第6話 オブシディアンの瞳
「おはようございます、アリス様」
「……ぁふ、おはよぉ」
ぼうっと曇った視界。そこにあるのはいつも通り相棒とベッドの天幕……ではなく、ベルさんの優しい笑顔だ。すると繋いだ方はそのまま、もう片方の手が布団から這い出す。。
「よくお眠りになられたようで」
「ふあ……?」
そうしてまだ微睡んだ瞳をぱちぱち覚ましながら、乱れた髪の毛を整えるように私の頭を梳き撫でた。
しばらくそのままうっとりと撫でられていて、やがて起き始めた頭がだらーんと晒したままの情けない顔に気づいた。慌てて口元の涎を拭い、相棒を抱き締めながら隠れるように布団に潜り込んだ。
「あら、ふふ」
「うぅ……」
ごそごそと隣で起き上がる気配を感じて、一瞬布団の中に入り込んだ外気が肌を撫でる。
そのまま座ったベルさんはぐぐっと背伸びをして。
「んんっ、は……」
もう従者の仕事に向かうのだろうか。
布団からちょこりと目元だけ出して窺った私に、微笑みが応えた。
「もう……?」
「そうですね」
とベルさんは少し考える風に首を傾けると、腰を後ろに引っ張り、壁に凭れかかって。
ポンポン、と。私を手招きするようにその膝を叩いた。
「もう少しのんびり致しましょうか、アリス様?」
「……うんっ」
単純に確認のつもりで止めたわけではなかったのだが、せっかくもう少し構ってくれるというのだから素直に甘えておこう。
這いずるような、決して令嬢らしからぬ動きでそばに寄って、昨晩のように膝に頭を乗せた。
「……お怪我の具合はどうですか?」
「んー」
少なくとも、座ったりこうして動いたり、ちょっとの動きで痛むことはほとんどなくなっていた。もちろん、直接押されたりするとやはりかなり痛い。が、これもまあ直に薄れていくのだろう。
治った、とはとても言えないが、もう大丈夫だくらいは言っても良さそうだった。
「だいじょうぶ」
「……無理をしてはいけませんよ?」
「うん。ほんと。うごいてもいたくないよ」
じーっと真偽を確かめるベルさんの深い黒曜の瞳を、綺麗だなぁなんて間抜けな感想を抱きながら見つめる。すると嘘ではないと信じてくれたのか、ホッと心底安堵したような吐息が零れたのが聞こえた。
「順調に良くなっているようで、本当に良かったです」
「よかったよかった」
いや、本当に良かった。あの動くたびに激痛が走る状態はもう勘弁願いたいものである。
今も不注意に背中でぬいぐるみを踏んでしまったり、傷跡を下にして寝返りを打ってしまったりした時など、毎回声にならぬ絶叫を上げて悶絶している。
昨晩はベルさんががっちり抱き締めていてくれたおかげで大きな寝返りは防がれ、涙目で目を覚ますことはなかった。これは予期せぬ幸い。
ベルさんは精神的どころか、物理的にまで安眠の手助けをしてくれるらしい。そろそろベル〝さん〟ではなく、ベル〝様〟と崇めてしまいそうである。
「さて、アリス様? 朝食の用意に行ってもよろしいですか?」
「ぁ、うん」
ベルさんにも従者長としての仕事がある。あまり拘束するのは良くないだろう。
大人しく膝から頭を退け、そのまま身を起こして座る。
「朝食を持ってすぐに戻ってきますね。それと、今日のお昼頃にはミランダさんがこちらに移ってこられます」
「みら?」
「はい。先日特別訓練が終わったみたいです」
「そっか」
まあ、ベルさんが私の部屋へ移ってきたのだから、もう近くこっちに来るのだろうというのはわかっていたことだが、昨日の今日だとはあまり考えていなかった。若干急な進め方である。
……いや、そうだ。よく考えなくとも私は市場で襲撃されたばかりなのだ。ならば親衛騎士、直接の護衛であるミラさんが常にそばにいられるように急ぐというのは何もおかしい話ではない。
「マリアーナ内ではしばらく騎士による見回りも行われるみたいですね」
「えっ」
そんな大事になっていたとはまるで知らなかった。というかここでひたすら痛みと格闘していたから知る由もなかった。見回りか。仮にも貴族が襲われたとなれば、確かにそうもなるのだろう。
貴族を前世の支配者階級に置き換えれば、やはり現地ではしばらく厳重なパトロールが行われるのであろうことは容易に想像できた。
「おうちの、まわりも?」
「はい。街だけではなく館の回りと、ここから街までの道も何人かが見回りをするらしいですよ」
「すごい」
「アリス様が……貴族の一人娘が、襲われたというのはそれほどのことです。それもマリアーナでとなると……」
貴族というのがいかに絶対的な身分なのかはさすがにわかりつつある。ゆえにそれ自体には、驚きこそすれど信じられないとまではいかない。
気になったのは、続く〝マリアーナでとなると〟という言葉だ。
隣国との唯一の連絡路であるここが要衝であるのはわかる。つまりここで何かが起こるというのは隣国にも影響を及ぼす可能性があるから、ということだろうか。
……隣国、すなわち。
「ていこく?」
「――――っ……!? ……なんと。いえ、迂闊な口でした」
しまった、と口を押さえたベルさんは、見開いた目で私を見ると諦めたようなため息を一つ。
「……アリス様の勘付かれた通り、ここマリアーナは少し他とは違う特別な決まりがあるのです」
「とくべつ」
そんなことを勘付いた覚えはないが、まあ帝国に関することだというのはあながち間違いでもなかったようなので、とりあえず頷いておく。
「はい。マリアーナは、かつての戦争で王国と帝国の間で定められた、非武装中立地帯なのです」
「ひぶ……ちゅう……」
「非武装中立地帯。お互いに武器を持てず、戦うのもダメって決められた場所なんです」
「ひぶ、そう、ちゅーりつちた、い」
「はい。お上手です、アリス様」
果たして今後使う機会があるのかどうかも微妙な単語を覚えながら、ベルさんの言ったことを咀嚼する。
ここマリアーナは王国も帝国も武装できぬ中立地帯らしい。帝国との唯一の連絡路であるならば当然近くに国境警備の騎士がいるはずだというのに、あの日そういったものを一切見かけなかったのはこういうことか。
無論、私が見逃しているだけかもしれないが、あっても小規模なものか、それこそ機密事項なのだろう。
つまり、あの日のことを客観的に見れば。
中立地帯で、その領主の娘、すなわち要人が殺傷される事件が起こったわけだ。
……なるほど、そりゃまずい。
「あぶない」
「……はい。王国と帝国の仲が悪くなってしまうかもしれません」
真相はどうであれ、中立地帯で殺傷が起きたということ自体が外交問題に発展しかねないということだ。これで仮に王国の上層部が帝国の仕業だとでも言いだせば、当然向こうは反発してくるのだから。
「だいじょうぶ?」
「今回の件はラブリッド様が迅速に動かれて、恐らく反体制派、今の王国に不満を持つ人々ですね、彼らの仕業だと判明していますから、帝国との問題にはならないはずですが……」
「そっか」
そういえばラブリッドさんは将軍なんだった。きっと父との深い友好関係もあって、より優先して動いてくれたのだろう。
「っと、申し訳ございません、アリス様。……どうも、アリス様と話していると、つい同じ歳の人と話しているような気分になってしまいますね」
「えっ……」
ドキッ、と胸が鳴る。ベルさんにはどこまで見えているのだろうか。
その澄んだ瞳が五歳の令嬢ではなく、私自身をじっと見つめているような気がして、思わず目を逸らした。
すると、なんて、と照れるように笑ったベルさんはベッドから降りながら。
「アリス様が大人になる頃には、私の方が子供に見えてしまうかもしれませんね」
「そ、そんなことない」
あながち間違いとも言い切れない冗談に微妙な顔をして。それにクスリと微笑んだベルさんは扉に手を掛けた。
「では、朝食をご用意致しますので、少々お待ちください」
「うん。ありがと」
そうして扉が閉じたのを見送って、ぽすんとまた背中を倒した。
寝起きから難しい話を聞いて頭が疲れてしまったらしい。ベルさんが戻ってくるまでぼーっとしていることにしよう。
そうしてぎゅっと胸に抱いた相棒は、相変わらず笑顔のままだった。
「……どうだ?」
「はい、ハッティリア様。ひとまず、もうあまり痛むことはないみたいで、眠っている時も特に魘されるような様子はなく」
「そうか……」
アリス様の状態を報告し終えると、ハッティリア様はホッとしたように書斎の固い椅子に凭れた。張っていた緊張の糸が解れる様子が目に見て取れた。
……私がアリス様の部屋で住むことになったのは、何もミランダさんの部屋を空けるためだけではなかった。
「しかし、体はともかく……どうだろうな」
「はい……深い恐怖になっていないと、いいのですが」
初めての外出で襲撃を受け、殺されそうになった。そして、きっと一番心を預けてくださっている私が血を流す様を目の当たりにして、さらにそれを引き受けて幼い身には大き過ぎる怪我を負う。
それは一体、どれほどの外に対する恐怖を植え付けたのだろうか。
つまり私が部屋を同じくすることになったのは、それを探り、癒やすためでもあった。むしろ、そちらの理由の方が大きいといえる。
しかしあの時、傷ができていくのによく泣きもせずに耐えたものだ。きっときっと、激痛だったはずだ。なのに、ましてや大丈夫と、大好きと、笑顔を浮かべて。
「アリス様……」
「ベル」
「……はい。私が落ち込んでいても仕方ありません」
「……いや。気持ちはわかる。痛いほどな」
と言って私を宥めるハッティリア様の顔も、私と同じく暗く沈んでいた。
なにせ、やっと外に出られるようにまで、と思った矢先だったのだ。治りかけの、一番柔い状態の傷口をさらに深く抉ったようなものである。
今は元気そうに見えなくもないが、一時的に感情が抑えられているだけかもしれない。こういう心の傷は徐々に大波になって襲ってくるのだ。
「変わった様子はあったか?」
「特に」
ありません、と続けようとして、ふと何かが引っかかった。
そう、いつものアリス様と違った様子。ハッと、今更それに気がついた。
「いえ、ありました」
「どんな……?」
昨日今日を同室で過ごす中で、直接心に触れて体験したことだった。なんとなく感じていた違和感の正体に、私はようやく気がついたのだ。
それはいくつかの顕著な行動となって表れていた。
最初は、昨晩。眠る前のこと。
「――――ベッドで、一緒に。そばで寝たいと、袖を掴んで引きとめてまで」
「……普段のアリスなら、絶対にしないな」
甘えるようなアリス様の様子に絆されて気が回らなかったが、そもそもその甘えるような様子が普段と違うということに気がつくべきだったのだ。
あの、わがままの一つも申されないアリス様が、断りを入れてもなお、物理的な引きとめに出てまで一緒に寝てほしいと甘える?
ありえない。普段の様子から、そんなことは今までまずありえなかった。
「はい。今思えば、とても必死そうに、縋るようにお願いをされていました」
あの姿の裏には何がなんでも、という必死さがあるように思えた。潤んだ、捨てられた仔犬のような瞳で、甘えるように、伺うように見上げて袖を引くいたのだ。
とても断れぬと感じたのは、なるほど、その愛らしさゆえのみではなかったらしい。
「なるほど」
「……その後も、今朝私が部屋を出るまで、手を強く繋いだまま一度も離されませんでした。部屋を出ようとした時も悲しそうな、寂しそうな瞳で……きっと、行かないで、と」
起き抜けに仕事に戻ろうとした時、そんな私をアリス様は視線で引きとめた。これもまた、潤んだ瞳で。初めは寝起きの欠伸か何かで涙が溢れただけかとも思ったが、ぎゅっと強く握ったままの手がそれを否定していたのだ。
「……怯えて、いるのか、アリスは」
「そうかも、しれません」
重い沈黙が部屋に広がった。
そうだ、きっと、怯えているのだ。表に出ないように必死に隠しながら。
けれど耐えられずに、人の、私の温度を求めたのだ。
毎晩魘されているのは傷の痛みのせいだと思っていた。しかし、違ったのかもしれない。
アリス様が苦しんでいるのは、傷は傷でも背中のものではなく、心の方ではないのか。
ベッドの上で一人、迷惑だからと遠慮という名の怯えに震え、助けも求めずにひたすら胸を押さえて蹲る姿がふと浮かんで。
きゅっと、胸が苦しくなった。
「申し訳ありません、ハッティリア様、その」
「……ああ。そばにいてやってくれ。しばらく従者長の仕事は気にしなくていい」
私ももっとそばにいてやれたらいいんだが、と苦々しい表情をするハッティリア様の目の深い隈。
私は知っている。犯人を突き止めるため、そして向こうの目線では失敗に終わった襲撃が再度行われるのを牽制するため、領主として、いや、一人の父親として、寝る間も惜しんで必死に動いているのを知っている。
騎士団への要請書に、諜報部への協力依頼。机に積まれた大量の書類が、それを示していた。
ならば、私にできることは。
ハッティリア様のため、私のため。そして何よりアリス様のために、私ができることは。
「ミランダが着いたタイミングで、彼女を連れて私も部屋にいく」
「畏まりました。では、失礼致します」
――――負った傷の冷たさに、その小さな身が凍えてしまわないよう、手を繋いで、抱き締めて、言葉を交わして。そばでただ、温めてあげることだけだった。
次回更新は明日の12時です。