第4話 とある父親の苦悩
固く閉ざされた、けれどなんの変哲もない木製のドアを前に、すぅ、と。もう何度目かわからぬ深呼吸。それでも落ち着かなくて彷徨わせた視線が、そばに控える黒髪のメイドの瞳とかち合った。
もうかれこれ十数分はこの一連の動作を繰り返していた。朝食を片付け終わった彼女に連れられ、三階に上がって娘、アリスの部屋の前まで来たはいいものの、今更どんな顔をして入ればいいのかがどうも掴めずにいる。
なにせ、四つを数えた可愛い盛りの娘のはずだというのに、幾度か寝姿を覗いただけで部屋に入ったことはおろか、まともに話をしたことすらないのだから。
「ハッティリア様……」
「……あぁ、わかってる、ベル」
ベルこと、ノクスベル。
彼女は十数年前、今は亡き妻、アリシアに館の前で行き倒れているところを拾われてここに来た。その後従者としての教育を施され館の住人になったという、少し特殊な縁がある。
そしてその時の恩に報いたい、と奉仕に全力な彼女。その仕事ぶりはまさに完璧といった様。教育係という名の実質の育て親であるアリシアに似たのか、その懐の深さもあって他の従者たちからの人望も厚い。今では立派な従者長となって、他の従者たちを指揮する立場にいる。
そんな家族同然の彼女だから、甘えてしまったのだろうか。
アリシアが出産による衰弱で亡くなって、私は絶望に暮れた。本来なら歓迎すべき娘の誕生は、私にとって忘れ難いトラウマとなってしまった。
妻の死を受け入れることができず、逃げるように毎日毎日領主の仕事に没頭した。アリスの育児を全てベルに任せて。
最初はただただ悲しみに明け暮れた。仕事をしては妻を思い出し、泣いて。心配してちょくちょく館を訪れてくれる腐れ縁の旧友を尻目に酒に溺れて酔いが醒めればまた泣いて。そんな自堕落で破滅的で、刹那的な日々を過ごした。
けれど数年が経って、妻の死にも少しずつ整理がついていく。時間はどんな悲しみをも薄く和らげてくれる。そうして少し心に余裕を持てるようになって、今度は罪悪感に蝕まれた。
今まで娘を放ったらかしにしていた事実が、目の前の現実として重くのしかかった。
何度も、会おうとはした。面と向かって、話をしようとした。謝りたかった。けれど、それ以上に、どうしようもなく怖かった。ここまで放ったらかしにしていた親のことなど、きっと憎んでいるんじゃないか。少なくとも、いい感情は抱いていないはずだ。
いや、ずっと部屋の中に箱入りという環境で過ごしてきたのだ。もしかすれば親という存在の意味もよくわかっていない可能性もあった。数日前に、アリスが寂しそうにおや、おや、と呟いていたというのをベルから聞いた時は、胸が締め付けられるような思いとともに、妙な安心感も抱いたものだ。
しかしそれらベルから聞く娘の様子が、その恐怖と罪悪感を加速させた。何しろ、可能な限りわがままを叶えてやりたいから、何か欲しがったりしたら言ってくれとベルに伝えているのだが、当の本人が何も求めてこないというのだ。
普通、このくらいの子供といえばわがままなものである。あれが欲しい、これが欲しい。あれしたい、これをして。そんな年頃の娘はところが、ベッドからほとんど動かず、いつもぬいぐるみを抱いてぼうっと絵本を眺めているらしい。
確かに一歳に満たぬ頃から夜泣きをほとんどしない、異常に大人しい、などと聞いていたが、四つを迎えた今でも、ずっとそうだという。成長と体力の観点から一応部屋の中で軽く運動をさせてはいるようだが、問題はそこではない。
そして、それは私が原因なのではないか。私が、ちゃんと愛情を注いでやらなかったからそんな風に育ってしまっているのではないか。そんな疑念が、頭にこびりついて離れない。いや、実際無関係ではないのだろう。
先刻ついに見かねたベルに諭され、会って話す決心が付いたのはいい。
だが、あの子は今更こんな私を、父親として認めてくれるのだろうか。
「ハッティリア様。あんまり待たせてしまうと、それこそ拗ねてしまわれますよ?」
「い、いや……あぁ。そうだ、な……」
「……私ではアリス様の心中を全て把握することは適いませんが、少なくとも先ほど、ハッティリア様が会いにいらっしゃると伝えて、嫌がっているようなところは見受けられませんでした。少し混乱は、されるかもしれませんが……」
当たり前だ。今まで一度も、果ては最近まで存在するのかもはっきり知らなかった父親が急に会いに来るというのだ。混乱もしよう。
けれど、行かねばなるまい。少なくとも、今までの思いを全て話し、謝らなければならない。
そうしなければアリスは、そしてきっと私も、先に進めないのだ。
重い腕を上げて、ドアノブを握った。
「入る、ぞ……」
緊張しきった固い声を投げつつ、ゆっくりとノブを回す。
開いていく扉の隙間に視線を置きながら、その中へ一歩、踏み出した。
「アリス様、失礼致します」
「……ぁぃ」
何やら扉の前で固まっていた気配が、聞き慣れない、低めの声とともにようやく扉を越えると、続いた鈴のような声にベルさんの姿も認める。
入ってきたのは若干、いやかなり疲れた雰囲気の、白髪交じりの黒髪の男性。見た目的には四十歳くらいだろうか。
その割に白髪が多いのは、その疲れ顔もあって、きっと苦労をしてきたんだろうと乗り越えてきた荒波の大きさを思わせる。
……たぶん、彼が父なのだろう。どことなく顔のパーツが似ているし、ベルさんの付き従うような様子もそれを確信させる。というか、朝食を終えたら父が来ると言っていたのだから、考えるまでもない。
私の記憶の限り初めての対面となる彼は緊張しているのか、あるいはどんな声を掛ければいいのか戸惑っているのか。
ベルさんは何か話を切り出すでもなく、閉じた扉のすぐ横で静かに私と彼を見守っていた。
あんまりじろじろ見られても落ち着かなかろうということで極力いつも通りを振る舞う。ぬいぐるみを抱いて、片手で絵本をめくる。
めくりながら、彼の言葉を待った。
「……すまない」
一言目は、謝罪だった。
腰から折って下げた頭とその苦しげな声音からは、様々な想いが読み取れる。
後悔。哀憫。混乱。そして、自責。
そしてその全てがごちゃまぜになって彼の胸中を巡っているのだろう。必死になって次の言葉を探す姿は、むしろ叱られるのを待つ子供だ。今の彼には、私が罪と負の象徴となって見えているのかもしれない。
私がもしも前世から続く記憶と自我がある“私”でなく、正しくこの世界に生まれ落ちていたなら。疑問か激情か、あるいは誰ですか、なんて無関心な一言をぶつけていたのだろうか。
だが私は私であるために、彼にそうした憎しみなどを抱く気にはなれなかった。
自分一人が生きていくだけで大変なのだ。愛する人を突然失って、しかもその原因が娘の出産で衰弱したからだ、なんてことになった当人の気持ちは想像すらもできない。
子を産んだからといって、自動的に親という存在に進化するわけではないのだ。
「……アリス様……、」
沈黙を見かねて助け舟を出そうとしたベルさんが、けれどオールを見失う。
彼女としては当然、和解を望んでいるのだろう。だから私の言葉を促そうとしたし、だからその先が言えなかった。もしもそれを肯定されてしまえば、そこで全てが終わってしまうからだ。
いつまでもこの空気でいると私も押しつぶされそうだ。私の使える限りの少ない語彙で、精一杯伝えよう。憎んでもなければ悲しんでもいないと。知っている限りのこの世界の言葉を巡らせて巡らせて――――
「――――だい、じょうぶ」
ダメだこれ。
本格的に言葉を学ばなくては。ベルさんとはコミュケーションが取れているからと絵本で見知った程度で妥協していたのがいけなかった。さすがにちょっと、言葉足らず過ぎる。
「アリス様……」
やめてください。そんな残念な子を見るような目で見ないでください。がんばったんです。でも変換時にちゃんと伝わりそうな言葉がこれしかなかったんです。
……もちろん、ベルさんとしてはそんなつもりじゃないのだろうけど。
と、拳を握り締めて俯いてしまった彼が今度ははっきりと、私にその同じ金色の瞳を向けた。
「……っ、……すまない……。――――すまない、アリスっ……! お前が生まれてこの方、私はおおよそ胸を張って父親と言えるるようなことはしてこなかった! ベルたちメイドに全てを任せ、お前と話そうともしなかった! お前のその、この世全てを嘆くような目を見て、私は、……俺は……っ……! ようやく、気がついた……」
待ってください違います。自分の言語未習得具合に絶望してたんです。決してそんな前世の最期みたいな目をしたつもりはありません。
「あの、ね」
「――――間違っていた! ……全部、間違っていた……。アリシアを、お前の母さんを亡くしたからこそ、俺はお前を全力で愛するべきだった! 彼女を愛していたからこそ、最後に産み落としてくれたお前を、幸せにするべきだったんだ……」
私は十分幸せです。多少の不便はあれど、美人のメイドさんにお世話をされて、何もしなくても食事と安息が確保される生活。
働いて寝る、いや働くだけだった前世からすれば、まるで夢のような話。ほんの少し部屋の外に出てみたい気持ちはあるけれど、正直このままずっと引きこもり生活がしたいです。
だから、だからどうか。
「あの、」
「――――ああアリス! ……すまない、本当にすまない。……俺にできることならなんでもしよう……今更父親だと認めてくれなんて言わない、許せとも言わない。だが、せめて……、せめて、お前が幸せになる手助けをさせてくれ。――――愛していると、言わせてくれ……どうか、」
どうか。
「ぁ、」
「頼む――――っ!」
頼むから話を聞いてください、おとうさま……。
「アリス――――うぅっ!?」
「アリス様……!?」
まるでこちらの意思が伝わらず、着いていけぬまま強制展開されていく悲劇的ホームドラマ。ついに私の涙腺が癇癪を起こす。お願いだからちょっと待ってくれと。
「ふええぇん……」
相変わらず内・外、ともにうまく制御の効かぬ体は見た目相応に泣きだしてしまった。幼さに自我が引っ張られる。理性はあるのに、感情が言うことをきかない。
「アリス様が、泣いた……」
私はクララか。
反射的に出そうになった日本語は幸い嗚咽に消えた。だが確かに、アリスとなってからここまでの感情の発露はしたことがなかったかもしれない。
そして、絶えず涙が零れる理由は、きっとそれだけではない。
そもそもが働き続けた果ての死。そして自我を持ったまま別の世界で生まれ落ちる、なんて異常事態。もしかしなくても、知らず知らずの内に色々と溜まっていたのだろう。
「うぅ、うっ、……」
隠れていた、隠していた弱い自分が、表に出たのだ。無限に溢れ出す悲しみと虚しさが、そう思わせてならない。感情が言うことをきかないのではない。きっとこれが正しい情緒なのだろう。
そうやって、ひたすら泣き声を上げる私を、誰かが包み込んだ。
「――――アリ、ス……」
ベルさんとは違う、不器用な抱擁。頭を寄せる手は震えてしまっているし、寄せた先の胸はやたらゴツゴツしている。お世辞にもリラックスできるとは言い難い。
――――けれど、どうしてだろう?
「本当に、悪かった」
今はそれが、とても心地いい。とても、暖かい。
抱いていた白くまのぬいぐるみは、いつの間にか足元に転がっていた。
その顔が微笑んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。
「ぅーー、ぅーーっ……」
「すまない、すまない……」
ああ、そうか。
なぜこんなにも安心するのか。
その答えは目の前にあった。
「……、おとぉ、さま」
私が、彼の。
「……っ、……あぁ、ああ! 父さんだ! アリス……」
――――父の、“娘”だからだ。
前世でも、親の愛などわからなかった。物心がついた頃には私も、彼らも、働き詰めで。
気がついたらひとり。ひと時の団欒も、一つの思い出も、ないままに。
今日を生き延びるために必死で汗を流した。そしてやがて流れるものは血となり、命となり。
「……ありがとう、アリス。こんな私を、父と呼んでくれて……」
「アリス様、ハッティリア様っ……! あぁ、本当に、ほんとうに良かった……」
私は、有栖は、アリスは、ようやく見つけたのだ。
「――――失礼致します。おまるの交換に参りまし……たっ……?」
そう、おまるの交換を……。
まず、扉を開いたメイドが固まった。次に、泣き顔を見られた父が固まった。それを追って、ベルさんが般若のような表情になった。私はきっと、死んだ目をしていた。
「……今日は昼休憩なしです」
「そ、そんなぁ……」
力なく崩れ落ちる赤髪のメイドさんと、説教を始めたベルさん。
それをBGMに未だにフリーズしたままの父の腕から抜け出しながら、私はとりあえずおむつを確かめた。だいじょうぶ、もれてない。
――――乾いた涙のあとの先。ほんの少しだけ唇が弧を描いたのを、抱き直したぬいぐるみ、その黒い瞳だけが映していた。
次回更新は本日正午に三話分です。