第16話 雪解けなくして春風吹かず
「――――かった」
各々が手札を確認してある程度の戦略を練る中、その声は唐突に響いた。刺のない柔らかい、愛らしいと表現されるようなその声音で紡がれる音は、しかし拙い言葉遣いとは裏腹に自信に満ちていた。
一瞬、空気が固まったのがわかる。誰もが動きを止め、あるいは思考すら止めて彼女を見た。
私……ラブリッド・ホワイトリードもその例外ではない。
「……は、はは。アリス、まだ始まってもないんだ、そう思うのはちょっと早いぞ?」
ハッティリアのその声は震えている。彼女のいきなりの勝利宣言を諭すかのように振る舞っているが、実際は違うだろう。
見たのだ。その幼き姿に。
重なったのだ。その勝利を疑わぬ金色の瞳が。
今は亡き、ハッティリアの妻、彼女の母。そして私の友人――――アリシアの面影を、見たのだ。
「ふっ、くくくっ……」
私はそれがおかしくて仕方なかった。強気なアリシアに押され気味のハッティリア。今の光景は、まさにそれそのものだった。
彼女が産まれてからのこの四年間、私はずっと見てきた。……いや、見てきた、つもりだった。
いつ覗いても、見ることの叶うのはベッドの上で眠る姿だけ。普段の起きている時の様子をノクスベルに聞いてみても、絵本には興味を示すものの基本的にそこから動かないという。
心配だった。当たり前だ、親友と親友の間に生まれた娘だ。気にならないはずがない。
そしてつい最近になって、ハッティリアがやっと彼女と接するようになったと聞いた。それ自体は喜ばしいことだ。
だがしかし、だからといって彼女の様子が劇的に変わるようには思えなかった。
ゆえに、今日ここへ、直接顔を見に来たのだ。
もちろん、暗殺を目論む反体制派への牽制としてミランダを送り込むため、というのが主な目的だ。
しかしミランダを送るだけなら、別に私が直接出向く必要はなかった。それこそここの場所だけ教えて、ハッティリアに今日彼女が向かうとだけ伝えればいい。だが、どうしても落ち着かなかったのだ。これでは将軍の仕事にも気が入らない。
……そして、いざ大胆にも勝利宣言をした彼女を目にすれば、どうだ。
確かに、そのひどく疲れたように垂れ下がった目は悲しく見えるかもしれない。少し、言葉の発達が遅いかもしれない。引っ込み思案で、人見知りかもしれない。
だが私は目にした。アリシアに似ながらも、アリシアと違って儚い印象を抱かせる顔の奥に。好奇心と慈愛の心と、そして、ちょっとイタズラ好きな、そんな彼女の面影を見たのだ。
アリシアがそこにいるなら、何も心配することはない。我々は外から、普通の愛情を注いでやればいい。
この齢で税を理解するほど聡明だとも聞く。アリシアが晴天なら、儚く穏やかながら知性に溢れ、こうして郷愁と前進を促すような瞳をする彼女はきっと、白雪と称されるような存在になるのだろう。
今まではあくまで、“友人の娘”だった。だが、違う。彼女は、アリスはアリシアの血を受け継ぐ、歴とした貴族令嬢だ。
たった今はっきりと認識が変わったのを、自覚していた。
「ラブリッド……?」
「――――いや。はは、なるほど。……間違いなく、アリシアの娘だ」
私がそう言うとハッティリアは少し固まって、やがて理解したのか情けない笑みを見せた。それは彼女、いや、“アリス”の後ろに控えるノクスベルも同じで。
唯一関わりのないミランダと、話の当人であるはずのアリスが首を傾げているのが、またおかしくて仕方がなかった。
「さて、アリス嬢。手札を見ただけで勝った、と言い切ったその手腕。存分に見せてもらおうか」
「ふふん」
任せろ、とばかりに胸を張ったアリスに、空気は一転して和やかになった。
ならばいざ、と笑いかけてやりながら、自分の手札を見た。
「ふむ……」
三、四、七、九、十、二。それと六とジャックが二枚ずつに、キングが三枚。
なかなか悪くない手札だ。一位抜けは難しいかもしれないが、そうそう負けることはないだろう。
要らない四から十を捨てつつ、周りの手札が減ってきたのを見計らって二で場を流して主導を握る。
あとは恐らく返されることはないだろうペアで場を回し、キングのトリプルからの三であがり。
こんなところか。つまり、二をいつ切るかに全てかかっている。少なくとも、誰かがアリスにジョーカーを使わせた後だ。
「レディファーストだ。アリス嬢、君から出して構わない」
「……いいの?」
と場に問いかけるアリス。もちろん、誰も本気で勝ちに行こうとは思っていない。あくまで一緒に遊んでやろう、というスタンスだ。
何よりこれが初めてで、ルールも知ったばかり。ならばジョーカー以外にも、ハンデは必要だろう。
「もちろん」
当然、全員が頷きで応えた。しかしレディファーストという口実は少し失敗したか、隣のミランダは若干微妙な表情をしていた。いや、申し訳ない。別にレディでないと言っているつもりではない。
……淑女と呼べるかは甚だ疑問であるが。
「じゃあ、わたしから」
ミランダのその空気を悟ってか否か、アリスはさっと手札から一枚抜くと、卓の中心に置いた。
赤い騎士の絵柄の描かれた札。書かれた数字は十一。情熱を意味する、俗にジャックと呼ばれるカードだ。
「……いきなり飛ばしてくるな、アリス」
続くハッティリアは一枚目に切るには惜しいジャックをなんなく手放したことに苦笑しながら、パスを宣言。
キングのトリプルは崩したくないし、二を切るには早い。私もパスだ。
「うーん……」
一瞬で番の回ってきたミランダが何やら唸っている。考える余地があるということは、ジャック以上がそれなりにあるらしい。そのまま十数秒悩んだ挙げ句、彼女は手札の一枚を場に重ねた。
「失礼します、姫!」
離した手の下には一の文字。ハートのエース。ここでそれを出せるということは、なるほど。まだ一と二を複数枚持っているはずだ。どこで使わせようか。
「ない」
初めてとはいえさすがにまだ二やジョーカーを切る気はないのか、アリスはパスを選んだ。
続けてハッティリアと私も当然パスを選択。場が流れ、ノクスベルが出されたジャックとエースを回収する。
「よし……まずは」
空になった場へミランダが出したのは、八。あぶれたものを切ったという感じだろう。つまり他の八より下のカードは、持っているならペア以上の可能性が高い。
「……あい」
アリスはそれに十を重ねた。特におかしなところはない、普通の手だ。
しかし、初めてで“普通の手”を打てるところから、まずその年齢に見合わぬ知性が滲み出ている。
あるいは適当に出しただけかもしれないが、きちんと考えてから出した風な間があった。
いや、確かにいくつかルールを省いて簡易化してるとはいえ、税を理解できる頭でディスタンをできない理由もないのだろう。
まったく末恐ろしいことだ。その将来を想像して、思わず変な笑みが漏れそうになった。
「仕方ないか」
続けてハッティリアがジャックを切った。二を使うにはまだ早い。だが、私の手札は始まってからまだ一枚も減っていない。キングのトリプルを崩してでもここで割り込んでおくべきか、どうか。
……待て。隣のミランダが何やら手札の並びを変えている。何か仕掛けるつもりだろうか。
やはりここは様子見、パスだ。
「苦しいな」
イマイチ流れが回ってこず、結局一枚も手札が減っていないのに苦悶の声を漏らしながらパスを宣言。
するとミランダは待ってましたとばかりに、勢いよくジャックの上にカードを重ねた。
「……なるほど」
数字は二。アリスがジョーカーを持っているのをわかって尚の攻めた手。しかし返されては切り札を無駄に消耗しただけになる。何か保険、つまり、まずもう一枚二を持っているか、一が複数ある。
どの道少し博打な手なことには変わりないが、なればこそ、そうまでしてもう一度場を流したい理由があるはずだ。
ということは、やはりペアやトリプルを複数持っているのであろう。どうやらここから一気に決めてしまう腹積もりらしい。
さて、これにアリスはどう応えるか。
「じょーかー」
「ぐっ……止められますよね。……さすがです、姫」
なるほど、止めたか。
どこまで考えてのことかはわからない。だがここでジョーカーを打つのは少なくとも悪い手ではない。
これを通せば流れがミランダに向くのは見えているからだ。
そしてミランダにしてみれば初挑戦、かつまだ幼いアリスがこれを止めるとはあまり考えていなかったらしい。驚きとともに唸って、称賛の微笑みをアリスに送った。
もちろん、ミランダとてその可能性をまったく考えなかったわけではあるまい。巻き返しの算段も立てているだろうが。
「では、失礼致しますね」
と、またノクスベルが場を回収していく。ついでにいつの間にか空になったそれぞれのカップに飲み物が注がれていき、少しゲームに間が空いた。
「んく、んく……」
小さな手と口で必死に喉を潤すアリスは見ていてとても微笑ましい。
ずっと見ているのも失礼か、と手元のカードに目線を戻した。目に入ったキングの絵柄。
「王、か」
――――ふと呟いた言葉に、ここまでのゲームの流れを思い返して、はっとした。
王国の現状はひどいものだ。王と王妃がその権力を傘に横暴と私利私欲の限りを尽くし、そのおこぼれを集る一部の貴族、魔導師、騎士の中位から上位階級の者たち。下位階級である庶民の不満は溜まりに溜まり、今にも爆発しそうだ。
だというのに、それらの階級では庶民蔑視の風潮が強まるばかり。貧困と過酷な労働に喘ぐ庶民を援助するどころか、より一層自分の周囲を固めて保身に走る。
私はそれに、反感を抱いていたはずだ。
だが、ディスタンとは皮肉なものだ。それがゲームの性だとはいえ、私も、そしてハッティリアも。様子見をするばかりで強い札、つまり上位の階級をまるで切らない。
積極的に勝負を仕掛けているのは二を切ったミランダ、それをジョーカーで止めたアリス。……若い二人だけだ。
これでは現状の変化を恐れ、保身に走る彼らと何が違うのだろうか。私が勝利を目指してこうするように、彼らもまた生き残るためにそうしているに過ぎない。
……やはり、諸悪の根源は王と王妃か。
先代の王の時代は良かった。まったく庶民への差別がなかったわけではない。しかし、それを変えようとする政策がいくつも貴族議会に挙げられた。帝国の脅威が目に見えて迫っていたというのもあるだろうが、国中が一つにまとまっていたのだ。
どうにか、あの時代にもう一度戻れぬものだろうか。
そんな王国軍を率いる立場としては相応しくない言葉を胸に抱きつつ、アリスがカップを置く音を聞いた。こういう席でこんなことを悩むのは無粋だ。
赤く揺れるワインを一口含み、気分を入れ替えたところで、ベルが言った。
「では、アリス様が次を出すところからですね」
「うん」
それぞれが椅子に座り直し、さて、というところで、なぜだかアリスは笑った。
小さく口角を上げ、スノウベアーのぬいぐるみを膝に抱いて、その手札に手をかけ。
――――そうしてそこから、“四枚”のカードを抜き出した。
「……まさか」
――――『かった』。
アリスはゲームが始まる前に、確かにそう言った。
……それは本当に、このゲームに対してだけの言葉か?
ゾクリ、と背筋が寒くなった。
こちらをじっと見据えるその金色の瞳に、何もかもを見透かされている気がした。
ただの、ただの偶然かもしれない。いや、そうだろう。いくら何でも、この時に私が何を考えるか、などということを予測できるはずもない。
しかし、たとえそうではなかったとしても、偶然だったとしても、アリスの示したそれは一つの答えだった。
そしてこの瞬間、私は荒唐無稽なはずのその考えに踊らされているのだ。それはある種敗北と言い換えてもいい。
アリスは、答えを寄越したのだ。
あの時代に戻れぬだろうかという、誰もが一度は抱いた、表に出せぬ考えに。
言葉を探しているのか、あるいは決着を演出するためなのか、一拍の間を置いて――――
「かくめい!」
場に翻ったのは、四枚のクイーン。
革命と、アリスはそう言った。
その通り、それは札の序列を全てひっくり返す、一発逆転の役。
ジャックが、クイーンが、キングが、力を持たぬ札……“庶民”の、下になる。
すなわち、力ある者が、力なき者の支えとなる。
王に貴族、騎士に魔導師。魔力や富を持つ者はそれを支える庶民の存在を忘れてはいけない。我々には、我々を支える彼ら庶民を守る義務がある。
どこかその図式を想起させるこの役は、王国を築き上げた先人たちが建国の標語として謳った、そのとある信念に準えてこう呼ばれていた――――
「――――“ノブリス・オブリージュ”」
そこから先、“天秤”、“貴族”、そして“冬”の意味を持つノーブルマーク、スペードのエースが最後の手札として場に叩きつけられ、ノクスベルが興奮した声でアリスの勝利を宣言するまで。
私も、ハッティリアも、ミランダも。
誰も、アリスを止めることはできなかった。
次回更新は明日の12時です。