第11話 芽生え
「中にまたいくつか部屋があって、それがそれぞれ私たちの部屋になっています」
「ふーん」
手を繋いだまま、厨房とは階段を挟んで反対側にある部屋の扉の前まで付いていくと、ベルさんがそんなことを言いながら金属製のノブを掴んで押す。
「私の部屋は一番奥の右側の扉です」
続く案内を聞きながら開いた扉の向こうへ体を入れる。
しかし後ろからでは半開きの扉と背中に阻まれて中がよく見えず、扉とベルさんの間をすり抜けようとして、気づいたベルさんがすっと体を退けてくれたのですんなりと隣に並んだ。
そうしてやっと全貌を視界に入れる。中は簡素な照明で照らされた廊下と、左右の壁にそれぞれ扉が三つずつの計六部屋。
勝手に赤髪さんと呼んでいるあの人を始めベルさん以外のメイドももちろん時々見かけていたが、存外人数はそんなに多くないらしい。もしかしたら既に全員を目にしているかもしれない。
だが確かに、大きな館だとはいえ維持にそんな何十人も必要というほどの広さではない。常駐する従者の数はどこの貴族の家でもこんなものなのだろうか。
「ろく?」
「はい。今このお家で暮らしているメイドは私を含めて六人です」
「そっか」
扉を閉めるベルさんに数もしっかり言えるようになりましたね、とだんだん増えてきた語彙を褒められながら、部屋は一番奥だと言っていたのでそちらに目を向ける。
自室の扉には恐らく私の名前が書かれているネームプレートのようなものがかけられていたが、ここの扉には一つもかかっていない。まあ、あくまで従者で、かつ入れ替わりなどもあるからだろう。
「あそこがべるのおへや?」
「はい。何もありませんけれどね」
ベルさんに付いて奥へ進む。扉の前まで来るとベルさんが開けようとして、既にその先を求めてじーっと眺めていたのに苦笑される。
ちょっと失礼だったか、と目線で謝って、いえ、と応えるのと同時にベルさんが扉を押し開く。
「どうぞ。ベッドとお花くらいしかありませんが」
すっと横に控えたベルさんと繋いだ手を離して、部屋の中に入る。
自室より一回りか二回り小さいくらいの部屋。けれど私の部屋が無駄に大きいだけで、人一人が過ごす分には十分な広さだ。
部屋の左側に質素なベッド。右側に小さな棚とその上に花瓶。棚の中身はきっと衣服やその他日用品だろう。さらにその隣には恥ずかしながらも見慣れてしまったおまるが……おまる?
「おまる……」
「はい?」
「といれ、は……?」
「と……? それはなんでしょう」
「……ううん」
いや、そうか。まだトイレは発展どころか生まれてもいないらしい。なぜかトイレに関してはやたら進んだ技術を持っていた国に住んでいた身としては、それが当たり前過ぎて存在しないという発想がなかった。
道理でほとんどおまるにできるようになったことをやけに大げさに褒められたわけである。ここの文化ではおまるにできれば立派な大人なのだから。
しかし……いや。考えないようにしよう。それが普通なのだ。
ベルさんもおまるにする、という猛烈な違和感と妙な背徳感に見て見ぬ振りをして、逃げるように注意をベッドの方に向けて、そこで目が留まる。
それ自体はなんの変哲もない木製のベッドだが、その上に綺麗に畳まれた、掛け布団に使うシーツが目を引いたのだ。
部屋の家具の多くは装飾のない素材の色そのままのものなのに、そのシーツだけは薄く桃色に着色加工されている。
その唐突ともいうべきアンバランスが気になって、ベルさんを振り返った。
「ももいろ?」
「……え、ぁ。……は、はい」
「うん?」
なぜだか歯切れの悪そうな様子にさらに首を傾げて、すると意を決した、あるいは諦めたような、困った表情のベルさんが答える。
「……お恥ずかしながら、その。アリス様と同じ色のものが良かったので……給与を使って」
「えっ」
予想外の答えに今度は私が固まる。
要するに、私とおそろいの布団を使いたかったということだろうか?
ここまで綺麗に着色されたシーツとなればそう安くはないだろうに、態々給与を使ってまで?
「そっ……そっか」
返すべき言葉が見つからず、ぶっきらぼうにそう放って俯いてしまう。
ああ、やっぱりぬいぐるみを持ってくれば良かった。
「お嫌でしたでしょうか……?」
「ぅ、ううん、びっくりした、だけっ」
少ししょんぼりしたような声のトーンになったベルさんに慌てて否定で応える。
俯いた顔を上げて、仕方なく真っ赤な頬を晒しながら上目遣いで様子を窺う。
「だいじょうぶ?」
「は、はい」
安心したように肩を下ろしたベルさんを見て、私も安堵の息を吐く。
誤解からベルさんを悲しませてしまうのは勘弁願いたい。
けれど、やっぱりびっくりしたのは事実である。
確かにベルさんが私に少なくない愛情を向けてくれているのはわかっていたが、そんな姉妹みたいにおそろいを、なんて求めるほど深く愛してくれていたとは思っていなかった。
私はベルさんに最大の親愛を向けているが、それは半分一方通行なものだと思っていたのだ。
だが、そうではなかったらしい。
すると急激に気恥ずかしさが込み上げて、けれど幸福感に満たされていく胸にまた俯いてしまった。
熱っぽい頬を仰ぎながら、鼓動とともに呼吸が速くなっていく。
「あ、アリス様……? 大丈夫ですか?」
「だ、だいじょうぶ……」
今度は逆にベルさんが私を心配して慌てる。入れ替わった立場、けれど互いの思いの度合いはきっと変わらず、それが余計に体の熱を駆り立てる。
また行き場をなくした視線が今度は棚の上の花瓶の花へ向かう。
それは鮮やかな白色で、きっと母の部屋で見たのと同じものだ。
じっとそれを眺めてやけに昂ぶる体を落ち着かせようとするが、焼け石に水。
自分の体が、しかし自分の制御を離れていく。
「ふー、ふぅ……」
どくどくと高鳴る心臓の音がベルさんに伝わってしまわないか不安になって、意味がないとはわかっていても両手を胸に重ねて隠してしまう。
「アリス様……? お気分が優れないならお部屋に……」
「べ、べる……」
しゃがんで目線を合わせてくれたベルさんの顔が吐息のかかりそうなほどすぐそばにあって、さらに高まる熱に何がなんだかわからなくなって目が回る。
「ぐるぐる……」
何かが胸の底から溢れ出て、体中を巡っていくのがわかる。
ぐるぐると視界が回転する。見知らぬ知覚が何かを捉える。
一気に力が抜けていくような感覚がして、とても立ってはいられなくなって。
「ばたんきゅぅ……」
「アリス様、アリス様っ……!?」
崩れ落ちるように座り込んだのを見て焦ったベルさんが、背中を擦りながら意識を確認するように何度も私の名前を呼ぶ。
不意に部屋の外に気配を感じて、それを認識するのとほぼ同時にノックの音。
「従者長? 失礼します、どうしまし――――アリス様!?」
「っ、カルミア! あなたはハッティリア様をお呼びして! 私はアリス様をお部屋に!」
「は、はいっ!」
首と膝裏にベルさんの手が回されて、意識とともに体がふわりと浮いて。
開かれた扉の向こうに赤い髪が揺れたのを最後に、私の意識は一度途絶えた。
「……どういう状況だったのか詳しく教えてくれ」
「それが……館の中をご案内していたのですが、本当に、急に」
ベッドで眠るアリス様からほとんど目を離さぬハッティリア様の問いに答える。
どうも納得のいく答えが出ず、私たちは一様に困惑の表情を浮かべていた。
助けを求めるように後ろで控える赤髪のメイド、カルミアを見て、しかし当然困ったように首振りを返される。
――――数分前、ちょうど部屋へアリス様を運んでベッドへ寝かせたところでハッティリア様をお連れして部屋へ来た彼女、カルミアは、意識を失ったアリス様を見て思い当たることがあったらしく、何やらアリス様の髪の先を摘むとじっと見て。それからしばらく考え込んだ後、唐突に笑顔になるとおめでとうございますと言った。
なんのことかわからず困惑する私とハッティリア様を見て、慌てて付け加えられたのは魔力を発現されたようです、との言葉。
曰く、魔力の発現の際、急激に溢れたそれは逆さにした水桶の蓋を取ったかの如く一瞬にして体中を満たす。その量や勢いが調整されるには少し時間がかかり、ゆえに体の末端にその影響が出るらしい。
中でも髪の毛はそれがわかりやすく、よく見ると毛先がまるで生きているかのように揺らめくとか。
それは有名な魔力の初活性を確認する方法で、誰でもできるものだが、アリス様が倒れたということに動転した私やハッティリア様は元より魔力を持たぬ身なのもあり、知識としてはあってもいざそこに行き着くことができず、かつ発現に発熱などが伴うということを完全に失念していたのだ。
「アリシアの血をしっかりと受け継いで、魔力が発現した。それ自体は本当にめでたいことなのだが……」
腕を組んで悩み込むハッティリア様に頷きを返す。
そう、困っているのは、その発現の切っ掛け、抱いたはずの強い感情や衝動がなんなのか、まるでわからないということだ。
「何か前触れのようなものは?」
続く質問に手を繋いで一歩後ろを追従していたアリス様の姿を思い浮かべる、が、特にいつもと変わった様子はなかったはずだ。
「特に、何も……――――なに、も?」
――――違う。そういえば、倒れる直前。呼吸が荒くなり始めた時だ。何かを堪えるように、目を潤ませ、胸を押さえながら……。
「アイリス……」
「アイリス?」
そうだ、マリアーナ・アイリス。純白色の、かつてアリシア様にいただいた花だ。
花瓶に挿されたあの花を、じっと眺めてはいなかったか?
「いえ。そういえば、倒れる直前、アリス様は私の部屋の、アリシア様にいただいたアイリスの花を悲しそうなお顔で見ておられました」
「アリシアの……」
「はい。その少し前にも、アリシア様の部屋を覗いた時に、同じアイリスの花を眺めながら、誰かを想うような悲痛な表情をしておられました」
「……なるほど」
そう、かあさま、と聞き取れるか取れないかくらいのか細い声で呟いておられた。
知らないはずの母の匂いを思い出すように目を瞑っていたのだ。
「それは、つまり」
ふと朧に浮かんだ推測を形付けるために、カルミアに向く。
「カルミア、アリス様の状態は、間違いないのね?」
「はい。確実に、初めての魔力の発現……活性化による、一時的な発熱と昏睡です。魔力という、今まで微塵も感じなかったものを一気に知覚するものですから、子供の体には大きな負担となり、個人差ですがアリス様のようにある種の気絶を伴うこともあります」
魔力が発現したことは間違いない。
だとすれば、その切っ掛けの強い感情というのは。
恐らく同じ考えに達したハッティリア様と目線で確認し合い、頷いた。
「――――会いたい、アリシア様に、母に、一度でもいいから会いたい……そんな、切実な、けれど何より純粋で強い気持ち」
それは、あんまりな現実。
それほどまでに強く求めても、絶対にその願いが叶えられることはないのだ。
そしてきっと、賢いアリス様はそれを理解している。
ゆえに、溢れ出しそうなその気持ちを、会いたいという言葉を、私たちを困らせまいと、涙さえ浮かべながら必死に胸を押さえて堪えていたのだ。
「ああ、アリス様……」
それに少し遅れて理解したカルミアは言葉を失って、すぐに眉尻を下げて悲しみを表した。
やるせない沈黙が広がって、あらゆる想いが苦しそうに眠るアリス様に向けられる。
「そうだな、会いたいよな、アリス……っ」
ついに堪えられなくなったハッティリア様が涙を伝わせながら白銀の髪を撫でる。
「すまない、すまない……」
誰も悪くないというのに、それでもハッティリア様は漏らした謝罪とともに暖かい滴を一つアリス様の頬に落として。
それはどこまでも悲しく、どこまでも尊い光景で、私は何も言えなくなる。
それがさらに悲しみを追い討ちして、いつの間にか私の頬にも暖かいものが一筋伝っていた。後ろのカルミアも同じで、嗚咽を押し殺しながら何度も拭っているのが気配でわかる。
少しでもアリス様のそばにいたくて、眠るベッドのすぐ横へしゃがみ、ハッティリア様の隣に並んだ。
「アリス様……」
彼女は今、一体どんな夢を見ているのだろうか。
苦しそうな顔の通り、とても悲しく辛い夢の中にいるのだろうか。
ああ、神様。
どうか、夢の中では。
せめて夢の中では、悲しみ一つない、幸せな世界を。
どうか、この幼き主に。
「んっ、……んぅ」
「……アリス様?」
やがて再びの沈黙に包まれた部屋に、しかし音を取り戻したのはアリス様の声だった。
思わず呼びかけた私の声に応えるようにその目が薄く開かれて、ぼうっとこちらを眺めると、再びその幼く、それでいて柔らかいソプラノの声が響く。
「べる……」
「良かった、目覚めたか……」
「とうさま……? あ、ぇ、わたし……?」
きっと倒れる直前の記憶が曖昧なのだろう。
状況をまとめて、わかるように簡単な言葉で。
「アリス様。私の部屋にいたことは覚えておられますか? お布団のお話をしている時に、アリス様の体の中から魔力が溢れてきて、それで気を失われたのですよ」
「まりょく」
まだうまく頭が働かず、惚けた様子で繰り返された声。
感傷を振り払って、なるだけ安心させるような笑顔で応える。
起きて一番に目にした私やハッティリア様の顔が悲しみで塗れていたら、きっと優しい彼女はその心を痛めてしまうだろう。
そうはさせないよう、できるだけ明るいトーンで。
そして、悲しみと諦めを象徴するが如く濁ったその瞳が、少しずつでも幸せの色に変わっていくように。
「はい。アリス様も魔法を使えるようになったのです。おめでとうございます」
「ほんと?」
「はい、本当ですよ」
「おめでとうアリス。それと……私は、父さんは、できる限り、ずっと、お前のそばにいるからな」
今はそばに寄り添って、ただ成長を祝福しよう。
いつか、なんの屈託もない満面の笑みを見せてくれることを願って。
「私も、おそばにおります、アリス様」
「……う、うん……?」
きっと、同じ気持ちなのだろう。感極まったカルミアはベッドの横まで駆け寄るとアリス様の手を握って、ぶんぶんと振って。
「たくさん、たくさん一緒に遊びましょうね、アリス様っ!」
「……ぁ、せっきょうのひと」
「えっ」
……そういえばアリス様は、彼女の名前を知らないのだった。
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