第10話 本当の魔法
「こおった」
倒れた天秤に未だ手を翳したまま、私はその感応水のごとく固まった。
ベルさんの膝に寝っ転がったままの相棒と目を合わせて、しかし彼は何も答えてくれなかった。
「……えっ」
言い訳のしようのないくらいしっかりと凍りついた感応水を見て、ベルさんたちは絶句していた。
こんな反応は見たことがないと、ミラさんは言った。そしてそれはベルさんとクロリナさんも同じだったようだ。
「えっと、えっと」
私はパニックだった。溢れたのを見て、水の魔法か、喉が渇いた時に便利だなーなんてのんきなことを考えていた矢先のことだったのだ。
……ただ凍っただけなら、少し驚くだけで済んだ。問題はそれがどうやらかなり特異な反応であるらしいことである。
いや、私のこの銀色の髪はこの国で私以外にいるかどうかというレベルの、希少なものだというのはベルさんに聞いて知っていた。ならばその魔法も、というのも考えたことはある。
けれどいざ、その妄想が現実になってしまったとあらば、驚きと困惑のあまり硬直もしようというものだ。
そして、気になるのはベルさんだ。ミラさんとクロリナさんは純粋に驚いているように見えた。
しかしその中でベルさんだけは少し違った表情をしていた。うまく反応させられたのに喜んでくれている様子に見えるものの、何やら思案するその顔はただ驚いているというよりはどこか苦々し気なのだ。
「……べる?」
「い、いえ、アリス様。……これはきっと」
とベルさんが横を向いて視線を合わせた先でクロリナさんが深く頷いて。
するといつもは落ち着いているその声音は、珍しく興奮したように荒いだ。
「――――氷の、魔法。伝承上の存在だとされていたはずの、神秘の魔法です。全てを鎮めるこの魔法は、〝聖ネージュムール教〟において主に神々が使うものとされています」
「ねーじゅ……」
「はい。私たちの信ずるもので、この世界は古く神々の創りたもうた地。全ての生命は平等な存在であり、それが崩れた時に氷の時代……神々の罰が下るというお教えです」
「ねーじゅむーる」
そういえば、誕生日に祈ってくれた時も、クロリナさんは同じ言葉を口にしていた。
ネージュムール、なるほど、象徴が天秤なのはそれに基づくものだろう。
しかし。
「でも、みんな、たべる。まもる」
ふと生じた疑問をそのまま投げかける。
自分の魔法の話から脱線しているのはわかっていたが、けれどなぜだか、それに対して〝聖ネージュムール教〟という教えの出した一つの答えが聞きたかったのだ。
「……はい。生きるためには、他の命を摘まねばなりません。しかしそれこそが、全ての生命が平等であるということなのです。私たち人も動物に食べられたり、虫や他の植物によってうまく作物が実らず、飢餓で倒れたりすることがあります。けれど、それは彼らの罪ではありません」
「うん」
「自然の中で命を競うことこそ、共存共栄。誰かの死は誰かの生となって、またその死が新たな生となります。魔力というのはそうして特に積み重なった生の力であり、いつか子へ受け継がれなくなった時、それはまた自然に還って、新たな生命たちを生むのです」
「……おっきい」
なるほど。その生命を俯瞰する大きな考えに、自分の視点も広がったような気がした。
すなわちネージュムール教というのは、自然のあり方そのものを神々への信仰の寄り代にしているようだった。自然全てを神々の被造物として、生きるためにその中で命を競うのを肯定するという、人という主観に囚われぬ〝教え〟らしい。
しかし、それは同時に一歩間違えれば、弱者への蔑視に変わりうる考え方でもあるように思えた。
そして各地に教会があるというのは、つまり広く信仰されているということで。
……あるいは、市場で見聞きしたような庶民の人たちと上流とのひどい格差というのは、これが歪に曲がった結果なのかもしれない。
「……そしてそれが狂い始めた時には、神々の警告として〝雪〟というものが降るとされています」
雪。雪か。なるほど、氷の時代というのが罰だとするならば、雪をその警告とするのは納得のいく話だった。
そういえば、少なくとも私が生まれてからの五年の間にどこかで雪が降ったというような話は聞いたことがないし、ましてや見たこともない。それどころか寒いと感じたことさえほとんどない。
ほとんどをベッドで過ごしていたから、とさして気にもしていなかったが、どうも気候的に雪がほとんど降らないのかもしれない。だとすれば雪や氷が神秘的なものとされるのもそこまで不思議な話ではなかった。
私がいろいろと納得して頷いたのを満足したと受け取ったのか、クロリナさんは話を戻そうとして口を開く。
「つまり氷の魔法というのはそれだけで神々の使いだとして敬われるものです。やはりお嬢様は……」
そうして、そこで言葉を止めて。ハッと目を見開いて。何やら手を胸に当てながら考え込んで、やがて深刻そうな顔をした。
その隣で同じくミラさんも真剣な顔をしていて。
二人は揃って、先ほどベルさんがしたような複雑な表情を浮かべていた。
「ど、どうしたの……?」
いまいち何事か飲み込めない私の手を、ベルさんが握って。
そうして続く沈黙の中、やがて教えてくれたのはミラさんだった。
「……姫。〝反体制派〟という、今の王国に不満を持った人たちがいるのは、ご存知ですか」
「しってる」
そういった人々がいるのは、もちろん理解していた。それこそ身をもって、だ。
加えて、前世では一時期自分もそれに属していた人間だったのだから。
「聖ネージュムール教は強い力を持っています。それは単純な戦うための力という意味ではなくて、影響という意味で、です」
「うん」
頭を捻ってできるだけ簡単な言葉で説明してくれようとするミラさんに、相槌で応える。
それは理解できる。前世においても、強い影響力を持つ宗教は全て排除された。数は力だ。それが団結していればなおさら。そして宗教というのは、それを可能にする。
「もし、姫が氷の魔法を使えると知れたら、みんな姫のことを神の使いだと言うでしょう」
「……うん」
確かに、私がそれを使えると広まってしまえばそうなることは容易に想像できた。
……いや、そうか。それは当然、反体制派の人々も知ることになるわけで。
「――――ねらわれ、る?」
「……はい。恐らくやつらは、姫を利用しようとしてくるでしょう」
そうして俯いてしまったミラさんの拳はきつく握られていて。
私は理解した。反体制派の視点になってみれば簡単な話だった。
広く信仰されている宗教で神の使いとして敬われるような存在。当然、その影響力はかなり高いだろう。
そして、雪が警告とされるなら。
――――即ち氷の魔法を持った神の使いが、反体制を謳えばどうなるか。
考えるまでもない。反乱の大義名分の出来上がりだった。
多くの信徒たちが旗を同じくするだろう。
ならば、それを望む反体制派が私を狙うというのは、もはや自明の理だ。
反体制と取れるような失言を切り取って広め、いや、切り取る必要もない。そんなことを言っていたと嘘の噂を流すだけでいいのだ。
あるいは直接的手段として拉致して脅し、発言をコントロールしようとしてくるかもしれない。
無論、拉致したという事実がそのまま流れれば、逆に信徒たちは全て敵に回るので、そんなことはしないだろうが、中にはリスクのことを考えずに暴走する者たちもいるかもしれない。
そしてそれは、私どころか、私の周囲全てに危害が及ぶ可能性があるということで。
……脳裏に、血を流すベルさんの姿がチラついた。
「――――ぃ、やっ!?」
考えれば考えるほど、恐怖が湧いてくる。
ようやく事の重大さに気がついた私の体は、館を出る前のようにまたひどく震えてしまう。
「アリス様っ! 落ち着いてください、大丈夫、大丈夫です……」
「うう、ううぅ……!」
パニックになりかけて、けれど。ぎゅっと私を抱き締めたベルさんの手が背中をさすって、大丈夫と必死に宥めてくれたおかげで、震えはマシになった。
荒れる心情を深呼吸でなんとか落ち着けて、埋めた顔を上げた。
「大丈夫です、アリス様。今、アリス様の本当の魔法を知る人は誰か、わかりますか?」
「わたし、と……べる、みら、くろりなさん」
「はい。それ以外の人は、誰もアリス様の本当の魔法を知りません」
目で同意したミラさんとクロリナさんも私を見つめていて。
何が言いたいのかを理解する。
つまり、秘密にしようと。誰にも明かさずにいれば大丈夫だと、そう言ってくれているのだ。
「……姫。私は、貴女様の騎士です」
「お嬢様は、私の光です」
強く言ったミラさんとクロリナさんを見た。
「アリス様」
最後にベルさんが一言だけ、そう私の名前を呼んだ。
それだけで十分だった。
……そうだ、落ち着こう。話さなければいいのだ。
態々氷の魔法なんてものを使う機会もそうそうあるまい。
それに、私が魔力を使ってベルさんの傷を移したのは大勢が見ていたはずで、きっと正確には私の魔法ではなかったそれを魔法だとして認識してくれているだろう。
広まれば面倒なのには変わりないが、身体強化の亜種の珍しい魔法、くらいで終わってくれるのではないか。これが騎士や魔導師であればまた別だったかもしれないが、今の私は貴族だ。強制的に徴兵されたり研究されたりするということはあるまい。
これからも、あれを自分の魔法ということにして構えていればいいのだ。
「……大丈夫、ですか?」
「うん。ごめんね」
「いえ、そんな。アリス様は何も悪くありません」
「……ありがと」
ごしごしと、いつの間にか頬を濡らしていた涙を拭った。
本当の魔法が使えないどころか話にもできないものだったのは残念だが、特に困ることはない。別に、氷の城を築くわけでもないのだから。
「でも……」
ベルさんたちが秘密を漏らすとは微塵も考えられない。唯一気がかりだとすれば、なかなか溶ける気配のないこの凍りついた天秤であった。
私の目線を追ってそれに気がついたクロリナさんは、ふとそれを持ち上げて。
「あっと、まあ! 手が滑ってしまいました」
「えっ」
やけに態とらしいセリフとともに、それをそのまま地面に落とした。
パキン、と伝う途中で固まった氷が折れて取れ、皿の中の塊にも少し罅が入る。
「これは大変! クロリナさん、お怪我はないでしょうか? ……わわっ、勢い余って踏んでしまいました」
「えっ」
これまた態とらしく慌てたようにクロリナさんの手を取ったミラさんが、明らかに思い切り天秤の皿の部分を踏みつけて。
バキン、と大きく割れた氷の塊は綺麗に皿から外れて転がって。
「ああ、どうしましょう。なんとも罰当たりなことをしてしまいました」
「いいえミランダ様、これは私を助けてくださろうとしてたまたま踏んでしまっただけですから、何も悪くありません」
そのあんまりなやり取りに戸惑っていると、今度はベルさんが私から腕を離して天秤を拾って。
「どうやら落ちた時にホコリがこびりついてしまったようです。綺麗にしましょう。ミランダさん、ナイフをお借りしても?」
「もちろんです、ノクスベルさん」
するとミラさんが腰のホルダーから抜いたナイフを受け取ったベルさんはそれを器用に使い、残った氷も削り取ってしまった。
「これで綺麗になりました」
「まあノクスベル様、ありがとうございます」
「さすがノクスベルさんです。これは片付けておきましょう」
と、ミラさんが散らばった氷を集めると再び足を持ち上げて。
「ていっ」
「えっ」
ドギャッ、とおおよそ普通の人間の出せるものでない速度と力でそのまま踏み潰した。
まるで目に見えぬほどの勢いで繰り出された足からは、氷も弾け飛んで逃げることすらできなかったらしく、ミラさんがじゃりじゃりと踏み潰したまま床に擦ると無数の細かな欠片はやがて溶けてなくなっていった。
そうして顔を上げたベルさんたちがクスリと苦笑し合って。
呆然とその一連を見届けた私に、しゃがんで目を合わせたベルさんがこれもまた態とらしく。
けれど、優しい笑顔とともに。
「ところでアリス様、天秤がどうかなされましたか?」
「……ぅ、ううん。なんでもない」
私は甘んじてそう答えるしかなかった。
その見事なまでの連携は一体何なのだろうか。知らぬ間に打ち合わせでもしたのかと思うくらい息の合った動きだった。
「……ありがとう」
「はい、アリス様」
またまたベルさんたちに甘えてしまったのが恥ずかしくなって、椅子に転がった相棒を拾って抱き上げる。果たして彼の出番がない日は来るのだろうか。
「……では魔法検査はこれで終了になります。お疲れ様です、お嬢様」
「うん。ありがとう、ございました」
「いえいえ、感謝されることなど。私はまた孤児院の方に戻らなければいけないので、一度失礼させていただきますが……もう帰られますか?」
クロリナさんの問いにベルさんを見上げて、瞳で会話をした。
「アリス様の帰りたい時で構いません」
「……んー」
私には昼食……というか、マリアンを食べるという使命がある。であればできるだけ早く帰らなければいけない。
でも。もう少しここで、ベルさんとミラさんと一緒に。
あの銀の天秤と色付きガラスの作る、幻想的な光景を見ていたい気分だった。
「もうちょっと」
「畏まりました。では、帰られる時は守門にお声を掛けていただければ、お見送りに参りますので……」
一礼して天秤とカップを手に、背を向けようとしたクロリナさんを呼び止めた。
一つ、クロリナさんに会ってふと思いついたお願いがあったのだ。
「くろりな、さん、その」
「なんでしょう、お嬢様……?」
しばらくして察してくれたクロリナさんの近づけた耳に。
私はベルさんに聞こえないよう、ぼそぼそと小さな声でお願いをした。
「……なるほど、ふふふ。もちろんです、ではまたいらした時に」
「うんっ、ありがと」
快く引き受けてくれたのに思わず頬が緩んで、きちんと感謝も伝えた。
扉を開けて去っていったクロリナさんを見送って数秒、遠慮がちにミラさんが尋ねた。
「……姫。その、何をお願いされたんですか?」
「えー」
ここで答えれば隠した意味がないので困っていると、ベルさんがこほんと一つ咳払いで咎めた。
「……も、申し訳ありません、姫、マムッ!」
「うつってる」
「はい!?」
「なんでも」
マムという言葉に真っ先にカルミアさんが浮かんで、思わず突っ込んでしまう。
それを見守りながら、また私を抱き上げて膝に乗せるベルさん。
けれど、私は知っている。
「……アリス様?」
そんな、実はしっかりと耳を澄ませて内容を聞きたそうにしていたベルさんを。
私はじーっと、相棒と一緒に見上げて。
「ひーみーつっ」
ちょっぴりイタズラっぽく、微笑んでみるのだった。
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