第1話 起床と苦笑
「アリス? 入ってもいいか……?」
「……あい」
お目覚めになったと伝えてきます、とベルさんが部屋を後にしてからしばらく、ノックとともに聞こえたのは父の声。
魔法を使って傷を引き受けてから三日は寝込んでいたらしい手前、少し気が引ける。
きっと、すごく心配してくれていただろうから。
そんな気持ちが表に出た小さめの返事が余計に心配をかけたのか、扉を開けて部屋へ入ってきた父は安堵を心配で上塗りしたような表情をしていた。
「……まだ痛むか?」
ベッドのそばに寄りながらそう言った父を安心させようと、身を起こしながら。
「だいじょうっ……いッ」
大丈夫、と。そう言おうとしてビリッと背中から痛みが響く。思わず目を瞑って、涙さえ漏れてしまいそうになりながら、しまった、と思った。
恐る恐るまぶたを開くと、父はさらに険しい表情になっていた。
完全に逆効果である。
「待て、待て、起きなくていい……、無理をして傷が開いたら大変だ」
「……うん」
起こしかけた中途半端な姿勢の体をベッドに横たえ直し、ごもっともな心配に素直に従う。
ゆっくり倒した背中をチラリと見て、恐らく包帯の状態を確認した父は、出血がないことに少しホッとしたような顔で私を見つめた。
「アリス。……すまなかった。私も一緒についていくべきだった」
どうやら父は自分がついていかなかったことを悔いているらしい。確かに二つ名が付くくらいの騎士だったらしい父が一緒に来ていたら、少し状況は変わっていたかもしれないが、もしかすれば逆にさらに悪い状況になっていた可能性だってあるのだ。終わってからこうすれば良かった、というのは結局結果論でしかない。
だから、父がこうして気に病むようなことではなかった。
「ううん。みんな、いきてた。だから、だいじょうぶ」
「……アリス」
すると父はひどく悲しそうな声で目を伏せて。
「歪ませたのは私……俺だ。だが、だからこそ言わなければならない」
「うん?」
私の手を包むように握って、もう一度瞳を見据えて。
「自分に価値がないなんてことは、思わないでくれ……」
「えっ」
「俺もベルも、そしてアリシアだって、周りのみんなは、ちゃんとアリスを愛している。アリスは、こうしてここにいるだけで価値があるんだ。支えになっているんだよ」
「えっ?」
涙を堪えながら悲痛に話し始めた父の語りの意味がわからなかった。
過剰なくらい向けられている愛情はきちんと感じ取れているし、失敗したり迷惑をかけたりしているなと思うことはあっても、特に自分に価値がないとは感じたことはない。それは向けられた愛情を裏切ることになるからだ。
だというのに何をどう勘違いしたのか父は困り顔の私の手を強く握って、すまないと訴えてくるのだ。
……いや、なるほど。咄嗟に思い浮かんでたまたまうまくいったあの〝引き受ける〟魔法は、確かに傍から見ればかなり自己犠牲的だ。そこにかねてのすれ違いを重ねるとそう見えるようなこともあるかもしれない。
けれど、私にそんな感情はない。確かにベルさんが傷を負うくらいなら、とは思ったが、それは自分の価値への疑問ではなく、偏にベルさんのことが大好き、という強い気持ちから生まれた想いだ。
そこの誤解は解いておかねばならない。
「わかってる、よ。でも、ちがうの。みんながすき、だから」
目を見開くようにした父。きっと自らの勘違いに気がついたのだろう。
良かった。うまく誤解を――――。
「――――っ……、ああ、アリス……!」
……誤解を。
「どうかそんな悲しい諦めは抱かないでくれ……きっと、きっといつか自分を好きだと思えるように!」
「……あれ?」
解けてなかった。
むしろ、うおおお、アリス、アリス、と私を抱き締め、背中を撫でながら号泣すらし始めた父。
……もはや、私はもう何も喋らない方が良いのではないか。
そんな考えすら浮かぶほど、私は私の言葉によって他人が思うことを想像するのが下手らしい。
「な、なかないで、とうさま」
「こんな俺をまだ父と呼んでくれるか、アリス……父さんたちが、絶対に幸せにしてやるからな……!」
「う、うん。ありがと……?」
まあ、些細なすれ違いはひとまず置いておいて。きっと父も、心配からくるストレスが溜まっていたのだろう。なんせ、自分の娘が武装した何者かに襲われ、紆余曲折の末に大怪我を負って意識のないまま数日間も寝込むなんてことになったのだから。
私は娘など持ったこともないのでわからないが、例えばあの時魔法がうまくいかず、ベルさんがそうなっていたら、私は夜も眠れずひたすらそばで泣いていただろう。
そして父は館の主、貴族で領主という立場の都合上、きっとそれを表に出すことはできなかったはずだ。今その抑圧されていた感情の全てが解放されて、こうして勘違いと号泣という結果になって現れたに違いない。
落ち着いて冷静になれば、きっとこのすれ違いは解けるだろう。きっとそうに違いない。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
「アリス、アリス……っ!」
自分がそうさせた罪悪感と、なぜだか、ベッドの端で突っ伏して感情を爆発させる姿に、ほんの少し微笑ましさも感じてしまって。落ち着いてと、いつも私がされるように、今度は私が父の頭を撫でてやった。
しばらく泣くとストレスを発露し終わったのか、目元を拭いながら顔を上げた父。
「すまない……むしろ、私が慰められてしまったな」
「だいじょうぶ」
できるだけ柔和、なつもりの笑顔を浮かべてそう言うと、父はふっと笑って。
「……やはり、血は受け継がれるんだな。そういうところ、アリシア……母さんにそっくりだ」
「かあさま?」
「ああ。情けない話だが、母さんも何度か、こうして泣く私を宥めてくれたことがあった」
「そっか」
なんとなく、顔も知らぬはずの母に泣きつく父の姿が目の前に浮かんだ気がして、無意識に頬が緩んだ。
それはきっと、彼らにとって大事な、愛おしい記憶だったはずだから。
「……そうだ、アリス」
「あい」
思い出に浸っていたのだろう父がそこから戻ってくると、再び口を開いた。
「もうすぐ、誕生日だな」
「うん」
そう、丸三日眠っていたというが確かなのなら、誕生日はもう目前。というか、明日のはずである。
感慨深そうに父は続けて言う。
「広間でパーティーをするつもりだったんだが、その様子じゃ起き上がるのも厳しそうだ」
「……うん」
それは先ほど無理やり身を起こそうとして実感した。少し動いただけであんな、貫かれたような痛みが走るようではとてもパーティーに参加はできないだろう。
「だから、ここで、アリスの部屋で、みんなで食事するのはどうだ?」
「みんな、で?」
「ああ。私とベルやメイドはもちろん、ミランダも。ラブリッド……は仕事で無理だろうが、そうだな。シスターのクロリナさんもひどく心配していた。アリスがいいなら、彼女も」
なるほど、パーティーというほど豪勢にやるわけにはいかないが、この部屋で少し集まって談笑するくらいならそれほど負担はかかるまい。私だけベッドで寝ながらというのはちょっと失礼な気もするが、実際問題として起き上がれないのだから、まあ仕方ない。
そして、そこまでして私の誕生日を祝おうとしてくれることに深く感動を覚えて、瞳が潤んでしまった気がした。
それを抱き上げた相棒で隠しながら、頷きを返した。断る理由なんてもちろんなかった。
「うん……」
「父が娘の誕生日を祝うのは当たり前のことだ。……私も、それがようやくできるようになった。父として祝わせてくれてありがとう、アリス」
真摯に私の瞳を見据えてそう言った父は、確かに私の〝父〟だと感じられて。
余計に潤んだ瞳に気づかれまいと、相棒をさらに強く抱き締めながら、小さく、けれど素直な想いを返した。
「あり、がと。……とうさま」
「ああ。愛してるぞ、アリス」
「……わたし、も」
それからしばらくの沈黙を置いて、見計らったかのように、いや、実際見計らったのであろうタイミングでまたノック。今度はベルさんだ。
「失礼します、アリス様、ハッティリア様」
「失礼しますっ!」
扉が開いて、入ってきたのは二人。カルミアさんも一緒だ。
二人の手には朝食の載った盆。私と、そして父の分だろう。相変わらず気配りのいいことだ。
「ああ、ベル、カルミア。ありがとう」
「ありがと」
揃って礼を述べた私と父に笑顔を向けたベルさんは、いつものようにベッド脇の棚へ盆を運んで、扉を閉めたカルミアさんがそれに続く。
「っと、失礼しました、ハッティリア様。小さな机をお持ちしましょうか?」
カルミアさんが棚の上に置くべきか父へ手渡すべきか迷って、それを見たベルさんがフォローを入れた。すると父は小さく首を振って。
「いや、いい。たまには固っ苦しいの抜きで食べるのもいいだろう」
「ありがとうございます、ハッティリア様」
それを父の優しさと見たのだろう、カルミアさんは父に盆を渡して、それからもう一度ありがとうございますと礼をした。
では、と扉の方へ戻って開いてから、カルミアさんは私へ振り返って。
「その……怪我がちゃんと治ったら、また一緒に魔法の練習をしましょうね、アリス様!」
「……うん。また、しよ」
「はい、楽しみにしています! では失礼しますっ!」
ぱっと笑顔になったカルミアさんはなぜか騎士の敬礼をして扉を閉めて。それを見送ったベルさんがまったく、といった様子で、苦笑交じりのため息を吐いていた。
ふっと続けて笑った父が受け取った盆をそのまま床に置いて、蓋を開いた。スープの匂いが立ち上ったのに合わせて、ベルさんが私の朝食の蓋も開けてくれた。
中身は父のものとほとんど同じ。スープとパン、それに朝食に出るには珍しいステーキ。けれどスープの野菜はほんの少し多いように思えた。
きっと私の傷が早く治るように、と栄養価の高いものを少しでも多く用意してくれたのだろう。
「……ありがと」
「いえ。治るまではたくさん食べて、ゆっくりしていましょうね、アリス様」
「うん」
そうして一つ私に微笑んで、続けてご無礼失礼致します、と父に一礼を加えたベルさんはベッドの端へ座った。いわゆる〝あーん〟の構えである。
「いただきます」
「ああ、いただきます」
私が毎日言うものだから、いつの間にか館のみんなに浸透していた、いただきますの手合わせを父として。
まずはスープがスプーンで私の口に運ばれる。
「ぁむ」
「熱くないですか?」
「らいじょおぶ」
はふはふ、と空気を咥えて冷ましながら喉へ流す。塩と野菜の旨味、そして肉を焼いた時に出た油を使ったのか、スープはとても香ばしい。温度もいつもながらちょうど良い。口に入れた時、ちょっと熱いくらいが一番おいしいのだ。
「……ほう、牛肉か」
「はい。ハングロッテ様が市場に卸されたものを少し買ってきました。明日の誕生日の晩餐に出す予定ですが、少し余ったので朝食に使わせていただきました」
「なるほど、メリーランド牧場の牛か。確かにこれは、質がいい。美味いな」
「はい。高額にも関わらず、いつも卸した直後には売り切れてしまうくらいですから」
どうやらこのステーキはブランド的な価値のある牛の肉らしい。この身になって初めて肉を食べた時はそのおいしさに感動したものだが、これはさらなる感動を与えてくれるのだろうか。
期待とともにステーキを眺めていると、微笑んだベルさんが私用のサイズに切り分けたソレの一切れをフォークで刺す。ジュワリ、と白いお皿に黄金の肉汁が溢れた。
「ごくり」
「アリス様。あーん……?」
「あーん」
胸をドキドキと高鳴らせながら、ゆっくりと、慎重にそれを口に含んだ。
まず口内に広がったのは油の香りだ。しかし、なんだ、これはしつこくない。むしろ爽やかさすら感じる質のいい油。これが本物の肉油というわけなのだろう。
「ぁ、む」
さらに高まった期待を瞳の光に表して、そして、ついに歯を突き立てた。
ぐじゅ、と深く沈んで弾力を感じさせたかと思えば、次にはブツブツと繊維が解れて千切れていく心地のいい食感。次から次へと溢れる肉汁が濃厚な味わいで舌を包み、薄く感じる塩が絶妙にそれを濃過ぎないくらいの密度に占めていた。
「――――おい、しい」
ああ、天国が見えるようだった。私の脳裏に浮かぶ情景。
牛や羊が穏やかに暮らす牧場で寝そべり、ベルさんの膝枕でうつらうつらと舟を漕いで……。
「アリス様? ……ふふ、大変お気に召したようで」
「はは、どうやらそうみたいだな」
何やら私の様子を見守っている二人の声は聞こえているが耳に入らず、ただただこの肉のおいしさに感動していた。たっぷり咀嚼したそれをこきゅりと喉の奥へ通して、胃に温かな幸せが広がる。
「ふあ……」
「ふふ。また好物が増えましたか、アリス様?」
「……もっと」
あーん、と口を開けた私にベルさんが、「喉に詰まらせないようにゆっくり食べてくださいね」と釘を刺して、父が同じく肉を味わいながらそれを見守っていて。
肉が詰まってジタバタ暴れるその情けない姿を想像した私は、こくこくと真剣な表情で頷くのだった。
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