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ノブリス・オブリージュ ~引きこもり令嬢が何故聖女と呼ばれたか  作者: 剥製ありす
第二章 貴族令嬢の彼女がいかにして民の光となったか
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第15話 大空

「らん、らん、ららん」

「ふふ、楽しいですか?」

「うんっ」


 見渡す限りの草原の中、私は上機嫌に歩みを弾ませていた。視界の遥か果てまで続く広大な青、一面に咲き誇る花と活力溢れる緑がドレスの下で脛を擽る。

 そこは山と湖に挟まれた道を湖の方へ外れて、さらにしばらく真っ直ぐ進んだところにあった。


「あれが……?」

「はい、アリス様。一番手前がマリアン畑です」

「まりあんっ!」


 さらに湖の近く、そこに一軒の小屋のような建物があった。そこを中心にかなり広い空間が柵で囲まれていて、その中もまたいくつかに区切られている。畑になっている場所がほとんどだが、一部動物の姿も見えた。

 なんでもあそこはメリーランド農園といって、マリアーナで唯一牧場を有する農用地らしい。


「農園に来るのは久しぶりですね」


 立ち止まって話す私とベルさんに、追いついたカルミアさんが並んで言った。

 まあ、態々ここまで来るというのは、今回のような散策目的か、何か動物などを直接受け渡しする時くらいしかないのだろう。


「おっきいね」


 農園の向こう、改めて湖に目が行った私はその大きさに圧倒される。もはや、小さな海といった風だった。湖を挟んで反対側、遠さで霞んで見えるそこには鬱蒼とした森が広がっていて、確かにあれを通り抜けるのは難しそうだった。あの街を通る一本道以外はとても険しいというのは、本当にそうらしい。


「はい、とってもとってもおっきいです」

「すごい」


 ぼーっと、三人でその雄大な景色を眺める。時々草原を走る風が頬にかかる髪を揺らして、とっても、心地がいい。


「風が気持ちいいですね、アリス様っ」

「うん、とっても」


 同じように赤い髪をふわりと流すカルミアさんに同意を返して、湖に奪われていた目線を戻した。気づいたベルさんが私を見て、目で問いかける。


「まりあん、いくー」

「畏まりました」


 こくこく頷きながら応えたのに、では、と差し出された手を握って、マリアン畑まで歩いていく。

 不思議とマリアンの香りが鼻先を漂って、舌が味を思い出す。だらしなく涎を垂らしてしまわないように喉に押し返した。


「これがマリアンの……」

「まりあん!」


 ベルさんが止まって何か言いかけたのが届く前に、柵のすぐそばまで駆け寄った。


「わわ、アリス様ーっ! 危ないですよ!」

「あら、ふふ」


 後ろからカルミアさんが慌てて追ってくるのにも構わず身を乗り出そうとして、柵の高さに身長が明らかに足りないのに絶望する。しかし、そこに光明が差した。

 ……上から覗けなくても、柵の隙間から見ればいいのだ!


「アリス様。乗り出すのは危ないですから、おやめくださいね?」

「う……ごめんなさい」

「はい。いいこです」


 そうして柵の間から覗こうとして、こっちに向かいながら諭すベルさんに振り返る。

 カルミアさんも困った顔をしていて、加えてまだまだ病み上がりだったことを思い出して素直に謝る。少し、はしゃぎ過ぎた。

 でも、例えるなら太古より眠る幻の秘宝を見つけた海賊の気持ちなのである。湖の波打つ様が余計にそれを盛り上げた。


「きゃぷてん、まりあん!」


 いざ船出、とばかり瞳を煌めかせて、旗の代わりに相棒を掲げようとしたところで背中の視線を思い出した。案の定、突如ぬいぐるみを天に突き上げようとした私を不思議そうに見守っていたベルさん。


「アリス様?」

「……な、なんでもない」


 私は誤魔化すようにそそくさと相棒を胸に抱き戻した。そういえば、ベルさんははぐれ者が集まるような酒場で働いていたと言っていたが、やっぱりそういう、賊みたいなのはいるのだろうか。

 海賊でなくとも、盗賊に準ずる者。何気なしにそれを尋ねようとして、けれど思い留まる。

 嫌になって逃げ出したというくらいなのだから、酒場のことはベルさんにとってはきっとあまり話したくない苦い記憶なのだ。それを想起させるような質問はやめておこう。


「まりあん、たくさん」


 そんなことより。

 私は目の前の桃源郷に意識を戻した。

 ああ、まだ小さいマリアンがこんなにたくさん……これからきっと立派に育っていくのだろう。


「アリス様……?」

「ダメみたいですね、夢中です」

「ふふ。本当に、マリアンがお好きね」

「嫉妬ですか? マム」

「そ、そんなのじゃないわよっ……」

「冗談です。でもその反応は……?」

「違うったら!」


 欲しい。一つでいいから持って帰って部屋で育てたい。毎日愛でたい。

 いや、まあ、すぐに枯れてしまうのがオチな上に、ベルさんたちを困らせるのであくまで願望に過ぎないけれど。


「まりあん……」


 ほう、と熱に浮かされたような気分にすらなる。きっと周りからはさぞかし変人に見えていることだろう。けれどマリアン、マリアンなのだ。今この眼前に広がるのはあのマリアンの畑なのだ。

 これに興奮しない“マリアニスト”はいまい。因みにこれは私の造語である。


「アリス様、目がちょっと危ないです」

「あい」


 まるで取り憑かれたような、その食い入る目線をベルさんに(とが)められた。心配されそうなのでそろそろ気持ちを抑えることにしよう。

 自分でも若干暴走気味だったのは否めないが、それくらい感激したのだ。

 ……だってこんな、人工でない本物の農園なんて初めて見たのだ。

 さらにそれが大好物のマリアンの畑とあらば、感極まって言動がおかしくもなりようというものである。


「ぁ、えと……」


 そうだ、すっかりマリアンに気を取られて頭から抜け落ちていたが、本来の目的はベルさんが母に見せてもらったという景色を見るためなのだ。

 そうしていつものごとく、ベルさんは視線だけで私の言いたいことを全て理解してくれて。


「ちょうど、ここで寝転がって見たんです」

「そっか」


 なんの話ですか、と戸惑うカルミアさんを置いて、ベルさんは柵から少し離れて腰を下ろした。

 その隣についていって。昨日ベルさんの言っていた通りに寝転がろうとして、手招きされる。


「綺麗な白銀の髪が土で汚れてしまうのは忍びないですから、私のお膝へどうぞ」

「ありがと」


 どうやら、髪が地面に着かぬように膝枕をしてくれるらしい。確かに服に多少土が付いた程度なら(はた)くなりすれば済む話だが、髪に絡まってしまうとなかなか取りにくいかも。


「え、えっと……では、私も?」


 何やらくつろぎだした私とベルさんを見てカルミアさんも、首を傾げながらも続いた。

 そうして三人でゆったりできるのがなんだか無性に嬉しくて。


「いっしょ」

「はい、一緒ですよアリス様!」


 カルミアさんのその屈託のない微笑みについつい頬が緩んでしまって、ベルさんに髪を撫でられながら。

 じっと、透き通るような、空を見た。


「……ほへー」


 その情景をなんと呼べば良いのか。

 ただただ、広い。広くて、大きい。

 どこまでも続く蒼の中を、いくつもの真っ白の雲が自由に泳いでいて。

 眩しくてとても目を向けられない太陽は、その全てを優しく照らしていた。


「どう、ですか……?」


 ベルさんが見せたかったもの。

 そして、きっときっと、かあさまが私に見せたかったもの。

 悩みに淀む心が、スッキリと解れていくのがわかった。

 一緒に空を眺めながら、そう尋ねたベルさんの声音はちょっぴり不安気。


「おっきい、ね」

「はいっ、とってもとっても、おっきいです!」


 さっきしたような気のする会話を繰り返して、満足気な笑顔になったベルさんに安らいだ。

 膝がとても柔らかい。むに。

 そのまま空を眺めて、数分ほど沈黙を挟んで。

 私のお腹が小さく鳴ったのに、カルミアさんが傍らの籠を開けた。


「アリス様ー、そろそろ昼食にしますか?」

「……うん」


 相棒で顔を隠しながら、それに頷いた。ぐい、と体を起こして座る。ベルさんの膝から離れるのはちょっぴり名残惜しかったが、食事をするのに寝転がったままなわけにもいかない。


「パンとチーズ、それに干したお肉と、お水です」


 カルミアさんは、頬の赤い私にクスリと一つだけ微笑むと、籠の中身を見せながら水筒らしき木の筒からカップに水を注いだ。


「ちーず」

「はい。好き嫌いが分かれるのでお出ししていませんでしたが、この機会に持ってきてみました」


 チーズ。チーズか。そういえば、前世でもそう呼ばれている食べ物があった。

 もちろん、これもついぞ口にすることはなかったのだが。というか栄養ゼリー以外の味をほとんど知らない。

 今考えてみれば、アレに慣れていた時点でとっくに味覚は麻痺していたのだろう。比較してチーズとやらの方がマズいというようなことはきっとないはず。

 初めて口にした“本物”の味の感動は、今でも鮮明に思い出せるのだから。


「ちーずたべる」

「はい、アリス様、あーん……冗談ですマム。そんな怖い目をしないでください」

「怖い目なんてしてません」


 上下をあまり感じさせない二人の仲の良いやり取りに和む。確かに、ベルさんはカルミアさんが私にあーんをした一瞬、固まったような気がした。

 普段当たり前のようにしていた分、いざその役目が他人に移ると落ち着かないのかもしれない。

 かくいう私もあーんをされるのには慣れているはずなのに、カルミアさんにされるのはなぜだか恥ずかしかった。カルミアさんがどうというわけではなく、ベルさんでないことに違和感を覚えた時点で、すっかり甘えきっているのを改めて自覚した。


「こほん。……アリス様、あーん」

「あーん」


 だからといって、やめるわけでもないのだが。

 反射的に開けた口にチーズが一欠片添えられて、恐る恐る咥えた。


「はむ」


 思ったより柔らかいそれを食んだ瞬間、濃厚で強い匂いを伴ったクリーミーな味わいが隅々まで広がって、なるほどこれはクセがあった。好き嫌いはありそうだ。

 でも、私はというと。


「おいしい!」


 とても気に入った。(ほの)かなしょっぱさが、その濃い香りをまた飽くことのないものに仕上げていて、次が欲しくなる。マリアンには及ばずとも、好物の一つになりそうだった。


「でも、のどかわくね」

「ふふ、そうですね」


 チーズを気に入ったのが嬉しかったのか、笑顔のカルミアさんがカップを差し出してくれる。落とさないように両手で受け取って傾け、喉を潤す。


「んくっ……ふぁ」


 続いて千切られたパンを含もうと口を開けて――――。


「おぉ? 誰かと思えば、嬢ちゃんじゃねえか!」

「あー……ん?」


 不意に畑の奥からやってきた声に口を閉じた。

 くるんと首を回して、柵の隙間からその主を窺う。


「こんにちは、ハングロッテさん。少し散歩に参りまして……お邪魔しております」

「ああ、ノクスベルさんにカルミアさん。毎度うちのもんを買ってくれて、ありがとう」

「いつもお世話になっております」

「いやいや、そいつは俺のセリフでさぁ!」


 柵を乗り越えながら礼をした彼に、慣れたように挨拶をするベルさんとカルミアさん。

 嬢ちゃん、とその口ぶりからして私のことも知っているようで、誰だっけと記憶を探ればすぐに思い出した。その気さくな、人の良い雰囲気に口調。あの市場の、マリアンを安く売ってくれた店主のおじさんだ。


「まりあにすと……」


 いつも私の口にするマリアンは大体が彼の育てたものらしい。

 あの時も、最高のマリアンを選んでくれた。

 ……そう、つまり、彼はプロのマリアニスト。師匠とでも呼ぶべき存在!

 私はすぐさま立ち上がると、彼に駆け寄った。


「ししょー!」

「お、おう……? どうした、嬢ちゃん」

「いつも、おいしいまりあん、ありがとうございます」

「はは、こりゃまた嬉しいこと言ってくれるじゃねえか。そんなにマリアンが好きか!」

「すき!」

「よぅし、待ってろ、倉庫から良いのを持ってきてやる!」

「ほんと!?」

「嬢ちゃんなら特別だ。ノクスベルさんがいつも買ってくださんのも、嬢ちゃんのおかげみたいだしな!」


 不器用な敬語を織り交ぜながらそう言った師匠は、何やらマリアンをくれるという。……そしてマリアンの出荷先が主に私の胃袋だというのも、とっくに見抜かれていたらしい。


「……アリス様は、交渉上手ですね」

「ハングロッテさんがあそこまで上機嫌なの、初めて見ました」


 勢いが強い会話を繰り広げる私と師匠についていけず、困ったようにしていたベルさんとカルミアさんが、何やら後ろで話しているのに、振り返ろうと――――。


「ぁ……?」


 ――――草原の向こうから、牙を剥き出しにした灰色の獣が猛然と走ってくるのを見た。


「おお、かみ?」


 それは絶滅した動物として知識にあったものに似ていて、けれど。初めて見た喜びを抱く暇などはなかった。

 狼の瞳は、マリアンを取りに行くため、一人私たちから離れた場所にいた師匠を捉えていて。


「――――あぶないっ!」


 気づけば私は、その間へ割り込むように、走りだしていた。


次回更新は本日18時です。

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