いっしょなら」
アリス様はマリアーナの外で、何を見られるのだろう。
アリス様は王都学園で、何を学ばれるのだろう。
アリス様はこの世界で、どんな物語を紡がれるのだろう。
……決して。
決して、笑顔のみで彩られたお話ではないだろう。
けれど、私はついていく。
ずっと、隣をついていく。
アリス様と一緒なら、きっと。
「行きましょうか、アリス様」
「うんっ。て、つなご、べる」
「はい、もちろんです」
「あー!! 姫、私とも繋ぎましょう! 繋がせてください!」
「う、うん。みらも、いっしょに」
「……ふふ。ミランダさんったら、まったく」
ぎゅっと、固く繋がれた愛しい手。
その歩幅に合わせて、一歩。扉の外へ。
……アリシア様。見ておられますか。
アリス様は、こんなに素敵な笑顔をされるようになりましたよ。
「とおさま、かるみあ、みんな」
そして私は、空を見た。
「――――いってきますっ!」
「――――いってらっしゃい、アリス!」
煌めく白銀に照らされ、どこまでも続く。
この鮮やかな、大空を。
これにて第二章完結となります。
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