第8話 扉
「大丈夫、でしょうか」
「……わからん」
ミランダさんと入れ替わりでアリス様の部屋を出た私は、そのまま空になった朝食をカルミアに預け、ハッティリア様の書斎に来ていた。
「何か様子が変だと感じたら、すぐに引き返してきてくれ。検査の取り消しは後から私がする」
「はい、畏まりました」
もちろん、魔法の検査の予定より何より、優先すべきはアリス様だ。もとから無理をしての外出なのはわかっているけれど、これ以上は、と感じたらすぐにでも戻るつもりである。
昨日の今日で傷を乗り越えようとする姿はこの世の何よりも尊く、だからこそ、光を取り戻し始めたその金色の瞳が壊れぬように、私たちが守らなければならないのだ。
「アリスは?」
「今はお部屋で、ミランダさんと話しています」
「いろいろと、やけに積極的なのは……」
「はい、きっと……」
一緒に寝ようと甘えてくださったのにしろ、魔法検査を教会で、しかも今日行くと仰ったのにしろ、普段のアリス様ではまったく考えられないほど行動的だ。
しかし、それはどうも、心を開いたゆえの動きのようには見えなかった。
きっとアリス様自身も気づいていないのだろう。けれど今朝の起床から朝食の時まで、その瞳はずっと何かに怯えているようだった。時折、手が震えてさえいた。
アリス様は隠すのが上手だ。いつも誤魔化すように〝だいじょうぶ〟と。そう呟いては不器用な笑顔を浮かべ、すぐに無表情になる。
しかし、こうしていざもう一度外へ出るとなって、それでも隠しきれないほどに怖がっているのだ。やはり、あの日のことは大きな傷となっていた。
もしかしなくても、背中の傷よりも致命的なほどに。
それでもそれを無理やり乗り越えようとするのは、きっと私たちに迷惑をかけぬようにという悲しい気遣いで、何より感情の反動なのだろう。
恐怖の波を突発的な行動で打ち消し、心を落ち着けようとしているのではないだろうか。
「でも……」
しかしそれでは、壊れてしまう。
波を波で打ち消しても、今度は水面に歪んだ波紋が生まれる。
それはやがて荒れ狂う乱流となって、取り返しのつかないことになる。
感情の波は打ち消すのではなく、受け止めて、落ち着くまで待たなくてはならない。それが、私が今まで生きてきた中で得た、大きな教訓だった。
ならば、私はそれをアリス様に伝えよう。
もしも伝わらないなら、私が示すのだ。いつも邪魔ばかり、と嫌われてしまったとしても。
それは苦しい道かもしれない。
けれど魔法の検査を、と口にしてしまったのは他ならぬ私なのだ。
だから、それでも進まれるなら。アリス様がそうしたように、私が代わりに傷を――――。
「ベル?」
「……ぁ、……いえ、なんでも」
ありません、と。そう続けようとして、しかしハッティリア様がそれを遮った。
「気負い過ぎるなよ。それで潰れてしまった時、一番悲しむのは誰か。ベルは誰よりも知っているはずだ」
ハッティリア様の諭した言葉は、鋭く突き刺さって思考を止めた。
……そうだ、私はアリス様に、ご自身のことを大切にしてほしいと、そう言った。
自分がそれを破ってどうする。
――――私と一緒にいることが幸せなのだと、あの日アリス様は、そう言ったのだ。
「……はい」
「……ああ。私は一度間違えた。だからベル、お前は間違えるな」
じっと見据えるハッティリア様の黒い瞳は後悔と強い意志を映していて、私は心に刻むように、深く頷いた。
「……そろそろ時間か」
ハッティリア様は書斎の机に置かれた、マリアーナでは教会とここの二つしかない〝時計〟を見つめ、呟いた。
そうして私に向き直ったのにコクリと返して。
「では、アリス様を」
「頼む」
頭を下げて礼をすると書斎を後にして、アリス様の部屋へ向かった。
「ふー……」
私は館の外へ通じる大扉の前で相棒を抱いて、立ち竦んでいた。
見て見ぬふりをしていた、あの日あの時の恐怖が、情景が。玄関まで来て、外へあと一歩というところで何度も頭にフラッシュバックするのだ。
「アリス様……」
「だいじょう、ぶ」
心配そうに一歩後ろでそれを見守っていてくれているのはベルさんとミラさん。それと父にカルミアさんに、勢ぞろいである。
一言やっぱり今日はやめます、と口にすればすぐに受け入れてくれるのだろうが、ここまで見られていると逆にとても言いだせない。
ああ、どうしよう。
そこまで気にしていないつもりだった。運が悪かっただけだと、たまたまだと。そう考えていたはずなのに。
『――――アリス様ッ!!』
ここに立った時から、ずっと脳裏に焼き付いて離れない、あの時にベルさんが浮かべた決死の表情。その背中に矢が突き刺さる瞬間と、無理をした笑顔。
自分が怪我を負ったことでもなく、襲われたことでもなく。どうやら私は、何よりベルさんを喪うことに怯えているらしかった。
チラリ、と。肩越しに横目でベルさんを見た。眉を垂れ下げ、その黒い瞳は懸命に心配を伝えている。そのまま視線を横にずらしてミラさんを。みんな、同じ表情だった。心配とともに、私を見守ってくれていた。
「すー、はー」
目の前に意識を戻して、大きく深呼吸をした。
大丈夫、大丈夫だ。きっと、一度外に出てしまえばこのフラッシュバックは収まる。
そんな根拠のない言葉とともにきつくぬいぐるみを抱いて、自分を騙す。
嘘でもなんでも、今は一歩踏み出す力が欲しかった。
「よ、し」
小さく、自分にしか聞こえない声で意を決して、扉に手を掛け――――。
『姫! ノクスベルさんッ!』
「ぅ」
『……ぁ、……ありす、さま、大丈夫、ですか、っ……?』
『……よかっ、た』
「うぅ……」
手はそのまま、額を抑えた。
そのシーンだけが、何度も何度も蘇る。傷口が熱を持っているような気さえした。
ぐるぐると回る頭。不意に地面がなくなっていくような感覚が襲って、ふらりと崩れるように座り込んだ。
「――――アリス様っ!」
暗い、深い、どこかへ放り出されそうになった私を、ベルさんの声が引きとめた。
ハッと目を開く。なんのことはない、ただそこには、いつも通りの玄関があるだけだった。
「べる……」
「アリス様。どうか、無理をなさらないでください……」
ぎゅっと、後ろから抱き締めるベルさんを見上げて。その視線の先を追った。
すると優しく包み込むように取られた手。
その手は、崩れた足は。私の体は、小刻みに震えていた。
「大丈夫、大丈夫です。アリス様がどこにいようと、私がそばにいますから」
「べる、べる……」
何も取り繕う余裕はなかった。ただ、縋り付くように。
いつの間にか流していた涙を拭うこともできずに、その胸に甘えた。
なんとかこの感情をどこかへ追いやろうと、抱きついて顔を埋めた。
ベルさんはそれを、黙って背中をさすりながら、宥めるように受け入れてくれた。
心の表に張り巡らされた、何枚ものガラスがひび割れていくような気がした。
この体が子供だから、引っ張られているんだと。いつも自分に言い訳していた。
けれど、違ったのだ。
「とおさま、かあさま……っ」
生まれた時から、ずっと両親は働き詰めで。
物心がついた時には、既に施設の中で。
愛情なんてものを受け取る機会がなかった私は、無意識に心を鎖していた。
ずっと、そのハリボテのガラスの壁の奥で、自分という存在を俯瞰していたのだ。
その姿は、子供のままで。私はきっと、その時から成長していなかった。
いつか、心を鎖さないでください、とベルさんはそう言った。
すれ違いだと、勘違いだと思っていたそれは、しかし真実だった。
誰よりも。きっと、私よりも私を理解しているベルさんには、見えていたのだ。
自分の内側に引きこもる、本当の〝わたし〟の姿が。
もう周りの目を気にする余裕はなかった。
いや、気にする必要はなかった。
ここにいる誰もが、ようやく慟哭する私を優しい目で包んでくれていた。
「ひっく、うう、ううぅぅ……っ!」
「……大丈夫、大丈夫です、アリス様」
もしかすれば、いや。
私は、今初めて、〝外〟に出たのだ。
……それから数十分か、あるいは一時間近くか。私は泣き続けた。
嗚咽で声が嗄れるまで、涙がもう出なくなるまで。
ベルさんに、ミラさんに、カルミアさんも。そしてきっと山のように仕事があるだろう父まで、ずっとそれに付き合ってくれた。
「アリス様」
「……だいじょうぶ。あり、がと」
赤くなった目を擦りながら、荒く呼吸を整えた。
ポン、ポン、と背中を撫でるように叩いてそれを手伝ってくれるベルさんの胸元は、私の涙で布の色まで変わってしまっていた。
その視線に気づいたのか、見上げたベルさんは気にしないでください、と微笑んでくれた。
「わたし、ごさい」
「はい。ですから、たくさん甘えていいんです。私は、アリス様が甘えてくださるのが何よりも幸せです」
「しあわせ」
「はい、しあわせです」
幸せのカタチは人それぞれだ。ベルさんがそれを幸せだと言うなら、私がそれを否定するわけにはいかなかった。
そんな、きっとそれを理解していてなお、紡がれた都合の良い言葉をもらってしまって。もう、甘えるのを止めることはできそうにもなかった。
「アリス」
「……とおさま」
私が少し落ち着いたのを見計らって、父がそばにしゃがんだ。
それから何も言わず、ただ頭を撫でるゴツゴツの手がとっても心地良くて。
目を瞑って、その温度をできるだけ感じられるようにした。
「姫」
「アリス様っ」
続いて駆け寄ったミラさんとカルミアさんもまた、しゃがんで目を合わせてくれて。
私と、私を抱き締めるベルさんを中心に、一つの輪がそこに連なるのを確かに見た。
「かぞく」
「……はい、アリス様。かぞく、です」
私はようやく、本当の意味で〝かぞく〟を知ったのだ。
「……どうする、アリス。今日はやめておくか?」
「うー」
問いかけたのは父。悩みどころである。
小一時間泣き続けて、精神的にも体力的にも既に疲れてしまった感じはある。
だが、魔法の検査とて、なんとはなしに立ち寄ってじゃあやってみましょうか、などとできるものではあるまい。つまり、向こう……クロリナさんの所属する教会にも今日行くという連絡が入って、準備しているはずだ。それをすっぽかすのは少々いただけない。
それに、今だからこそ一歩踏み出すべきだという気もする。
「ああ、連絡や準備のことならあまり気にしなくてもいい。あまり声を大にして言うことではないが……教会で検査を受けるというのは大抵貴族の子供だ。気分で取り消しになったり、ころころ予定が変わったりするのはそこまで珍しいことじゃない」
「そっか」
「今のアリスにはちゃんとした理由がある。あんなことがあって間もない内に館の外へ、というのが難しいのはみんなわかってくれる」
そうして父が目線を流すとみんなコクリと小さく頷いてくれる。父はどちらかというと、今日は休んでほしいのだろう。いや、父だけでなくみんなか。
しかしあくまで私の意思を尊重してくれるというような姿勢だ。
私は、どうだろうか。
「ん……」
……やはり、今日、今、行きたい。
思い立ったが、とは反対に急いては事を仕損じるという言葉もあるが、別に急いているわけではなかった。
一通り溜まっていた感情を吐き出し終えて、スッキリした心が冷静に、純粋に、今改めて外に一歩出てみたいと、そう言うのだ。だから。
「――――いく」
行こう。
まだ、あの光景が消えたわけじゃない。震えが止まったわけじゃない。
でも、ベルさんたちと一緒なら、行ける気がした。
「……そうか。アリスの決めたことだ、それなら父さんはそれを応援しよう」
「うん。ありがと」
「当たり前のことだよ」
父は少し心配そうに苦笑を浮かべながらもう一つ撫でると立ち上がって、周りもそれに続いた。
抱き締めたままのベルさんと目を合わせて、もう一度だけ強く抱きついて。
体を離し、私も立ち上がった。
「だいじょうぶ」
自分に言い聞かせるように呟いて、一歩一歩扉の方へ。
さっきは地獄の門のように歪んで見えたそれは、今は密室から抜け出すたった一つの扉のように思えた。
「べる」
「はい、アリス様」
「……て、つないでてもいい?」
「もちろんです」
すぐに隣へ並んだベルさんの手をきゅっと掴んで、その数々の思い出でもって恐怖や不安を押しやった。伸ばした右手は、今度はちゃんと扉に届いた。
そこで震えて止まった手に、今度はミラさんの手が重ねられた。
私の一歩前に立った、その目が大丈夫ですと励ましてくれて。
「姫」
「アリス様」
他に言葉はなく、けれど伝わった温かな思いを胸に。
「辛くなったら、すぐにベルやミランダに言うんだぞ」
「……うんっ」
「昼食にはマリアンをご用意しておきますね!」
「まりあん!?」
聞き逃せないワードに、もはや条件反射で瞳が煌めいた。
これは、何としても早く魔法検査を済ませ、昼食を逃す前に帰ってこねばならない。
「……ぁ。まって」
「どうかされましたか?」
「あいぼー」
危ない、また忘れるところだった。
一度手を離してしゃがみ、崩れて座り込んだ時からそのまま転がったままだった相棒を拾ってきちんと胸に抱いた。
「よし」
窺うミラさんに目で応えると、ギッ、と小さく音が鳴って。
そうして私は、雲一つない青空を見た。
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