第12話 In the blood
「べるー」
「はい、アリス様」
何をするでもなく、ただベルさんの膝の上に座って騎士物語の絵本を眺めていた私は、ふと気づいたことを尋ねた。
ここ数日、こうして話したりジューウィタロットで遊んでもらったりして、のんびりとした時間を過ごしているが、そういえば。
「みらは?」
そういえば、ミラさんを見ていない。私の部屋に直接来ることはさほど多くないが、食事だったり、私がミラさんの部屋に遊びに行ったりで毎日一度は顔を合わせていたのに、もう三日くらい会っていないのだ。二日くらいなら偶然会わない日が重なることもあるかもしれないが、三日ともなれば何か用事なりで忙しいという可能性の方が高い。
「あ、ミランダさんから何も聞いていませんでしたか?」
「うん」
するとベルさんは目を丸くして、次に何やら納得したらしく。そう確認するように私へ尋ねた。
前に会ったのはクロリナさんが来ていた時で、何もそれらしきことは言っていなかったはずだ。
途中ひどくぼーっとしてしまった時に聞き逃したということもありえるが、いずれにしても覚えていないのだから同じだった。
「そうでしたか。ミランダさんは今、王都にいるラブリッド様のところへ行かれています」
「ほえ」
「親衛騎士のお仕事の関係です」
「そっかぁ」
なんと、ミラさんは知らないうちに館を出ていたらしい。騎士の仕事関連だろうというのはもともと推測していたことだが、てっきり私室で篭もって何か書類でも書いているものだと思っていた。
「おしごと」
「はい。一週間ほどで戻ってくるとは仰っていましたが、王都までとなると往復にも時間がかかりますから」
確かに、帝国との国境地帯であるここから国の中心までとなると時間もかかるだろう。
移動はやはり徒歩なのだろうか。遠距離の移動はてっきり〝馬〟を使うものだと思っていたのだが、どうも館ではもちろん、街でも見かけることはなかった。
「あるいて、いくの?」
「ああ、いえ。ミランダさんが所属する白百合騎士団はマリアーナを出てすぐのところに駐屯地がありまして、恐らくそこで〝軍馬〟を借りていくんだと思います」
「ちゃーじゃー?」
「軍馬というのは、騎士たちが使う〝乗用馬〟のことです。そういえば、アリス様はまだ一度も見たことがありませんね」
ええと、とベルさんはちょうど私の膝に置かれたままの騎士物語の絵本を取ってパラパラとめくると、これのことです、と指で示した。
「〝お馬さん〟!」
「はい……?」
「なんでも」
つい発した日本語に首を傾げたベルさんに半分反射でそう返しながら考える。
やっぱり、騎士と馬はセットだ。しかしノーブル、貴族の、というくらいなのだから、きっと馬は庶民が気軽に移動手段として使えるようなものではないのだろう。
「野生の馬を捕まえて、人が乗れるように訓練したのを乗用馬と言います。育てるのがとっても大変で、数もあまり多くないので騎士や貴族しか持っていないんです」
「そーなんだ」
やはり、そういうことらしい。イメージしていたような一般的な移動手段としてではなく、騎士、すなわち軍から貸し出されるのは例外として、基本的には上流階級の身分でもってやっと、というくらいの希少な存在のようだ。
「とおさまは、もってない?」
「ハッティリア様は騎士時代に使っていた軍馬を戦争が終わって貴族になった時にご褒美として軍から授かったのですが、その時はまだ馬を育てられる環境もお金もなかったので結局軍に預けて、そのままなんです」
なるほど、馬とは本当にお金も手間もかかる動物らしい。
いくら戦場をともにした愛馬とはいえ、貴族になりたてで領地の経営を学んだり実践したりしなければならない中で、諸々の余裕はなかったのだろう。
しかし、軍に預けているということは一応父のものであるはずなので、いつか何かの機会に乗せてもらえる日が来るかもしれない。
知識や写真や絵本の絵でない、本物の馬を一度見てみたかった。
「どんなこ?」
「子、と仰いますか。アリス様は本当に……ふふ。いえ、なんでも真っ白な毛をしたとっても足の速い馬だったそうですよ」
「べるも、みたことない?」
「はい。野生のや騎士さんのは見たことがありますが、ハッティリア様の馬は私も一度も」
「いつか、みれたらいいね」
「その時はアリス様と乗ってみたいです」
「えっ……!? うん、のる! のるっ!」
「はいっ、機会があれば!」
――――やった。よし。やった……!
口頭でとはいえ、幸運にも話の流れから偶然乗馬の約束を取り付けることができた。
父に何か大きなわがままを言える機会があれば、是非ともこれを頼むことにしよう。
「ふへ」
ベルさんと一緒に、逞しくスマートなフォルムをした白馬に跨がって草原を駆ける様を妄想して、ついつい変な笑みが零れた。どうしても喜色を浮かべる頬を隠したくて、相棒を押し付けた。
するとなぜだかベルさんがふるふると震えて。
「……抱き締めても?」
「べる……? う、うん」
「ありがとうございます。……ぁあ、お可愛らしい」
若干目が血走っていたような気がするのを、強く、けれど傷が痛まない程度に後ろから抱き締める腕に誤魔化された。不意に呟かれた言葉が耳を撫でて、びくりと肩が跳ねる。
遅れてそれを理解すると首から上がじわじわと熱を持って、さらに強く相棒を抱いて。ついには顔を丸ごと押し付けて隠してしまった。
「アリス様……」
「べ、べる。その……うぅ」
なんとか解放してもらおうとして、チラリと見たベルさんはとても幸せそうで。離してと言う気にはなれなかった。ドキドキと高鳴る胸の音が聞こえてしまわないかな、なんて心配しながら、もう少しそのままでいることにした。
「アリス様」
「あい」
しばらくそのまま抱き締められていると、不意に腕が緩められて。次いで頭上から降った声。
ぼうっとしていた意識を戻して、短く返事をする。数秒の空白を挟んでまた声が降って、それは私への問いかけだった。
「アリス様は、王都に行ってみたいとか……思っておられたりしますか?」
「んー」
〝王都〟か。最近ようやくマリアーナの街へ出ることができたばかり、そしてその初っ端で襲われて怪我をし、他の街のことを考える余裕などなかった。
しかし、そうだな。王都か。ベルさんに尋ねられて、いざそれをイメージしてみるとなかなか興味が湧いてきた。
きっととっても大きくて、マリアーナの市場以上の活気に満ちているのだろう。行ってみたいかと聞かれれば、行ってみたいと答える他なかった。
「うん。……でも」
「……怖い、ですか?」
「ちょっと」
間も開けずに確かめられたベルさんの言葉に小さく頷く。
一区切り付けたとはいえ、マリアーナにしか目が向いていなかった中、いきなり王都と言われてもどうもピンとこないというのもあった。
……まあ、でも。
「べるといっしょなら、だいじょうぶだよ」
ベルさんと一緒なら、行こうと思えばどこへでも行けるだろう。結局私の一番安心する場所というのはこのベッドの上でも館でもなく、ベルさんの隣なのだ。
ほんとだよ、と念押しするように見上げると頭頂から耳、首筋までをなぞるように髪が撫で梳かかれるのと共に微笑みを向けられて。けれどその瞳は、何やら考え込んでいるようだった。こうして何かを考える時に、自分の、もしくは私の髪を弄るのは、一緒の部屋で過ごしていて気づいたベルさんの癖だ。
「いえ、その……」
と、もごもごと何かを言い淀んだところで、ノックの音。
誰かを確かめる前に反射的に返事をしてしまって、すぐに扉が開いた。
「――――失礼します、アリス様、マム」
入ってきたのはカルミアさんだ。
いつもは笑顔なその顔は、心なしか少し強張っていた。
ベルさんもそれに気づいたのか、私を撫でる手を止めて。
「……カルミア。どうかした?」
「それが……いえ。只今、〝マッグポッド〟と名乗られる方がいらっしゃいまして……」
「っ、誰が、来たって!?」
「わっ」
カルミアさんが誰かの名前を言った瞬間、目を見開いたベルさんが信じられない、とばかりにもう一度尋ねて。私はその声の勢いにびっくりしてしまった。
申し訳ありません、と口を押さえたベルさんを窺う。よっぽど、動揺しているらしい。
一体その〝マッグポッド〟という人は何者なのだろうか。
「どうしましょう、ハッティリア様はちょうど騎士団駐屯地の方へ出かけたばかり」
「いえ、その……」
珍しく焦ったように眉をひそめて困った様子のベルさん。
しかしカルミアさんは同じく困った様子で頬を掻くと、さらに付け加えた。
「ハッティリア様ではなく……アリス様に、会いたい、と」
「えっ」
寝耳に水である。どうやらそのマッグポッドという人物は私に用があるらしい。聞いたこともない、というか、館の外の繋がりなどラブリッドさんとクロリナさんくらいのはずだ。
「ああ……きっと、怪我のことを心配なされているのね……」
「ど、どうしましょう」
「とりあえず広間へお通しして。私はアリス様に……」
「はい、マム!」
「マムはもういいったら!」
バタバタと忙しなく扉の向こうへ消えていったカルミアさんを見送り、私は呆然としていた。
……どうしよう、まるで話が飲み込めない。何が起きているのかも、どうしてベルさんたちがそんなに焦っているのかもさっぱりだった。
「……えっと、アリス様」
「う、うん」
私を膝から降ろして、向かい合うように座ったベルさんがじっと私のことを見つめて。何やら言葉を選ぶように沈黙すると、やがてその重い口を開いた。
「その、申し訳ありません。私からお話してしまっていいのかわからず、あまりご説明ができないのですが」
「うん」
そう前置きしたベルさんの様子から察するに、そのマッグポッドという人については何か込み入った事情があるのだろう。小さく頷きを返し、深く掘り下げずに続きを促した。
「実はアリス様とも、とある繋がりがある方で……その、よろしければ、会っていただけませんか?」
「わたしと……?」
「はい。悪い方ではありません。少しわかりにくいかもしれませんが、とってもお優しい方ですよ」
やはり、何やら話せない事情があるらしい。ベルさんは私とも関係があると最低限は匂わせるものの、ハッキリとした情報は一つも言わなかった。
「ん……」
何もわからないというのは少し怖いが、ベルさんが悪い人ではないと言うからには悪い人ではないのだろう。それに、私が断ればさらに困った顔をさせることになる。
それは望んでいなかった。
「うん。いーよ」
「……ありがとうございます、アリス様」
「きがえなくて、いい?」
様子や言い方からして、なんとなく、きっと偉い身分の人なのだろうと推察してそう言った。
すると、ベルさんは固まって。
「アリス様……さすが、と言いますか、いえ。必然なのかもしれませんね」
「うん?」
「いえ。お着替えは、大丈夫ですよ。きっとむしろ、普段のアリス様が見たいのです」
「そっか……?」
何が何やらよくわからないが、とりあえず着替えはいいらしい。完全に部屋着のゆるいワンピースだが、本当にいいのだろうか。
「では、広間に。失礼しますね」
「うん」
ベルさんに続いてベッドを降りて。私の両側に伸ばされた手の意図を察して、それが膝下と腰に行くのと同時に体重を預けた。
そうしてベルさんに抱えられて、部屋を後にする。
「……ふふん」
「アリス様?」
抱っこで下る階段、一段下りるたびに揺れる私の手には、相棒。
無意識に連れてきていた彼に気がついて、今度は忘れなかったぞ、と胸を張った。
直後それはどちらかというと情けないことだというのに至って、言った傍から出番を迎えさせてしまったが。
「アリス様」
「うん」
ベルさんと二言だけで会話しながら、広間へ続く大階段のそばまで来て身構える。
これを曲がれば、件の人物と対面するはずだ。
私が手早く心の準備を済ませたのを見て、ベルさんは大階段へ進んだ。
その腕に抱かれながら、じーっと広間の長い卓を伺う。
そうして卓を挟んでちょうど反対側、そこに一人の老人が目を瞑って座っていた。
「お待たせ致しました。お久しぶりです、マッグポッド様」
「……む。ああ、ベル。お前も、大きくなった」
「……ありがとうございます」
金色の髭をたっぷり貯えた、いかにも老練の、といった厳かな雰囲気を醸しだす彼は、何やら懐かしむような挨拶をベルさんと交わした。そうして、少しだけその切れ長の目を開く。
その眼光の鋭さに、私は思わず身震いしそうになった。
「では、アリス様はこちらに」
「……ぅ、ん」
怖い人なのかも、と思いかけてベルさんの声に悪い人じゃないと言っていたのを思い出す。どうしてもその重く鋭い寡黙な態度に怯えてしまうが、わかりにくいというのはこれを言っていたのかもしれない。
ベルさんに椅子に座らせてもらって。何やらふるふると震えるような仕草をしながら、また目を瞑って沈黙してしまった彼と卓を挟んで向かい合う。……そ、そうだ、まずは挨拶。挨拶が肝心だ。
完全にビビっているのを自覚しながら、私は掠れるような細い声でなんとか〝初めまして〟を切り出した。
「……ありす、ふぉん、ふぇあみーる。ごさい、です」
はい失敗。なんだその挨拶は。
丸っきり子供丸出しではないか。いや子供だけど。
完全に挨拶を間違えたので、一体どんな怒声が飛んでくるのかと半ば諦めたように瞳を潤ませながら、相棒をぎゅっと抱いて彼の重たそうな口が開くのを待った。
やがて、その目がカッと見開かれて――――。
「ひっ……!?」
「――――おおおぉぉ、アリス! アリスや、すっかり大きくなったのお!? いやはや、時が経つのは早いもんで、いやワシが歳なだけかの? はっは! それにしても本当に大きく――――」
そうして彼はさっきまでが嘘だったかのように破顔して。
爆発したように早口で捲し立て始めたトークに私はついていけなかった。
「べ、べるっ……」
「あはは……」
助けを求めて振り返ると、ベルさんはやっぱりこうなりましたか、とでも言いた気に苦笑した。
そのさらに後ろ、飲み物と、そして黄金に煌めく神の果実の盛られた皿を載せたお盆を運んできたカルミアさんを見つけて、状況がまるで理解できないゆえの現実逃避も合わさり、私はその果実に釘付けになった。
そう、私を魅了して已まないその輝きの名は。
「まりあん!!」
「そんなわけで、今日ようやく、〝おじいちゃん〟が会いに来たぞおおおおおぉぉっ!」
歓喜の極みとばかりに叫ばれた言葉の意味が一瞬理解できなくて固まってしまって。
おしとやかに座り直すと彼を見て、私は改めて声にした。
「――――えっ」
「……えっ?」
すっかり話が伝わっている前提で話していたらしい彼がほとんど涙目になって、私がようやく、どうやら彼が自分の祖父らしいというのを理解するまで。
それからおよそ、小一時間を要した。
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