第7話 父娘
「ほへー」
私はベルさんが朝食の片付けに部屋を出るのを見送って、本日起床後二度目の一人の時間を満喫していた。
いや、しかし満喫といっても特にすることがあるわけではない。
ただベッド脇に一つ、また一つと絵本を散乱させては新しい単語や文を反芻して、地道に語彙を増やしながらのんびりベルさんが戻ってくるのを待つだけである。
「せいちょうのまほう」
最後の一文字までしっかり堪能して、パタリと閉じたのは『マリーちゃんのまほう』。
一昨日ベルさんに『きんいろのねこ』を選んで読んでもらった時、一緒に候補に挙がっていた一冊である。内容はというと、ありきたりと言ってしまってはなんだが、そう言わざるをえないよくある童話だった。
「これもせいじょさまの……」
とある貴族の一人娘、マリーちゃんは館での暮らしに不満を持っていた。その不満はというと、何やら食事が毎度ワンパターンで飽きてしまったとのこと。
新しい食を求めて彼女がお忍びで向かったのは庶民街。しかしそこで見たのはみすぼらしい、本当に腹を満たすためだけの料理の数々。
マリーちゃんは憤慨しながらも、諦めずにそこで住む庶民たちにおいしい料理はないかと聞いて回る。その過程でやがて庶民たちの貧しい暮らしを知った彼女は、余裕がないからおいしい料理が生まれないのだ、と彼女なりの結論を出す。ならば、と向かったのは街の人々共有の畑。
「ううん、おうひさま?」
そこで彼女は、〝パンがないなら、育てればいいのだわ!〟とどこかで聞いたような気のするセリフとともに畑全体へ魔法をかけたのだ。それはあらゆるものの成長を促進する魔法で、萎れた芽ばかりだったはずの畑には多種多様の作物が一瞬にして実って。
不作に悩んでいた庶民たちは大喜びして、その作物をふんだんに使ったスープを作り、それを満足そうな笑みで味わうマリーちゃんの姿を背景にエピローグ。めでたしめでたし、というわけだ。
「まほう、べんり」
この一言に尽きる。成長の魔法だなんて、実際に使える人が存在するならその人物を巡って戦争が起きそうな代物だ。
なにせ、絵本の中で描かれたまま額面通りに受け取るなら、育てる時期を選ぶ必要もなく、芽さえ出ていればほんの数日で収穫できるまで育つのだ。
餓死なんて考えるのもアホらしくなるレベルである。
「んー」
そしてなるほど、これはきっと庶民の実際の貧困問題をもとにしている。不作を簡単に解決した魔法はつまり、貴族がひたすら貯め込んだ富のことであり、それを分け与えてくれるような貴族様がいればなあ、という願望であり皮肉なのだろう。
「ふふっ」
と、そこまで根拠のない憶測だけの仮説を繰り広げたところで、そんな自分になんだか笑ってしまった。
……捻くれて考え過ぎかもしれない。少なくとも、今はそうやって裏を勘繰ってばかりいるよりは、素直に夢に溢れた物語の世界を楽しみたかった。
「つぎ。えーと……『ゆきのおうじさま』」
と、もぞもぞだらしなく上半身だけ伸ばしてはベッドの横へ絵本を置いて、積まれた一番上のその絵本を取ろうとして。
「アリス。入ってもいいか?」
父の声にその手を止めた。
短く返事を返しながら倒していた身を起こして座ったところで、ちょうどノブが回った。
「調子はどうだ? ……ついさっきミランダがこっちに着いて、改めて挨拶をな」
「姫。お久しぶりです!」
そんな父に続けて入ってきたのはミラさん。
どうやら予定通り、早速こっちに移ってきたらしい。
……久しぶりという言葉をなんの違和感もなく受け取りそうになったが、よくよく考えてみれば誕生日に訪ねてくれたばかり。確かに以前はほぼ毎日顔を合わせていたからか、久しぶりな気はするが、そもそも訓練やその他諸々があるだろうに毎日というのがおかしい話だったのだ。
「たんじょうびにあったよ」
「とても長い一週間でした」
「そ、そう……」
なんとも微妙な表情になった私にあはは、と軽く笑顔で返したミラさんは何やらそのまま父と目線を交わして。小さく頷いた父に、同じく頷きで応えた。
「……では、私はお借りさせていただくお部屋に荷物を運ばないといけませんので」
「あ、うん」
「また後で来ますね、姫!」
「またね」
そうしてその場で跪いて頭を下げ、いかにも騎士らしい礼をして去っていくミラさんを父と二人で見送った。
扉が閉まると、ベッドのすぐそばまで寄って、私と目の高さを合わせた父。
父が頬を掻くのは、何か言いたいことの切り出すタイミングを伺っている時にする癖だ。
「どうしたの、とおさま」
「いや、その。なんだ」
「うん?」
「……あんまり部屋に来てやれなくてすまないな」
直前のその沈黙にはきっと、私が怪我をして寝込んでいるのにあまり看てやれなくて、という言葉が秘められているのだろう。目は口ほどにモノを言うのだ。
「だいじょうぶ。とおさま、がんばってる。しってる」
言われなくとも、こんな事件があった後だ。領主である父が、事後処理やらに追われてとんでもなく忙しいであろうことは自明の理である。時間が取れないのは仕方がないのだ。
大丈夫、わかってるから、と労わりを込めた目でそのバツの悪そうな黒い瞳をじっと見つめて。
「――――ああ、アリス……」
「デジャビュ」
すると何やら悲しみを堪えたような呟き。
きっとまたどこかで食い違っているのだろうが、もはやこの程度のすれ違いはもう慣れっこである。すべきは困惑ではなく父がどう捉えたのかを把握することだ。
……訂正できるかはまた別の話だが。
「デル・ジャ・ビュー、か」
「でじゃぶ!」
いつかのベルさんとまったく同じ勘違いをした父に、繰り返さざるをえなかった。
私のデジャビュの発音はよっぽど流暢な帝国語に聞こえているらしい。違うのに。
「……アリス?」
「なんでもない」
「そ、そうか」
若干困惑した父。いや困惑してるのは私である。
「それで、怪我は、どうだ。まだ痛むか?」
「あんまりいたくない。だいじょうぶ」
あくまで直接触らなければ、という注釈が付くが。
そして、これは恐らく本題の前振りだろう。既にベルさんから聞いていたのか、知っていることを確認するような声遣いだ。
「――――魔法の検査を、受けてもらおうと思ってな、それで……」
と、そこで一度切って何やら躊躇した後、意を決したように口を開く。
大方、何を懸念しているのかは想像がつく。
「もしアリスが外に出たくなかったら、シスターを……例えばクロリナさんをこっちに呼んで調べてもらってもいいんだが」
どうだ、と目で尋ねる父。
やはり、今回のことで私が外に忌避感、あるいは恐怖を抱いていないかを気にしているらしい。
もちろん、まったく何も気にしていないわけではない。怖いものは怖い。
しかし、もう二度と出たくないというほどのものかと聞かれればそうではない。
……にしても、魔法検査か。これは是非とも受けたい。自分の本当の魔法がなんなのか、あるいはあれがそのまま特性だったのか、明らかにしたいところだ。
自分の、ということもあって、少しわくわくしてくる。どこで受けるのだろうか。シスターというくらいだからやはり宗教に関連した施設なのだろう。
例えば。
「きょうかい?」
「ああ」
「そっか」
イメージまんまである。
クロリナさんにまたわざわざ来てもらうのも悪いし、それに警戒として騎士が多数パトロールしている今はむしろ安全だろう。
なら、答えは決まっていた。
「うん。いく」
「行く、というのは……」
「きょうかい、いく」
すると目を見開いた父。断ると思っていたのだろうか。
まあ確かに、考えないようにしていただけで、トラウマ級の出来事ではある。けれど、だからといってこのまま引きこもりに逆戻りするわけにもいかないのだ。
「無理して、ないか?」
してないと言えばこれまた嘘になる。まだ傷口も生々しい、ほんの一、二週間前の出来事なのだから。ザックリ終わったことだと割り切れるほど私の精神は強くないし、きっと絶えず警戒してしまうだろう。
「りはびり」
「りは……?」
「ううん。だいじょうぶ」
でも、だからこそなのだ。まだ自分の中で整理の付ききっていない今だからこそ、あえて外に出て、楽しい思い出を作りたい。そうすればきっと忌避感も薄れてくれる。
「……そうか」
「うん」
「それなら、いつにしようか。アリスの自由に決めていい」
「うーん……」
傷がまだ痛むなら当然先延ばしにしたいが、現状街まで歩くくらいなら対して支障はなさそうなので、正直いつでも構わない。
だが決めさせてくれるというなら、どうしようか。
ぶっちゃけ、リハビリもそうだが、何より警戒や忌避よりも自分の魔法に対する好奇心の方が強い。
これが例えば見識を広めるための散策などであれば、少し躊躇していたかもしれないけれど。
まだ完全に傷も治らぬというのにここまで積極的なのは、偏に自分の魔法への興味関心である。
そうして徐々に決まりつつあった私の中の天秤は、完全に魔法へ傾いた。
「……じゃあ、あした」
「そうか、明日だな。わかっ――――あし、明日!?」
「あした」
納得したように頷いたかと思えば繰り返して、口をあんぐり開けたまま固まってしまった父を眺め、その反応にちょっぴり恥ずかしくなって目を逸らした。
まあ、急だろう。
でも後回しにするよりは思い切ってすぐに出た方が良い気がしたのだ。
思い立ったが、というやつである。さすがに今日という勇気はなかったが。
「ほ、本当に無理していないか? アリス、気分が悪かったりするならすぐに言ってくれ」
……いや、やっぱり急過ぎたらしい。完全に頭をやっていると思われたのかもしれない。それとも自覚がないだけで本当に気をやっているのだろうか。
「へん?」
「変、というか……いや、わかった。アリスがそういうなら、明日にしよう」
「うんっ!」
その微妙な空気を、そして外への不安と警戒を誤魔化すように、やはり相棒を抱き締めながら。
この身に眠る、魔法の正体に心を躍らせていた。
「ふー、これで一段落、かしら」
ある程度私物を配置し終え、ノクスベルさんに空けてもらった部屋を眺めて一つ息を吐いた。
しばらく館に移り住むことになったが、姫の誕生日のあの夜に聞いた時は、思わず三度も聴き直してしまった。空き部屋なんてあるかと首を傾げていればこの待遇。
普通、いくら親衛騎士とはいえ、既にいる使用人の部屋を空けてまで迎え入れるといった事例は今まで聞いたこともない。整理の終わった、私室であるはずのこの空間を前にしてもまだ実感がいまいち湧いてこないくらいだ。
「本当にいいのかな」
話し合った末の決定だろうとはいえ、私のために部屋を退いたノクスベルさんにはもう頭が上がらない。
……いや、でも。
「姫と、同室……!」
やはり移動できるような空き部屋はなかったらしく、彼女がどこに収まったのかと聞いてみれば、なんと姫の部屋だったのだ。
そう。つまり毎日、姫の起き抜けのぼうっとした姿からあどけない寝顔まで、その全てを間近で目にすることができるのだ。……いや、そんな羨みはともかく。
姫と同室になると言った真摯な表情の中、わずかに緩んでいた頬。隠しきれなかったのであろうその喜びは、市場であんなことがあって、表には出さずともひどく傷心しているだろう姫をすぐそばで見守ることができるという安堵にも似た気持ちからだろう。
私も幼き御身へ忠誠を誓い、それに誇りを持っているとはいえ、向ける想いの強さではやはり到底彼女に及ばないのだと再認識した。
私は、まだまだ姫を……アリス様を、知らないのだ。
「よしっ」
ぱし、と軽く頬を叩いて、気を入れ直す。
もう、あんな思いはしたくない。浸るほど愛着が湧いていった日常の全てが崩れ去るような感覚は、二度と味わいたくないものだった。
咄嗟に矢から姫を庇った、本当の〝騎士〟の背中を目指して。そして自分を犠牲にしてまでその傷を癒やした本当の〝姫〟を守るために。
これからその二人の姿をすぐ後ろから追って、いずれ前に立ってあらゆる矢の盾になれるように精進するのだ。
……できる、きっとできる。
ラブリッド将軍から受けた〝特別訓練〟は、自分を憎しみかけすらした私に、新たにそんな自信を持たせてくれていた。
「さて。まずは従者の方々に挨拶を……」
と、椅子から立ち上がろうとして、ひらりと机から一枚の羊皮紙が落ちた。
「ん……ああ、カルミアの」
拾い上げて確認すると、それは報告書を提出する時に一緒に渡してくれと頼まれたものだった。当然私より先に護衛としてここに住んでいるカルミアも昔から報告書を提出しているのだろう。
しかし、報告書にしては羊皮紙一枚というのは短過ぎる。それに仕事の書類にしてはやけに可愛らしい砕けた文字だ。
考えてみれば、私に頼む理由もよくわからなかった。二人でバラバラに渡しては二度手間だからかとも思ったが、カルミアはそんな横着をするような性格ではない。
「……ごめん、カルミア」
私的な何かなのだろうと判断して、けれどどうしてもその中身が気になってしまって。小さく親友に謝りながら、内容に目を走らせた。
「なになに……『突然の手紙、ごめんなさい』」
なるほど、やはりかなりその文字に従って、前置きもかなり砕けた文章だ。
親しい間柄らしい。
『本当は直接話すべきだってわかってるんですが、どうにもあなたを目の前にするとうまく言葉が浮かばなくて』
まさか恋文だろうか。カルミアのそんな一面なんて見たこともなかったので、とても新鮮だ。
『だから、手紙で素直な想いを、少しずつ伝えることにしました。よければこれからも手紙を送ることを、お許しください。……カルミアより』
……いや、まて。これを渡す相手は、誰だった。
そんな、まさか……!?
「ラブリッド将軍とカルミアが!?」
ありえない組み合わせのカップルが頭をよぎって。
それを確かめるべく、私は慌てて一番下の宛名を探した。
「『親愛なる我が父 ラブリッド様へ』……なんだ、良かった。びっくりした」
浅くない関わりを持つ将軍と親友が結婚する姿をなんとも言えない顔で祝福せねばならぬのかと思ったが、どうやら杞憂のようであった。
「うん…‥?」
ホッと、ちょっと失礼な安堵を吐いた頭が、ようやく冷静になって。
「父……、――――父ぃいいいぃぃッ!? ちょっと、カルミアあああああああぁ!!」
すぐさま別の混乱と驚愕に包まれた私は部屋を飛び出して。
声を荒らげて隣の部屋にいるカルミアに怒鳴り込むのだった。
次回更新は本日18時です。