序章
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気づけば三十六歳だった。
何もしていない。ぶっちゃけ何もしてないことに気づいてさえいない。
にもかかわらずそれなりにハッピーなのである。
何しろ、楽しいことを知らなかったから。
だから鼻唄がいい感じに歌えただけで楽しくなって、川に向かって石を投げて三段跳ねたら、躍り上がって喜んだ。
ボロ板と草葺きの屋根で出来た家が五軒しかないような村で生まれ育ち、農作業を繰り返すだけで、今思えばなかなかきつい人生のスタートだったが、きついことに気づかなかったのだから問題ない。
ちなみに村の五軒は全員親戚らしかったが、全員、いつから生きているんだ? と思うくらいに年寄りで、だから俺はずっと人間というものはああいうもので、俺一人がつるつるの皮膚なのは少しおかしいのだと思い込んでいたほどだ。俺にとっての世界とは五軒のぼろ小屋と、そこに住む七人の老人と、そして小さな農地と、六頭のぶち牛で構築されていた。
そんな俺の日々を打ち砕いたのは、天使の登場だった。
その小さな世界に天使が降臨したわけだからその衝撃は凄まじかった。
三十名ほどの兵士(これも初見)に護衛された天使は、見たことない生き物(あとでそれは馬だと知った)に引かれた見たことない乗り物(あとでそれは馬車だと知った)からわざわざ降りてくると、ぽかんと今思えば馬鹿のような顔をして見ている俺に向かって鈴のような声で、
「ここに、オーイガの方々がいらっしゃると聞いたのですが……」
天使はその時十六歳だったという。十六歳の人間でしかも異性を見たのは俺には初めてで、恥ずかしながら何の反応もできなかった。しかも初めて見た年頃の女の子は、圧倒的な美少女で、その辺の生き物と言うよりは女神とか天使とか妖精とかそういう空想上の存在で、俺はただただ感動に震えていた。
三十六歳で十六歳の女の子を前に緊張の余りフリーズしているのが気持ち悪いのはわかる。だが想像して欲しい。俺の周りは老人ばかりで、『女』とはしわくちゃでめちゃくちゃ強くて「キヒヒヒヒ」と笑うものだと思っていたのに、それとはまったく異なる生き物が出現し、しかもそれが本能に直撃する何かを放ったのだ。身動き取れなくなって当たり前だと思う。
大げさに言えば俺の前に新しい世界が広がったのだった。
俺が固まっていると、天使の護衛であるらしい兵士の一人が、
「蛮族でしょう。言葉が通じてないのでは?」
……言葉がわかったから傷ついた。ひどい。でも蛮族と言われて反論出来る根拠はない。やはり俺は蛮族なのだろうか。すると、
「失礼ですよ」
天使がたしなめてくた。
天使が俺を尊重してくれていることはわかって、全身に震えが走った。
結婚しよう。
あ、でもこれは違う。
きっと違う。
哀れみとか優しさとかそういう奴だ。
こんな天使が俺を好きになってくれるわけがない。
俺が幸せの絶頂から失意のどん底に乱高下していると、突然、ざわめきが護衛の兵士達を覆っていき、
「ヘルヴェスだ!」
誰かが東を指さして叫びいっせいに武器を構えた。
「エレナ姫! こちらへ!!」
「わかりました」
兵士達が訓練されたものの動きで隊列を整える。
「ん?」
俺も武器が向けられた方を見た。
そこには確かにヘルヴェスがいた。
だが、それだけだ。
なぜそんなに怯えているのだろう。
俺は首をかしげた。
細かく修正しました。