第14話 想いを絆いで
「学園、か」
一昨日、現在マリアーナの強化警備を担当してくれている白百合騎士団と今後についてを話し合って、館に帰宅した私は二つの驚きに襲われた。まず一つは出迎えた顔に義父上がいたこと。そしてもう一つは、その用がアリスの学園入学の話だったことだ。
アリスのことや領内の治安維持で手一杯だったために、すっかり忘れてしまっていたが、そういえば一週間くらい前に義父上から近日そちらを訪れるという旨の手紙が届いていた。本来はしっかり事前にベルやアリスに伝えて、歓迎の用意を整えておくべきことだというのに、顔を見てから思い出したのだから弁解の余地もない。
予想外に面食らって、次にやってしまったと悔やむ私を、義父上は少しだけ不満を織り交ぜながらも労わってくれた。まあ、不満といってもほとんど愚痴に近いようなもので、なんでもアリスが自分を認識していなかったのが相当悲しかったとのこと。
終始平謝りになった私を苦笑しながら、ベルに連れられて部屋に戻っていくアリスを見届けて、そうして切り出されたのが学園の話だ。
市場での事件の際にアリスが魔法を発現させたのを聞きつけたらしい。アリスの魔法については口外しないように領内に規制を敷いたはずだが……まあ、人の噂は馬より早く、風のようにすり抜けて広まってしまうものだ。それにしても……だが。
「いや」
むしろ義父上は、そうでなければいけないのだろう。王国内部の、ましてや帝国との中立地帯で起こった殺傷事件の内容など、立場上誰よりも迅速に詳細も含めて掴んでおかなければならないのだ。私の手慣れぬ対応程度で封ぜられていては存在意義を問われる。
「さて、どうしたものか」
それはさておき、問題はアリスの学園入学である。もちろん最低入学資格は六歳以上であるから、早くても来年の話ではある。だが、もしも本当に入学するなら、準備を整えるのにはギリギリの期間と考えるべきだ。
資金は騎士時代の恩賞や給金でどうとでもなるが、何よりアリスの心が問題だった。お世辞にも、進んで外に出たがっているとは言い難い。
積極的に外へ慣れようとしている様子は痛いほど伝わってくるが、やはり事件のことが傷になっているようだ。魔法検査の際も市場を通る時はかなり怯えた様子だったと聞く。
そんな状態で、学園に送り出していいのだろうか。
「うーむ……」
学園――――〝ルーネリア王立魔法学園〟へ入学するとなると、当然館から通学というわけにはいかない。なにせ、ここから王都までは馬で飛ばしても三日はかかるのだ。休暇などでの帰宅を除き、卒業までのほとんどの時間を向こう、学園の寮で過ごすことになるだろう。
「だが」
しかしもちろんそこは義父上も考えてくれていて、寮にはなるが、個室かつ一人二人なら同伴の許可をも取り付けてくれたらしい。同伴など普通、王族に連なるお方が通う際に騎士と侍従が特例として認められるくらいのことである。義父上もかなり無理を通したものだ。
そして私が悩んでいるのも、それがあるからだった。アリス一人でなら迷うこともなく、今は、と断っていたところだが、同伴があるとなるとまた話は違う。
「抜けても、どうにかなることはなる」
同伴させるなら、考えるまでもなくベルになるだろう。父親としては寂しいが、アリスが一番信頼を置いているのはベルだ。従者長が長期間留守にするともなれば館の業務の割り振りにも影響が出るが、逆に言えばそれだけのことでもあった。
そして、もう一人はミランダだろう。親衛騎士がそばに付いていかぬわけにはいかないし、アリスも彼女のことが好きなようだった。
「条件はこの上ない、が」
やはり、その好条件全てを、しかし保留に抑えているのは、アリスの様子だった。もしも学園という環境にうまく適応できず、さらにその傷を広げてしまったらどうすればいい。それこそ、もう取り返しがつかないかもしれないのだ。
「ああ、私はどうすればいい、アリシア……」
つい、こんな時、冷静に正確に、そして果敢に決断のできた妻がいてくれればと泣き言を漏らしてしまう。尋ねるように薬指の指輪を撫でる。
声は返ってこなかった。
だが。
――――『全てがあなたを中心に回るわけではないのよ』
「……そうだな、アリシア」
いつか、とある戦場で伏兵の攻撃を受け、撤退の殿を務めた部下を死なせてしまった時のことだ。
なぜ自分などのために、と自責に塞ぎ込む私に、アリシアはそう言った。
彼は、彼の人生を生きたのだと。彼がそこで命を捧げると決め、その決意のために剣を取ったのだと。それを自分のせいだと悔いるのは、何よりの侮辱だと、そう言ったのだ。
……誰かの人生の主役は、いつだってその者自身。
できる限りのことをしよう。注げるだけの愛情を注ごう。進む道を遮る壁があるなら力を貸し、降り注ぐ矢があるなら盾となろう。
だが、その行く道を決めるのは私であってはならないのだ。
「よし」
なに、うまくいかず、傷を負って泣いて戻ってきた時には、その傷が治るまで、また笑顔を見せるまでいくらでも支えてやろう。
何度でもやり直せばいい。一生部屋にいたっていい。
「ひとまず、資金をまとめておくか」
アリスの人生を決めるのは、アリスだ。
「うーん……」
「どうされましたか、アリス様」
ベッドの上に寝転がってぼーっと、何やら書きものをしているベルさんを眺めながら唸った。悩んでいるのはもちろん、学園のことだ。突然の祖父との対面で混乱は十分なのに、そこに学園で学んでみないかと持ちかけられたのだから、もう頭はごちゃごちゃである。どうしたいかが、クリアに見えてこない。
「……学園のことですか?」
「うん」
返事がないのに振り返って、そうして頭を捻る私を見るとベルさんはそう言って、一度ペンを置いて机を立つと隣へ座った。
「アリス様は、魔法やその他たくさんのことを学ぶのに興味がありますか?」
「うん」
興味があるかと聞かれれば、それは間違いない。この世界のことも、魔法のことももっと知りたいのだ。それから未だ残る外への不安の克服という意味でも、そういった場所で過ごすのはきっと悪い影響ではない。もちろん、孤立しなければの話ではあるが。
「館を離れるのは怖いですか?」
「んー……」
怖くないと言えば嘘になる。ほんの最近までずっと館の中が私の世界だったのだ。
未知へ飛び出す時には、いつも不安は伴うものである。
けれど小さく頷いた私の髪を優しく撫でる手はとっても温かくて、やっぱりベルさんが隣にいればきっと私はどこへだって行けるのだ。
「べるといっしょなら、だいじょうぶ」
「そうですか。私もアリス様の隣にいる時が一番安心します」
「えへ」
微笑むベルさんの言葉が嬉しくて、私は自然とはにかんだ。
するとベルさんはなぜだか胸を押さえて、奇声を漏らす。
「ぐぅっ……⁉」
「べる?」
「なんでもありません」
心なしかキリッと凛々しい顔つきになったのにぽうっと見蕩れてしまいそうになって、ぶんぶんと首を振った。
「アリス様?」
「なんでもありません」
そうしてまったく同じやり取りを逆転して繰り広げたのに、どちらからともなくクスリと笑みが零れる。
私は、この上なくリラックスしていた。先ほどまで混乱の極地にあった頭はすっかり落ち着いて、冷静にこの瞬間を感じている。
はっ、と。今更に気づいた私は身を起こし、ベルさんを見上げた。
「……ありがと」
「なんのことでしょう?」
ベルさんはとぼけたように両の掌を肩の横で広げると、その気遣いに何も言えないでいる私を真正面からふわりと抱き締めた。艶黒のサイドテールが耳元を撫でて擽ったい。
「おちつく」
「私も落ち着きます、アリス様」
背中の傷に触れぬようにか、その手は腰の辺りで結ばれていて。ふと顔を上げると双の黒曜が優しく見下ろしていて、なぜだかそれにドキリと胸が高鳴った。
「べ、べる……」
「なんでしょう」
じぃ、っと。刹那も私から視線を逸らさずにいるその瞳に吸い込まれていくような感覚に陥って、思わず顔を俯けた。
「なんでも……ううん」
「アリス様?」と問いかける声音に、辛うじて絞り出した小さな声で応える。そしてそれは誤魔化しではなく。ふと、伝えたくなったのだ。
「だいすき」
「――――っ、……」
ドクン、と。気のせいでなければ、ベルさんの胸が鳴った。ちらと伺ったその頬は光の加減か、赤く染まっているように見えた。ぎゅぅ、と抱き締める力が強くなって。
私の顔は柔らかな胸に埋もれた。
「ふぎゅっ」
「アリス様。めっ、ですよ」
「うぅ……?」
何やら諭すようなそれは耳に入っていなくて、私はただ遮られた呼吸を確保するのに必死だ。
腰に手が回されているゆえ、ベルさんが抱く力を強めると自然と私は斜めに抱き上げられる形になっていて、下に顔を逃がすのは困難だ。
むにむにと頬を挟むそれに抗いながら、なんとか頭を持ち上げる。
「ぷぁっ……」
「わっ、とと。申し訳ありません、苦しかったですか?」
胸に首を挟まれるような姿勢になって、ようやく気づいたベルさんはバツが悪そうに、あはは、と苦笑していて。
私はほんのちょっと潤んだ瞳のまま口を膨らませ、ジトッと見つめて抗議した。
「めっ」
「ぐうっ……!?」
荒いだ呼吸の合間に短くそう言うと、急に鼻を押さえたベルさんは天井を仰いで。
「神よ」
「べる……?」
「常々思っていることですが、アリス様の真の魔法は〝魅了〟に違いありませんわ、ええ」
「うぅ?」
うわ言のようにブツブツと呟くその顔は、どこか幸せそうだ。
反応がないのに諦めて、顎を胸に預けながらベルさんが現世に戻ってくるのを待つ。
「……こほん」
「おかえり」
「失礼致しました、アリス様」
「どこいってたの」
「はい、少し楽園の方へ」
「らくえん?」
「天使が見えました」
真剣な顔でアホなことを言うベルさんは深々と頷いて。目が本気なので触れないでおく。
ようやく腕を緩めてくれたのに姿勢を直して、言葉はなく、ただ座ったまま向かい合った。
「アリス様」
「あい」
ベルさんはふと、暖かい光の射す窓を眺めて。私もつられて、開いたその木枠の窓から空を見た。
外は今日も、晴天だ。
不規則な雲に区切られ、多層的に、そしてどこまでも続く厚い青を二人で眺めながら、ベルさんは続けた。
「……明日、ちょっとお外に、お散歩にでも行きませんか」
「おさんぽ?」
「はい。そうですね、カルミアも連れて、マリアン畑にでも」
「まりあんっ」
魔法のキーワードに反射的に、行くと言いそうになって、なんとか喉に押し留める。
散歩とは、随分急な誘いだ。基本的に、ベルさんは私の手を牽いて歩くようなことはほとんどしない。それをするのは、例えば先日の祖父の来訪のような、従者の立場ではそれ以外どうしようもない時だけだ。
だから、散歩に行こうなんて進んで提案するのは、かなり珍しかった。
「……おさんぽ」
「はい。ちょっぴりはしたないですが、畑の近くの草原に転がって空を眺めるのがすごく気持ちいいんですよ」
「そっか」
実感の篭もった声音が、その情景を想像させる。
何か、軽食の入った籠なんかを隣に置いて。大自然の中、ベルさんとカルミアさん、三人で並んで寝っ転がって、空を眺める。風に揺れる草原の海にぼうっと身を委ねて。
……なるほど、それは、とっても気持ちが良さそうだ。
「……うん」
気分転換も兼ねて、あえて一度外へ出てみるのもいいかもしれない。それに、きっとそうして見上げた大空は、不安や恐れを忘れさせてくれる気がした。
「……でも、どーして?」
するとベルさんは無意識のうちか、父がするように頬を掻いて。
「私が大好きな景色を、アリス様にも見てほしくて」
「べるの……?」
「はい。……これは、独り言ですが」
ベルさんはそう前置きして、やがて話し始めた。
私はそれに、相槌を打ちながら。ただ黙って聞いた。
「私は、孤児でした。父も母も知らず、気づいたときには、はぐれ者が集まるような裏町の酒場で働いていました」
「うん」
「……ある日そんな生活が耐えられなくなって、そこから逃げ出したんです。当然お金も食料もすぐになくなり、孤児を助けてくれるような人もそうそうおらず。とある、大きな館の前で行き倒れてしまいました」
語られているのは過去だ。今の今まで知らなかった、ベルさんの歴史。
私はそれに、驚きも頷きもしなかった。
「……やかた」
「はい。それが、ここ。フェアミール家のお屋敷だったのです。そして……アリシア様が、私を見つけて拾ってくださったのです。ハッティリア様とアリシア様は、私を娘のように大事に養ってくれました」
ベルさんがここに来たのは、偶然の重なった結果で。
けれどきっと、それは必然だったのだ。
「その中で、少しずつ従者の仕事を教えてもらいました。けれど、どうもうまくいかない時があったのです」
「うん」
誰だって最初から全てをこなせるわけではない。
躓くことだって、あったのだろう。
「そんな時、アリシア様が散歩に行きましょ、とマリアン畑に連れて行ってくださったのです。……そこで、何を話すわけでもなく、ただ二人で寝転がって空を眺めました」
「うん」
そこまで話すと、ベルさんは窓から目を戻して、私を見た。
そこにふと、知らないはずの母の姿が重なった気がした。
「そうしてアリシア様の隣を歩いた帰り道、私はなぜだか、とってもスッキリしていました」
ぼんやり浮かんだ二つの背中がとっても温かくて、けれど、ちょっぴり、ほんのちょっぴり、寂しいような気がして。
そんな私を、ベルさんは慰めるように撫でてくれて。
「――――アリシア様に教えていただいたあの景色を、今悩んでいるアリス様に見てほしいのです」
それはベルさんの言葉であり、同時に母の言葉だった。
どうしても零れようとする涙を拭って、なんとかベルさんを見上げた。
「うんっ」
「……ありがとうございます、アリス様」
相変わらず言葉足らずなそれをしっかりと受け取ってくれて。
背中の布の換えを持ってきますね、と部屋を出たベルさんは、やっぱりエスパーなんじゃないかと疑うほど気遣いがうまかった。
そうして一人になった私は、そのまましばらく。
「うぅ、ぁ、……かあさま、かあさまぁ……っ!」
“救えなかった”母の影を抱いて、ひたすら泣いたのだった。
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