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ノブリス・オブリージュ ~引きこもり令嬢が何故聖女と呼ばれたか  作者: 剥製ありす
第一章 奴隷労働者の彼がいかにして貴族令嬢になったか
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第2話 致命的なすれ違い

 ――――アリ……ま


 ぼんやりと、暗闇の外から声が聞こえた。


 ――――ま、アリスさま


 ……ああ、夢を見ていた。

 労働の果てに命を落としたあの日の夢だ。本当に、嫌になる。なにせ覚えている限りで楽しいことなどなにひとつもなかったのだ。

 強制された労働の末に得られるひとまずの安堵を幸せと呼んでしまえるなら、なるほど、いつか誰かの唱えた共産社会は実現するのかもしれない。

 だが、人という生き物はそんなに強くないのだ。()を見なければ己を保てないのだ。全てが横に連なる世界というのは(いささ)か無理がある。

 まどろみに消えていくそんな灰色を、白くかき混ぜて追いやる手。どこからか伸ばされたソレは私の髪を梳き撫でて。(りん)、と不思議と心が安らぐ声色でおはようの鐘が紡がれる。


「――――さま、アリス様。起きてください。お食事の時間です」


 優しくも眩しい陽の光をまぶたに浴びて、ゆっくりと両目を開く。とても心地の良いとは言えない夢のせいで(しか)めた顔を、けれどすぐに和らげた。

 目を覚ました私を迎えたのは、錆びついた鋼の天井ではなく、聖母のような微笑みを携えたベルさんだ。誰かに包まれる朝のどれだけ幸せなことか。

 そう、でもベルさん。しれっとスカートを(まく)っておむつを確認するのはやめてください。今日は漏らしてません。……今日は。うん。やめよう、精神衛生上非常によろしくない。


「おは、よぉ……」

「はい、おはようございます、アリス様」


 ゴシゴシと目元を擦って、ぽうっとぬいぐるみを抱き締めた。抱き締めてから恥ずかしくなってぬいぐるみに顔を埋めて隠した。

 これではまるっきり子供ではないか。そしてその行動がさらに幼さを加速させていることに気がついたものだから、もうどうしようもない。ふふ、とベルさんの漏らした愛おしいものを見るような声は聞かなかったことにしたい。

 くまを抱えたまま固まっている私をお慈悲のノーコメントで済ませた彼女は、ベッドの端に腰を落ち着けたまま傍らへ手を伸ばすとコップと食器の乗った丸盆を持ち上げて、枕の隣に置いた。


「本日の朝食にはアリス様の大好きなリンゴをご用意致しました」


 大好き、というか前世では希少品と化した何も加工されていない果物を目にして驚いただけなのだが、それはまあいいとして。

 リンゴは丁寧にも一口大に切り分けられている。添えられた野菜のスープと一切れのパンを一瞥して、気怠い体を目覚めさせる。


「んんっ、ん……」


 緩慢な動きで上半身を起こして一息、伸びをした。カーテンから漏れた日差しが頬を優しく撫でて、気持ちがいい。脱力とともに、ふぅ、とため息。ようやく頭が回り始めた気がする。


「……また、嫌な夢でも見られましたか」


 え、うん。いや、確かに良い夢ではなかったが……寝起きの私はそんなにしかめっ面だっただろうか? だとしたら悪いことをした。たとえ自分に向けられたものでなかったとしても、起こした相手に嫌な顔をされるというのはきっと、良い気分ではあるまい。

 否定の意味を込めて微笑んでおいた。


「……そうですか。どうか、寂しい時は私を呼んでくださいませ?」


 なぜか哀しそうに私の髪を撫でるベルさんは絶対何か勘違いしている。

 はて、世間一般的に見て“手のかからない良い子”を心がけてきたつもりなのだが。うーん、何かこの世界の常識とのズレでもあるのだろうか。


「さ、朝食を食べましょう。スープが冷め過ぎてしまいますわ」

「あい」


 そういえば出されたスープを熱いと思ったことがない。毎度、適温にしてくれているのだろう。仮にも今は貴族令嬢なのだから、これくらいは当たり前なのかもしれないが、ここまで尽くされるとなんだか申し訳なくなってくる。

 今は感謝を伝えることくらいしかできないが、いつかベルさんには恩返しをしたいものだ。


「あぃ、がと」

「ああ、どうかそんな哀しいことを(おっしゃ)らないでください。私はいつでも、アリス様を想っております」


 何かが致命的にずれている気がするけど、まあ。ところで、ベルさんほどの美人にいつも想っているなどと言われてはそういう意味とは違うとわかっていてもドキッとする。

 頬が赤くなっているか確認する(すべ)はないが、思わず手を当てた胸は早鐘のように鳴ってしまっていて。聞こえるはずもないのにそれがベルさんの耳に届いたら、と羞恥に(もだ)えて俯いてしまった。


「アリス様……。大丈夫、です、大丈夫……」

「ふえっ!?」


 不意にふわりと抱き締められて、肩が跳ねる。漏れた声は思いの外甲高かった。

 一体何が大丈夫だというのだろうか。私なんて相手にしてないからドギマギしようと知ったことではないということだろうか。

 ……やっぱりおっきい。そして柔らかい。ぐぬぬ。今度は別の意味で自らの胸を押さえた。


「アリス様は独りではございません。私が付いています。それに、ハッティリア様……お父様もそろそろ立ち直られるでしょう」

「たち、なおる?」

「っ……! いえ、そう、もうすぐ今のお仕事が落ち着いて、会えるようになります」


 何やら失言した、とばかりに悲痛な表情を浮かべる不思議なベルさんはひとまずおいて、なるほど、仕事が落ち着く、立ち直る、というくらいなのだから、仕事で何か大きなミスでもしたのだろう。それでずっとその後始末に奔走している、と。

 それでは確かに、まったく私に顔を出すことができないのも道理だ。貴族というのだから何か大きなプロジェクトなのだろうか。労働の規模に比例してミスの処理もより面倒で時間のかかるものになっていく。

 前世では仕事上で失敗などしようものならペナルティとして減給され、それが解除されるまでの数年は過酷な労働量をこなさなければとても生きていけなくなるというのが常識だった。

 この世界でもそうだとは思わない、いや思いたくないが、世界が変われどやはり人は人だ。同じような社会構造をしていても不思議ではない。

 まあ何にせよ、今は仕事が大変なのだろう。そしてその気持ちや過酷さは、よくわかる。貴族というのも楽ではないらしい。前世の“彼ら”にも見習って欲しいものだ。

 父の近況はなんとなくわかった。母も同じような状況なのだろうか?

 うんうん、と頷きながら、大丈夫、仕事なら仕方ない、とベルさんへフォローを入れて、


「しかた、ない」

「――――、あぁっ! アリス様……なんと、なんと、」


 途端、彼女は目を見開いて、次に両手で顔を覆いながら涙を零し始めた。

 ……えっ。なにこれ。どういう状況なのか、誰か頼むから教えて欲しい。そんなおいたわしや、みたいな風に泣かれるようなことを言った覚えはない。


「申し訳ありませんっ……! お考えの通り、アリシア様は、アリス様の出産後間もなくして既にお亡くなりになっています。ハッティリア様はその死に塞ぎ込んでらっしゃるのです……こんなこと、その娘であり、その上まだ齢四つのアリス様にお伝えするべきではないと、ずっと、黙っていました」

「……えっ」


 仕事で忙しいわけじゃなかったのか。いや、まあ思わなかったわけではない。既にいないのではないか、と考えたことももちろんある。

 ベルさんの言うように確信していた、というわけではないのだが、そうか。

 この世界に産んでくれた母の顔を見ることもできないというのは悲しい。声を聞いたことがなくとも、顔を覚えていないとしても、母親は母親だ。


「そっ、か」


 しんみりと心が沈む。これで顔も声も知っていれば涙も流していたのだろう。

 けれど、そうではないのだから、悲しくこそなれど、どこか他人事のようにも感じてしまう。例えるなら職場の同僚が倒れて運ばれたのを目にした時のような心境だろうか。いや自分もいつか、という危機感はないから少し違うな。

 父も、それで塞ぎ込んでしまった、というのは仕方ないだろう。養育を従者に任せてしまうというのは少し、……かもしれないが。

 けれど、私はこうして恵まれた生活を送れているのだから特に憤りは感じない。むしろ同情の念の方が強く浮かぶ。

 そして、なるほど。ならば立ち直る、という言葉はベルさんの視点では確かに失言だろう。今まで隠していたのに堰を切ったように私に全て話してしまったのは、ベルさんも辛かったからなのかもしれない。彼女がいつからこの館にいるのかは知らないが、決して浅からぬ想いがあったのだろう。

 そんな納得と理解の目で、涙を流すベルさんを見守る。


「ですが、ですがっ……! アリス様は愛されております! アリシア様も、ハッティリア様も、そして何より私が! ですから、ですから……」

「うん、うん」


 辛かったんだね、いいこ、いいこ、と。もちろん口には出さない。私にできるのは彼女の慟哭を真摯に――――


「――――ですから、そんな、達観したような、諦めたような哀しい瞳を、されないでくださいッ……!」


 受け止めるだけ……うん?


「えっ」

「心を(とざ)さないでください、お願いです……まだ、好物を口にされた時の笑顔を見ていたいのです。まだ、ぬいぐるみを抱いて眠るあどけない姿を見ていたいのです。また、絵本を読み聞かせてあげたいのです……どうか、どうか、」

「えっ……」


 なぜだか悲壮な目をしたベルさんにきつく抱き締められる。おっきい、くっ。……じゃなくて。

 脳内はまったく混乱の極みだ。溜め込んだ感情を発散するベルさんを見守っていたらなぜか心を鎖さないでと懇願されていた。まとめてみたが、まったくもってわからない。

 彼女がどのような思考を辿って、どのような視点でその結論に達したのか甚だ不明である。ひとまず私は大丈夫だと言いたい。体も心も至って健全の範囲内である。


「だいじょう、ぶ」

「ああ、アリス様、アリス様……」


 若干引き攣った笑みで何も問題はないと示すと、しかし余計に強く抱き締められる。ぐえ、と潰れたカエルのような声が漏れてしまう、が、ベルさんはそれを嗚咽か何かだと勘違いしたのか大丈夫、大丈夫、と優しく背中を摩ってくれる。

 その通り、大丈夫である。むしろ困惑している。そして宥めなくとも大丈夫なことに気がついて欲しい。


「やはり、ハッティリア様には一刻も早く立ち直ってもらいましょう。私が、そう伝えます」

「う、うん……」


 傷心ならそっとしてあげて欲しいが、言っても止まりそうにない。愛情に飢えているとでも思われているのだろうか。


「……申し訳ありません、取り乱しました。しかし、先ほどの言葉は紛れもない本心です。私はあなたを愛しております、アリス様」

「わ、わたし、も……ぁ」


 勢いに釣られて告白まがいのことをしたのに気がついて、尻すぼみにか細く声が消えた。顔はもう考えるまでもなく真っ赤だろう。なんなら瞳も潤んでるかもしれない。いや、お互いそういう意味で言ったわけではないにしてもだ。意識してしまうともう取り返しがつかない。

 でも、まあ、ベルさんが嬉しそうに微笑んでるので良しとしよう。


「寝起きのところを……重ねて申し訳ありません」

「だいじょう、ぶ」

「……スープ、すっかり冷めてしまいました。お取り替えしますか?」


 さっきより少し目を腫らしたベルさんがいつも通り、いやいつもより(わず)かにトーンを高く問いかける。何やら吹っ切れた様子だ。私としては何が起きてどう収束したのかさっぱりなのだが。

 とりあえず、せっかく作ってくれたスープを下げてもらうのもなんなので、食べよう。返事を待つベルさんに行動で答える。丸盆の上のスプーンを手に取って、スープを一掬い。口に運んだ。

 おいしい。いや、零れたりしていなくて良かった。ベルさんの熱い抱擁でベッドは少なからず揺れたものだから、ヘタをすれば枕元がびちょびちょになるところだった。


「おいし、よ?」

「アリス様……いえ。さて、スプーンを貸してくださいませ? 私にあーん、させてください」

「……あい」


 ちょっぴり迷ったが、大人しくスプーンを渡す。ここで断ればきっとしょぼん、と落ち込んだベルさんを見る羽目になるので、それは遠慮したい。笑っている彼女が一番好きなのだ。


「はい、アリス様? あーん……」

「ぁ、あーん……」


 耐え難い羞恥を耐えながら味わう冷たいスープは、けれどほんのり、温かかった。


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