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エレナ王女の護衛隊の指揮官である近衛の大隊長デュランは覚悟を決めた。
ヘルヴェスは魔物である。
四本足の魔物で、見た目は鹿に似ているが、そのサイズは家よりも大きい。完全な肉食で頭部の角に風の精霊を宿し、雷撃を放つことが出来る。村に現れたら討伐するのに一軍が必要となる、そんな怪物だ。
わずか三十人の兵士ではどうすることも出来ない。
だが兵士達の表情に悲壮なものはあっても絶望はなかった。
絶望をするだけの余裕がないことがわかっているからだ。
彼らが守るべきベレスティナ王国の第二王女・エレナ姫は聖女であると言われている。
聖女は必ず助けなければならない。無理だなどと言って諦めることさえ許されない。それほど大切な存在なのである。
王女を守るための選りすぐりの騎士が三十人。
全員ヴェレスティナ王国で指折りの騎士達である。
「全員、防御態勢!」
デュランが叫んだ。
防御態勢は上下二段に盾を揃える陣形だ。これで矢の雨から全身を隠すことが出来る。屋根よりも高い位置に頭部があるヘルヴェス相手でどれほどの意味があるかどうかはわからないが、それでも組織として動き出した軍は強い。個々の動きにも滑らかさが出てくる。
一瞬で盾の壁ができあがっている。
デュランもまた盾を持つ手に力を込める。何とか数撃は耐えてみせる。その間に王女に逃げてもらうしかない。
ヘルヴェスを倒す、などという夢を見なければ、防御だけならば、保たせられる。
その間に王女にーー。
だが、兵士達の思いとは裏腹にヘルヴェスは盾の群れとその間から突き出される数十本の剣を眺めた後、無造作に盾の群れに近づいてきた。
それから拳ほどもある牙が並んだ口を大きく開き、兵士達の頭越しに盾の壁の向こうで待っていた馬の首筋に迷うことなく噛みついた。
ひと噛みで馬の太いがちぎれて飛んだ。血が噴水のように噴き出す。
血しぶきを浴びながらデュランは愕然としていた。
何というずる賢さ。
魔物を嘗めていた。
馬を失ってしまえばエレナ王女が逃げる手段がなくなる。
どう考えてもヘルヴェスの方が、王宮育ちのエレナ王女より足が速いだろう。
エレナ王女がヘルヴェスに食われるシーンが脳裏に浮かんだ。エレナ王女の雪のように白い肌が血にまみえるイメージ。
半年近い探索の旅の間、身近に接していたエレナ王女は常に美しく気品があり穏やかで優しく、噂通り聖女だった。それでいながらとてつもなく深い知性も感じた。
この国の未来のためにエレナ王女を失うわけにはいかない。
馬の血を滴らせたヘルヴェスが遥か頭上からこちらを見た。
無機質な膜が掛かったように見える感情のない目。
おやつを確認する目つきだ。
時間を稼ぐ、だけでは意味がなくなった。勝つ。死んでも勝つ。少なくともヘルヴェスの足の一本は叩き斬る。エレナ王女の命を救ってみせる。
デュラン隊長が吠えた。
「攻撃するぞ! 姫はすぐお逃げください! 可能な限り遠くに!! 騎士達よ! 命を捨てるときが来た! ひるまず懸かれ!」
騎士達が雄叫びを上げた。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
全員が剣を構え直したその瞬間、
「何をしてんだ、こら!」
誰かが走ってきてヘルヴェスの頭を横殴りに殴った。
ヘルヴェスの巨体が紙細工のように吹っ飛んだ。
「……へ?」
護衛兵が全員、馬鹿みたいな声を上げた。
もちろん、デュランもだった。
あまりにも想像を絶した光景なわけで仕方がなかった。
ふと横を見れば、エレナ王女も目を見開いて固まっていた。エレナ王女を守るように立っていた侍女の人も固まっていた。
ヘルヴェスを素手で殴りつけたおっさんが怒った顔でこちらを振り返った。
おっさんは先ほどエレナ王女が畏れ多くもわざわざ馬車から出て、ものを訊ねた相手だった。薄汚れ洗練のかけらも無い作業着に、間が抜けた顔。三十代後半だろう。
おっさんは、
「そっちもダメだよ! なんでステイタスに書き込んでないんだよ!? ステイタスがなければヘルヴェスが餌と間違えても仕方がないだろ!」
と怒鳴った。あろうことかエレナ王女に向かって。
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