無欲女の好きなもの
筆者は、会社の仕組みに関しての情報をほとんど知らないのでその辺はふわっとしてます。
感想等で教えて頂けるとありがたいです。
「人類滅亡しないかなぁ」
「何物騒なこと言ってんですか」
定時をとっくに過ぎて静まりかえったオフィスに広がって霧散するだけだったはずの言葉は、どうやら誰かに届いてしまったらしい。
萩野祈は、後ろからかかった声に体ごと向き直るのも億劫で、首を思い切り反らして声の主を視界に入れた。祈の短い髪が垂れる。
「まだいたの?」
「先輩こそ」
「仕事が終わらなくってねぇ」
「嘘でしょ」
「なんで分かるのさ」
すぐさま嘘を指摘されて、祈は少し面白くない。
「PCの電源は落ちてるし、デスクには何も乗ってない。逆にこの状況でどうやって仕事するんですか」
「・・・それもそうだね」
逆さ向きの視界に映るのは、己の可愛い後輩である原田伊久人。伊久人の新人教育を担当したのは祈だったが、めきめきと成長し、今やもう新人だった頃が嘘ではないかと思えるほど一人前になった。
細身なストライプのスーツを着こなした姿は正に好青年で、かと思えば、その袖口から伸びる節くれだった手や整った襟に囲われた尖った喉仏は、男の色気を感じさせる。
仕事も速く正確で、上からの信頼も厚く、入社して3年だというのに次々と仕事を任せられているらしい。
らしい、というのは、新人教育が終わってからほとんど疎遠だったからだ。終わってすぐは何かと遭遇していたが、いつの間にかとんと出会わなくなっていた。
それはいつの頃からだったかと頭を巡らせていると、「で、」とまた同じ声が聞こえてきた。
「なんでそんな物騒な発言をするに至ったか聞かせて頂いても?」
言いながら伊久人は、祈のデスクから少し離れた椅子に腰をおろした。
その声が妙に真剣で、祈は目をしばたたかせる。人に言うようなことではないし、普段の祈なら絶対口にしないことであった。だが、こんな風に話す彼になら吐き出してもいいかもしれない、と彼女の心は揺れ、結局、天井を見上げたまま呟くように言った。
「誰にも言わない?」
「言いません」
「引かない?」
「引くわけないでしょ」
「嫌いにならない?」
最後の質問だけ彼は息を詰め、
「・・・絶対、なりません」
とだけ答えた。
少し気になったが、祈は構わず、ぽつぽつと話し始めた。
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萩野祈は、昔から何ごとにも執着しない少女であった。
これといって好きなものもなく、物心ついた頃から親に何かをねだったことは一度も無い。
周りの女の子達がピンクや黄色の可愛らしい服やアクセサリー、また愛くるしい小動物にはしゃいでいるのを見て、何が一体そんなに楽しいのかと首を捻るばかり。おままごともかけっこもテレビゲームもドラマも漫画も、彼女の目にはさして面白いものには映らなかった。
与えられたものを与えられただけ受け取り、無いなら無いで構わない。心揺らすものが全くない訳ではないが、それを何としてでも手にしたいという欲求や願望が理解できないのだ。
祈には兄が二人いたが、祈の両親は娘を欲しがっていた。そんな中で漸く産まれた末娘を彼らは大層可愛がったことも、彼女の性格を助長させた一因であろう。
言ってもないのに欲しいものが揃い、たまにあれが欲しいとは思っても、親に金を払わすまでもないと考えては口にすることさえなかった。
幼い時分にははっきりしなかった僅かな違和感は、年を重ねるごとに露になっていく。
祈にとって自然な考え方だったそれが、一般的な少女の考え方と違っていることに、賢しい彼女は早くから気付いた。
しかし彼女は同時に、周りに合わせる方法とその必要性を理解していたことによって、一見するとごく自然に輪に溶け込んでいった。
気の合わない友達に無理矢理自分を合わせ、楽しくもない遊びをする。いつの間にか通うことになった面倒なピアノやバレエといった習い事は、遊びの誘いを断る口実にしかならなかった。
そんな幸福だが刺激のない緩慢な生活を続けていた祈は、年が両手で数えられなくなった頃、自分の人生に次第に焦りを感じ始める。
ゲーム三昧な兄や、好きなアイドルの話で盛り上がる友人達、休み時間の度に連れたってグラウンドを駆け巡るクラスメート達の姿が、眩しくて仕方なかった。
祈は何かを好きになる努力を始めた。
お年玉でゲームのカセットを買い、音楽番組を毎週見始め、走りまわるクラスメート達の輪に加わった。
しかし、ゲームにはすぐ興味を失ったし、音楽番組は一度見るのを忘れると、面倒になって翌週から止めてしまった。外遊びに関しても、もともとそこまで仲がいいわけではないクラスメートと日に何回も遊ぶのなぞ、祈には煩わしく感じられた。
彼女は淡白であるのに加えて、面倒臭がりの飽き性でもあったのだ。
もっと色々な娯楽を試したら何か見つかったのかもしれないが、尽く失敗に終わった計画とそれに費やした精神的、経済的負担を考えて、それ以上何かする気にもならなかった。好きな事を探すという行為自体に飽きてしまったとも言えるかもしれない。
何も成さないまま月日は勝手に流れていく。
義務教育を終え、高校に入学して卒業し、大学に入学してまた卒業し、気付けば社会人だ。
自分は何のために生きているのか、何をしたいのか、何が好きなのか。
問えば問うほど分からなくなる。
分からないまま、年だけを重ねてしまった。
そのくせ嫌いだとか苦しいとかは明瞭で、でもそこから逃れる方法も知らないままで。
それでも、最近は落ち着いていたのだ。自分には心が踊るような幸福がなくとも、平穏で当たり前の幸せが溢れているのだと。したいことが出来なくて苦しむより、この方がずっといいのだと。そう、思っていた。
けれど今日、とある女性に呼び出されてからそんな考えが大きく揺れてしまっている。
休憩時間に入ってすぐのことだった。
「あの、萩野祈さん、ですよね?」
食堂に行こうとした祈を、小柄で綺麗に化粧をした可愛らしい女性が呼び止めた。
話したいことがあるから、着いてきて欲しいと言われ、断る理由もなく了承した。
「私は佐々木くんが好きなんです!別れてくれませんか!」
人のいない資料庫に通されて早々爆弾発言をかまされた。
佐々木とは、祈が一年ほど前に告白されて付き合っていた男だ。男女の惚れた腫れたなど遠慮したいのは山々だったが、いずれは誰かと結婚する予定だったのだ。いつまでも恋愛ごとを避けてはいられないと、お試し気分で了承した関係だった。恋愛結婚かお見合い結婚かなど些末な問題である。祈にとっては、結婚して親に孫の顔を見せられるのであれば何でも良かった。
それにしても、好意を寄せている相手の彼女に別れてくれなど直談判するとは、よっぽど佐々木のことが好きなのか、それとも考えなしなのか。
呆れ半分、感心半分で、さっさと解決するためにすぐさま佐々木に別れたい旨をメールした。例の女性はあまりにも呆気なく了承されてしばし呆けていたが、メールの内容とそれが送信されたことを確認すると、嬉しくて仕方ないといった表情で去っていった。
その笑顔があまりに眩しくて、「頑張って」と声をかけようとしたが、それは流石に変かと思い、黙ってその後ろ姿を見送った。
佐々木から返ってきたメールには、何故自分が振られなくてはならないのかという内容の悪態と、雑な別れの言葉が書いてあった。それにはむしろほっとしたぐらいで、一向に構わない。元々最近はお互い忙しく、祈の方には時間を縫ってまで会いたいという気持ちもなかったので、ほとんど会えていなかった。結果的に彼の自尊心を傷付けてしまったことと、彼の時間を悪戯に消費してしまったことには申し訳なくさえ感じる。こんなことならお試しなどと言って付き合うのではなかった。佐々木には、早くあの可愛らしい女性と良い仲になってもらいたい。
では一体何が祈を掻き乱すかといえば、あの女性が佐々木に向ける、全力の好意だ。
例え単なる考えなしだったとしても、あそこまで行動できる感情を、私は知らない。
普通に考えれば、あの女性は佐々木を諦めるべきだ。でも、彼女はそうしなかった。わざわざ相手の女性の所まで訪ね、自分の気持ちを訴え、ついには希望を叶えてしまった。
祈には、絶対にそんなことはできない。しなくて良いと言われたらその通りだが、無い物ねだりというか、そういった強い感情というのにどうしても憧れてしまう。
自分はこのまま、あの激しい輝きを得ないまま、年老いて死んでいくのだろうか。それならば、今死んでしまっても構わないのでは?
生きていると辛く悲しいことが沢山あって、それと釣り合うように幸せなこと、楽しいことがあるはずなのに、自分は受け取ることができない。正に不平等。
そしてそれは、他の人にも当てはまるのではないか?嫌なことと良いことを天秤に掛けて、良いことの方が多い人ばかりではないだろう。
死んでしまえば良いも悪いもない。自己が無くなり、悲しみも幸福も全ては闇の中。
死後の世界など欠片も信じていない。むしろそんなものがあれば、自分は死しても尚自らの希薄な感情に悩ませられるだろうから、絶対に行きたくないと常々思っていた。
死こそ人間を平等にしてくれる。悲しみや苦しみから解放してくれる。だからこそ人類は滅亡すべきだ。
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「・・・また、壮大な話ですね」
「でしょ?」
祈は殊更明るく言ってみる。内容が内容だっただけに重くなってしまった空気を、何とかできないかとせめてもの抵抗だ。彼の眉間に寄った皺が解消されていないところをみると、どうやら上手くいっていないようだが。
「先輩は、死にたいんですか?」
「・・・うーん、どうだろうね」
その質問にはどうも困ってしまう。
これだけぐだぐだ話しておいて言うのも何だが、これはきっと自棄になっているだけだ・・・と祈は思っている。でも自分の思考に論破されかけていて、本当に人類は滅亡した方がいいのではないか、と思うこともある。
「死にたいかどうかは置いておいて、死ねないとは思うよ。私が死ねば両親は悲しむし、会社も抜けた穴を早急に埋めなきゃいけなくなるし」
祈は一人で生きている訳ではない。自分の命は自分一人のものではないので、勝手に消えていくことはできない。それに、自分に自ら命を絶つような勇気ないだろうなとも思う。
もっとも、会社の方はしばらくしたら落ち着いて、何もなかったかのように回っていくのだろうから、懸念すべきは両親だけか。
「両親だけですか?」
「ん?」
「両親だけが、悲しむと思ってるんですか?」
「うーん、確かに今まで交流があった人達は悲しむだろうけど、その傷はいつかきっと癒えるでしょう?いつか、そういえばこんな人もいたね、なんて語られる様になる」
けど両親は違うから。きっと私が遺す痕跡を辿って、いつまでも悲しむだろうから。
「・・・俺だって、悲しみます。ずっと」
「おお?そうか、ありがとう。宜しく頼んだ。とりあえずまだ死ぬ予定はないけど」
この話をすると、嫌でも相手に死ぬな、とか、生きろ、とかを言わせてしまうと思ったから、人に話すのは避けてきたのだ。
だが、伊久人に「悲しむ」と言われたことは、例え社交辞令であったとしても祈の胸を少し暖かくさせた。
ふふ、と顔を綻ばせていると、急に視界がぐるっと回る。おや、と思いつつ、完全に後ろに倒していた頭を少しだけ持ち上げると、そこにはやや緊張した面持ちの伊久人が立っていた。
笑ったのが気に触ったのかと焦って体を起こすと、彼はおもむろに祈の足元に跪き、疑問に思う間も与えぬまま彼女の左手をとった。
「俺じゃ、貴女の生きる意味になりませんか?俺のために生きて欲しいと、言ってはいけませんか?」
そう言って両手で祈の手を包む。異性と何度か手ぐらいは握ったことはあるが、伊久人の体温が伝わってきているのだと思うと、今までにないほど胸が騒ぐ。動揺が声にならないまま、伊久人は更に言葉を続けた。
「実は俺、あの時資料庫の前に居たんです。それで、先輩が別れたことを知ってました」
なんてことだ。やはり外に丸聞こえだったのではないか。驚く祈を余所に、伊久人はなお続ける。
「一人で残っている先輩を見つけて、チャンスだと思ったんです。相手がどう返事したかは知らなかったけど、そんなのどうでも良かった。先輩に多少なりとも別れる意志があるのなら、奪ってみせると思った」
固い意志を滲ませた表情に、柄にもなく祈の心はどきり跳ねた。それより何より、言っている意味が分からない。いや、意味は分かるが、そんな、まさか。
「それなのに、先輩が人類滅べなんて言うから焦りましたよ。てっきり別れたことを後悔しているのかと」
それは杞憂に終わったようですけど、と伊久人は真剣な顔を少し緩ませて言った。
軽く息を吸い、祈としっかり目を合わせる。反対に、祈は見知ったはずの黒い瞳に捕らえられて、息をするのも忘れた。
「萩野先輩、俺は貴女が好きです。想いを伝える前に、貴女に彼氏ができたと知って、諦めるために距離を置きました。でも、無理だった。漸く巡ってきたチャンスを、利用してもいいですか?」
駄目押しとばかりに祈の手を強く握る。
一方祈は大パニックだ。ついさっきまでただの後輩だった男が、突然自分に愛を囁き始めるなんて、誰が想像しただろうか。少なくとも祈は想像していなかった。
だというのに、伊久人が彼女の手をとってから、どういう訳か心臓がばくばくと鳴り続けている。死にたいなんて考えは、突如表れた感情の渦を前に、一瞬で掻き消されてしまった。
ありがとうと言うべきか、冗談でしょと言うべきか。本当に軽い気持ちや冗談ならばそれで良いのだろうが、彼が本気だったなら失礼にあたる。しかも先程佐々木の一件で、簡単に付き合うなどと言ったことに後悔したばかりだ。
そもそも付き合うにしろ断るにしろ、なんと返せばいいのか。
『いいよ、付き合おっか』?やたら上から目線ではないか。
『実は私も好きだった』?嘘は嫌いだ。
『後輩としてしか見れない』?彼を傷付けはしないか?
『ごめんなさい、今は考えられないの』?うん、よし、これだ。
祈は言葉を慎重に選んで、彼に伝えるために一つ息を吸って口に出す。
「ごめんなさ、「っぷ、くくくく、っあー、もうダメ」は?」
見ればあんなに真面目腐った顔をしていたはずの後輩が、腹を抱えて笑ってる。
祈は一瞬酷く混乱したが、どうやら自分の仮定のうち一つが正しかったことを理解すると、一気に脱力した。何だあの見事な演技は。上手すぎだ。自分じゃなくても騙される。というか、即興で考えたにしては話が出来すぎている。頭がいい人は話を創るのも上手いのか。
だがすぐに復活して、伊久人の手をぺいっと振り払った。
「~っ、さいっってい!」
「何とでも言って下さい。でも悩みは吹き飛んだでしょ?」
「それは、そうだけど」
伊久人はさっきより幾分か力なく笑い、「っあー、ほんと俺の馬鹿」と呟いて落ち込んだように頭垂れる。
真剣な顔をしているかと思えば爆笑して、その後すぐ落ち込むなど、彼の感情の起伏はどうなっているのか。始めの真剣さは演技だったようだけど。
「えっと、大丈夫?」
「誰のせいだと思ってるんですか・・・」
「え?私のせい?」
「っはあああ、報われねぇ」
「???何か大変みたいだね?」
「おかげさまで」
伊久人は一度大きくため息をつくと、すっと立ち上がった。持ってきていた自分の鞄を手に取ったので、帰るのかと思っていたら、何故か同じ手で祈の鞄まで持つ。
意図が分からず慌てて取り返そうと思ったら、伊久人が空いた手を祈の方へ伸ばした。
「行きますよ」
「えっ?はっ?行くってどこに?」
「好きなもの探し、したいんでしょ?」
「いや、でもそれはもう良くって。っていうか今から!?」
「当たり前ですよ、何言ってんですか。このままじゃ先輩はことある毎にまた似たようなこと言いますよ。今日はたまたま俺がいたから良かったものの、あの様子じゃあと一時間ぐらいはぼーっと座ってたでしょ」
「そうかもしれないけど・・・」
「ほら、早く」
伊久人は急かすように手を更に祈の方に突き出す。しかし祈は、その手をとって良いのか迷ったまま。
「でも、やっぱり面倒でしょ?仕事でもないのに私に付き合うなんて。それに、いつまでも見つからないかもしれない」
すると伊久人はまたしてもため息をつくと、今度は有無を言わせず祈の手を引っ張って立ち上がらせた。
「面倒なんかじゃありません。先輩に死んでほしくない俺のエゴだとでも思っておいて下さい。それに、見つからなくてもいいです。見つかるまで探し続けられるってことですから」
ほら行きますよ、と手を引かれて、今度こそ祈は歩きだした。二人の手は繋がれたままだった。
「・・・ありがと」
「別に。俺のエゴだって言ったでしょ」
祈は右隣を見上げて伊久人の横顔を見つめた。やっぱイケメンは性格もイケメンなんだなぁ、と思いつつ。
すると伊久人はちらと視線を祈に向けながら、悪戯気ににやりと笑うと、
「それに、俺、先輩のことが好きなんで。一緒にいられるのはむしろ役得です」
騙されたばかりだというのに思わず赤面してしまった祈は、悔し紛れに「そのネタいつまで引っ張るつもりなの」と口を尖らせた。
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その後二人は好きなもの探しという名のデートを繰り返した。もっとも、祈がそのことに気付いたのは、随分後になってからだったが。映画を見に行ったり、テーマパークに行ったり、コンサートにいったり。祈の好きなものは少しずつ増え、そして、いつしか、その中に伊久人が加わることになるのは、もう少し先のお話。
最後まで読んで頂いて、ありがとうございました。