第10話 魔法のかまど
「おもい?」
「いいえ、むしろ軽いくらいですよ、アリス様」
頭上から吐息とともに聞こえるベルさんの声。どの角度から見ても整った顔が、シャンデリアの光に照らされて映える。
一階へ通じる階段はその先の広間に即してかなり横幅が広く、手すり以外に支えとなるものがないのを危惧してか。あるいはその情けないまでの体力を心配されて、結局ベルさんに抱き抱えられて階段を下りることになっていた。
細く華奢な腕に反してかなり安定したお姫様抱っこをしてくれたのはいいが、なんというか、これはものすごく羞恥を煽られる。
しかしさすがに子供一人を抱えて階段を下りるというのは相応の負担がかかるらしく、ベルさんは涼しい顔を保ちながらもその息遣いは多少荒い。
「よいしょ、と……はい、アリス様、着きましたよ」
「あい」
ゆっくり足の方から手が沈んでいくのに合わせて床に両足をつける。半分中腰のような姿勢でそれを支えているのは辛いだろうから、さっさと体を起こして下りる。
ふ、と呼吸を整えたベルさん越しにほへーっと天井を見上げる。
「たかい」
「……あ、天井ですか? そうですね、この広間の上は二階まで吹き抜けになっていますから」
「ふき……?」
「はい、上の階の床が一部なくて、天井が下の階と同じになっているところのことですよ」
なるほど、“吹き抜け”のことか。知らない単語はこうして尋ねればベルさんが発音とともに意味を教えてくれるので、非常に助かる。コツコツ覚えていかないと。
「ふき、うけ」
「吹き抜け」
「ふきぬ、け」
「はい。お上手ですよ」
「ありがと」
「いえ、ふふ」
発音はなんとか合格点らしい。変に前世で母国語であった日本語と結びつけてしまうので余計に覚えるのが大変だ。間違って日本語で“吹き抜け”と発音しかねない。
「……きれい」
それにしても、発電機のみが並んだ無機質な空間から見上げる天井とは大違いである。
魔法特有なのか、まるで陽の光のような黄色の灯が木組みの天井から優しく降り注いで、私の金色の瞳を煌めかせる。
しばらく黙って、その感嘆をたっぷり味わうのを見守ってくれたベルさんは、きっと私がある程度満足したのを見計らって。掛けられた声が意識を頭上から戻させる。
「お気に召しましたか?」
「うん」
「それは良かったです。……そうですね、魔力灯の光はなんというか、優しくて。私も好きです」
「そっか」
「はい」
魔力灯というらしいあれらの照明がどんな仕組みで輝いているのかも気になるところではあるが、そんな質問をしてもベルさんが困るような気がしたので飲み込んでおく。
そうして今度は階段を背後にぐるりと広間を半周するように眺める。
広間の名の通り広い空間、ちょうど正面の中心部には長い卓。きっと来客時などに使うのだろう。さらにその先に扉があって、恐らく館の玄関に通じている。
「おおきいつくえ」
「ほとんど使われることはないんですけれどね」
「そう?」
「基本的に、ここにはラブリッド様くらいしかいらっしゃいませんから」
「らぶりっど……?」
「はい、ハッティリア様のおともだちです」
「らぶりっど」
「騎士様のえらーい人です」
「ふーん」
偉い人と聞いて、なんとなく立派な髭の生えた老練の男性を想像する。父と友達なのだから悪い人ではないのだろう。類は友を呼ぶ、はずだ。たぶん。
「ハッティリア様も昔は騎士だったんです」
「えー」
驚愕の事実……というほどでもないが、あの温厚そうな父が騎士だったというのはちょっとびっくりだ。
そういえば、元から貴族ではなかったというのは聞いたばかりだ。そして前は騎士だったということは、騎士時代に何か大きな手柄でも立てたのだろうか。
「ラブリッド様は、最近はよくいらっしゃっていましたから。実はアリス様も何度か会っているんですよ?」
「えっ」
それらしき人物に会った覚えは、というかそもそも私はベルさん他何人かのメイド、それと父しか知らない。
偉い騎士ということから勝手に男性だと思っていたが、もしやメイドだと思っていた人の中に?
「おんなのひと?」
「いえ、ラブリッド様は男性です」
「うーん……」
「ふふ、申し訳ございません。少々意地悪でしたね。会った、と言ってもアリス様が眠っている間に何度か覗かれただけです」
「ろりこん?」
「はい?」
「う、ううん」
いやもちろん冗談だが、当然ベルさんには通じない。けれどうっかり漏らしたこの言葉がもしも真実なら色々考えなければいけない。そんな趣味の友人に娘の寝姿を覗かせる父との付き合い方とか。
「どうかされましたか?」
「なんでも」
そんなくだらない妄想……で、あって欲しい冗談はさておき、とてとてと小さな歩幅で広間の中心の長い卓まで進む。
「ぺたぺた」
すぐそばまで来ると手を伸ばして、その表面を触ってみる。
見た目通り木製のそれは凹凸のほとんどない綺麗な平面で、きっとこれまた高価なものなのだろうと予想できる。
「すりすり」
その手触りの良さについ撫でるように手を動かしてしまう。
それから私にはちょっと高い椅子に這い上がるようにして座ってみて、足をぷらぷら。
「ふふん」
こうしているとなんだか自分が偉い人になったような気がして気分がいい。
そんな馬鹿丸出しの考えで無い胸を張っていると、いつの間にかすぐ隣に来ていたベルさんに頭を撫でられる。
「会議でもなさいますか? アリス様」
「まりあんのおいしさについて」
「議題は特産品ですか。アリス様はきっと素敵なお姫様に育ちますね」
「べるもすてき」
「ああ、アリス様……」
「べる……」
ノリノリである。さっきしたような光景を冗談交じりに焼き増ししながら、そういう柔軟でユーモラスな対応をしてくれるベルさんと話しているともっと遊んでもらいたくなる。
きっとベルさんには人を幼児退行させる力があるのだ。
ということにしておく。
そんな性癖を拗らせそうな不思議パワーのことはともかく、前々から思っていたことだがやはり無意識に精神が体に引っ張られているのだろう。それとも親愛、というものを初めて身近に感じられているからだろうか。
そう、親愛。ベルさんは私の自我が根付いてこの方ずっと世話をしてくれている。父には申し訳ないが誰よりも信頼と好意を向けている大切な人である。
この感情こそ、前世では知ることのなかった家族に向ける愛というものなのだろうか?
ベルさんを家族とするならポジションはどこになるのだろう。
母、という感覚はしない。いや、現状完全にベルさんに庇護されている状態ではあるが、仮にも大人だった精神はもう少し対等な、そんな何かを求めている気がする。
ならば――――
「べるねえさま?」
「――――ごほんっ!? ぁ、アリス様、それはちょっと、その、ハッティリア様や他のメイドたちに変な誤解を招きかねませんので……」
言ってから、それもなんだか違う気がする。姉というのは確かに母よりは対等な立場だろうが、ベルさんをそう呼ぶことには少し違和感を覚える。
「べるおねえちゃん」
「――――ぐっ……!? お、お気持ちは大変嬉しく思いますが、しかし……!」
呼び方を変えてみたがやはり違和感は拭えない。
時々ベルさんの仕草や言動にドキッとしたことがあるのを思い出して、恋と呼ばれるものかとも考えてみたが、やはり何か違う。
うーん。どうもしっくり来るものが浮かばない。まあ、そんなに深く考えることでもあるまい。そのベクトルがどうであろうと好意は好意である。
「うんうん」
「いや、けれど、しかし……」
自分の中の気持ちに一つ整理が付いたことで、その満足に頷く。
そんな短い思索から帰ってくると、ベルさんが何やらぶつぶつ百面相をしている。
一体どうしたのだろうか。
「べる?」
「は、はい!?」
「どうしたの」
「い、いえ……」
するとベルさんはじっと私を見つめて、それから目線を天井へ向けて。そのまま目を瞑るとぶんぶんと首を振った。
続けてふー、と自分を落ち着けるように吹かれた吐息にどんな意味が含まれているのかわからず、私は首を傾げてしまって。
「べる……?」
「……こほん。申し訳ございません、少し取り乱しました」
「だいじょうぶ?」
「はい。少々他のメイドたちに毒されていたようです」
「う?」
あの子には後で説教です、と唇を尖らせたベルさんの頬はその憤りからなのか少し赤い。
そんなベルさんはとっても可愛らしく眼福なのだが、一体なんの話なのかはまるでわからない。他のメイドのミスでも見つけたのだろうか。
一瞬ぼんやりと赤髪のメイドさんが脳裏に浮かんだが、さすがに偏見だと振り払う。
この間に父と対面した時のことしかり、確かにベルさんの説教といえば彼女のイメージが出来上がってしまっているが、この前はたまたま間が悪かっただけで別にいつもミスをして怒られているわけではあるまい。
日々清掃などの仕事を懸命にこなしているだろう彼女に対してそんなイメージを抱くというのは失礼というものである。
「いえ、アリス様はお気になさらず」
「んー、あい」
結局なぜベルさんが取り乱していたのかはわからずじまいだったが、あまり突っ込まれたくなさそうなので気にしないこととしよう。
「んー……」
微妙な空気に揃って沈黙してしまって、気を紛らわせるように反らせた視線が階段の後ろの壁、その左側に一つ、右側に二つそれぞれ扉を捉える。さっきは階段側から広間を眺めたので気がつかなかったが、まだいくつか部屋があるらしい。
「あちらの扉ですか?」
「うん」
同じく少し落ち着かぬ沈黙から抜け出したかったのか、普段よりもさらに早く私の意図するところを察したベルさんがすっかり平静を取り戻した声で、少ししゃがんで私と目線の高さを合わせると並んで扉に目を向ける。
「あちらの扉には私たちメイドのお部屋が、そっちには厨房と食料庫、隣は清掃用具や使わない家具などの倉庫があります」
ベルさんは左、右と卓側から見てそれぞれの扉を指差して、気になりますか、と誘ってくれる。特に断る理由もないので肯定を返す。
「では、厨房から覗いてみましょうか」
「うん」
伸ばされた手を繋いで、支えてもらいながら椅子を降りる。そしてベルさんに牽かれるまま向かって右側、手前の扉へ。近づくに連れてなんとなくいい匂いが漂ってくるような気がする。
「もう少しすれば昼食の用意が始まりますが、この時間は誰もいません。刃物や火の出る魔法具がありますので、何か触ったりしたい時は絶対私に聞いてくださいね?」
「あい」
変に触って火傷したりするのはもちろん嫌なので素直に頷く。
すると扉がベルさんの手に開かれて、ふわりと様々な食材の香りが鼻を擽る。
部屋の左に恐らくメインであろう調理台。
中心に大きなテーブルがあって、多種多様な食器や調理器具が積まれている。
右側にはかまどっぽい石造りのものがスペースを広く取っていて、その周囲だけ床が一段上がっている。それも木ではなく石でできているらしく、同じく壁も石材でコーティングされているようだ。
きっと何かの弾みに火が移ったりしないようにだろう。その隣に水の汲まれた桶まで並ぶ念の入りよう、いつの時代も火災は脅威ということだ。
「部屋の奥のあの扉が食料庫へ繋がっています」
ベルさんの示した先には大きめの扉。きっと匂いのほとんどはあそこから漏れたものだろう。
二重の扉によってそれが広間にまで届きにくいようにしているのだろうか。
「べる、これ、さわっていい?」
「はい。ですが、その穴の周辺と“着炎筒”……銀色の棒は、触っちゃダメですよ」
「うん」
食料庫の中だとか、よく斬れそうな包丁だとか、色々気になるものはあるが、しかし私の興味は一点に集中していた。
きっと火の出る魔法具、が指していたであろうこのかまど、らしきものである。
一体どんな仕組みで火をつけるのか。
いや、見た目は石造りのかまどまんまだ。表面を触ってみるが、なんの変哲もない石の感触。長方形のそれに、床に接するようにいくつか四角い穴が掘られている。
ここで火を育て、内部から上部までを徐々に熱するのだろう。
そして、そこから伸びる一本の棒。銀色のそれは途中までが筒のようになっているらしく、かまどにはそれぞれの穴の端に窪みがあり、そこに曲がった棒の先がハマるようになっているらしい。
見た目でそこまで理解したはいいが、逆にそれ以上は何もわからない。ので、ベルさんに視線で答えを乞う。
「これはですね、着炎筒といって、この棒の先の穴から“魔石”を入れると反対側の穴から火が出るようになっている道具です」
言うなれば、前世のライターやバーナーみたいなものだろうか。それは実際に使わなくとも便利だとすぐわかる代物だ。
しかし、生まれるのは新たな疑問。
使い方や便利さがある程度わかったのは良い。
だが、“ませき”、とはなんだろうか。
「ませき……?」
「はい。魔石とは魔力の塊で、魔法の道具には全てこれが使われています」
「ぜんぶ」
「はい。けれど魔石が採れる場所は王国には少ないので、私たちみたいに貴族のお家じゃないと使えないんです」
「ふーん」
なるほど、わかりやすいようにできるだけ簡単な言葉で説明してくれたベルさんによると、どうやらその“魔石”というのはとても希少な資源らしい。
ゆえに流通が制限されているということだろうか。
確かに、そのような希少で便利なものを市井に流してしまうのは賢明ではないのかもしれない。
あくまで“王国”という体制からすれば、の話ではあるが。
しかし、そう考えれば皮肉なものだ。
前世での権力者階級たちは一応自由な世界を謳っていたはずである。
だが蓋を開けてみればどうだ、産まれた瞬間から自由など皆無。
幼い頃から施設で管理され、そのまま義務教育という名の労働奴隷の下地作りを通り抜ければ職場の斡旋、という名の各コロニーへの割り振り。あとは死ぬまで働くだけ。
それはもはやタチの悪い専制独裁に近い。
ああ、自由というのは今すぐ餓死するか死ぬまで働くかの選択の自由ということだろうか。
……まあ、前世はともかく。貴族という恵まれた立場だからというのも多分にあるだろうが、私の見える範囲の世界ではこの王国の体制の方が前世よりよっぽどマシに思えてくる。
「……アリス様?」
「……ぁ、ううん」
そんなことを無駄に考え込んでいると、傍目にはひどくぼうっとしているように見えたのだろう。ベルさんを心配させてしまった。
まだぼんやりまとわり付いていた前世の柵を首を振って追いやり、なんでもない、とできるだけ明るめのトーンで応える。
首を傾げたベルさんであったが、それ以上何か聞いてくることはせず、ただ頭を撫でるだけに済ませてくれた。心地いい手櫛を受けながら、かまどから目を離す。
「満足なされましたか?」
「うん」
「では、次はどのお部屋へ行かれますか」
外れた目線に鋭く満足を悟ったベルさんが次を提案してくれる。
隣の倉庫も気にならないことはないが、ここはやはりベルさんの部屋を覗いてみたい。
普段ほとんどずっとそばにいてくれるが、就寝時など逆に私のそばにいない時はどんな生活をしているのか、ずっと気になっていたのだ。
「べるのおへや、みたい」
「ふふ、畏まりました。……でも、あんまり細かいところまで見ちゃ、めー、ですよ?」
「う、うん」
少し不躾だったかと焦っていると、冗談ですよ、とベルさんの微笑み。
安堵の息を吐いた私はベルさんの手を握って。
「ではご案内致します、アリス様」
「れっつごー」
「はい?」
「なんでもない」
いつものやり取りをしながら、厨房を後にした。
本日の更新は以上となります。
明日からは毎日二話、12時と18時の投稿となります。
引き続きお楽しみ頂ければ幸いです!