9-7 これから君と、長い夢を。
これが最終話となりますが、
エピローグまでお付き合い頂けましたら幸いです(*´ω`*人)
アルミラの遺骸と、そのマスターである彼の遺骸を持って姿を消したフェデラーが再び工房の戸口に現れたのは、正式な【アイラト】の最高責任者の座を僕に譲る前夜のことだ。
外は冷えるから中へと招こうとしたものの、フェデラーは「すぐに要件は済む」と短く答えただけで、あんなに遠慮なく入り浸っていた工房に一歩も踏み入ろうとはしなかった。
あの出来事も夢のことかと感じるほど朧気で、けれど髪や肌に染み付いた甘い香りがそれを否定する。あの日、僕は恩人と最後の時間を過ごし、そして死なせたのだと。
「今日は今更だとは思うが、確認に来た。パウラ、お前はマンドラゴラの生き方を捨てて、その人間と共に生きることに決めたんだな?」
親しい者を弔ったばかりの虚ろな金色の瞳がこちらを見たかと思うと、すぐに逸らされて隣に立つパウラに注がれる。あからさまな拒絶という訳ではないが“まだ心の折り合いがつかない”といった反応に、僕自身思い当たるせいで言葉をかけることが憚られた。
これがパウラが同族と言葉を交わす最後になるのかもしれない。パウラもそれを分かっているからこそ、フェデラーの問いかけに一瞬だけ視線を床に落とした。けれど次の瞬間顔を上げ「ええ」と力強く頷いてくれる。その時の気持ちをどう言い表せば良いのだろう。
誰かに選ばれたこともそうだが、誰かを選ぶことも初めての出来事で、僕には二人の間に口を挟めるような確かな言葉を何も持ち合わせてはいない。
けれどフェデラーはそれを見透かしたようにこちらを見て、少しだけ笑うと「そうか」と頷いただけで。僕がアルミラを死なせたことで覚悟していたフェデラーからの恨み言は、ただの一言もなかった。
僕の隣で柔らかい微笑みを浮かべるパウラと対照的に、物憂げな笑みを浮かべたフェデラーに「行くのか?」と訊ねれば「ああ。もう執務室の机の上に出奔する旨をしたためた手紙を置いてきた。これでようやくあの椅子と離れられる」との答えが返る。
要約すれば、後釜が決まったというのに前任者が本店にいては、この先派閥が別れる危険性をはらむ。恐らくそれを配慮しての選択半分、アルミラのいない工房にいたくない思い半分なのだろう。
その証拠に突き放した言い分とは裏腹に歪む表情を見たパウラが、無言のまま首飾りを外してフェデラーに差し出した。首飾りを受け取ったフェデラーがふっと目を細める。
パウラに人間の温もりを与えてくれていたそれは、これからアルミラのいない世界に旅立つフェデラーに贈るに相応しい物だろう。何かふとした瞬間に触れた手が氷のように冷たいだけで、人間は驚く。
そのことは僕が身をもって知っている。人間は脆弱で、自分の知らない物事ことに否定的で……酷く怯えるくせに、孤独ではいられない臆病な生き物だから。
パウラと僕を交互に見やった金色の瞳が、受け取るかどうか悩んでいるのを感じて「僕からも渡したい物がある。少しだけ待っていてくれ」と言い残してその場を離れた。
二階の自室にある机のひき出しから例の懐中時計を取り出し、一度自分に向けて開けてみる。しかし裏蓋に彫り込まれた紋様から、マホロが教えてくれたような反応はなかった。分かりきっていたことだというのに、それが酷く浅ましく思えて蓋を閉じる。
パウラとの未来を夢見た時点で、この懐中時計を自分に向ける意味はもうない。この先どれだけ自分の不甲斐なさを悔いたとしても、ここから僕の望むような死は訪れないのだから。……きっと最初から必要のないものだった。そもそもフェデラーの一件に関わっている人物がアルミラだと知った時に、この懐中時計は役目を失ったも同然だ。
裏蓋に彫り込まれた物騒な紋様さえなければ、時間を正確に刻むことも出来ない古びただけの何の変哲もない懐中時計。長年持っていただけで愛着らしいものを感じたことはなかったはずなのに、いざこれから先にこれを使うような機会が減ることを惜しむ自分がいる。
階下に降りると二人は律儀に裏口の傍に立ったまま待っていた。首飾りを譲り受けたフェデラーと違い、久し振りにその温もりを失ったパウラは寒いだろう。それでも二人して待っている姿に、いつだったかマンドラゴラが愛情深いのではないかと感じたことを思い出す。
けれど視界の端に映り込んだ二株の鉢植えを見てその考えを改める。どんな生き物であれ、愛情に深度などないのだと。案外大切だと感じることに切っ掛けはあっても、愛情を求めることに大した理由はないのかもしれない。
「すまないんだが……これを、フェデラーに返してきて欲しい人がいるんだ。どこに行くのかまだ決まっていないなら、頼めないだろうか?」
そう言って差し出した懐中時計を見たパウラが目を見張る。その金色の双眸がこちらを見て一瞬だけ揺れた。言いたいことは分かっている。
裏蓋に彫り込まれた物騒な紋様を知らないパウラからしてみれば、何故思いでの詰まった時計を手放すのかを問いたいのだろう。だがこの先の人生で何か耐え難いことが起こった時に、怒りに負けてこれを使わない自信は持てない。
それにいつかフェデラーの狭い世界で見知った人が全ていなくなった時、マホロ達の存在は彼にとっての救いになるはずだ。パウラもその意図を汲んでくれたのか頷いてくれた。
「一号店に、長年トップに座ってアルミラを支えてくれたフェデラーになら分かるだろうが、これを持って採取に出かける時間はこの先あまり取れなくなる。明日の式典でトップになれば楔のように工房の【機構】になり、もう容易く街を離れられない」
差し出した懐中時計と僕を交互に見やったフェデラーは「場所は」と短く訊ねただけで、それ以上踏み込んでは来なかった。
その後短い話をいくつか交わしてから店を出ようとするフェデラーの背中に「アルミラを弔った場所を教えてくれないか」と訊ねると、フェデラーは溜息を吐くような仕草を一つ。
「馬鹿を言うなお断りだ。俺はマスター以外のポーション職人は嫌いなんだ。それにただでさえお前は生前マスターの記憶に居座り続けただろう。死後くらいは俺だけのマスターでいさせろ。……心配せずとも、お前達が死んだら隣に墓をたててやる。それまでは何があっても教えんがな」
そう言って踵を返す背中にパウラが舌を出したけれど、直後にその唇から「たまには何処にいるのか報せる手紙の一つも寄越しなさい」と言葉が零れて。振り返らないフェデラーは義手ではない方の手を挙げて一度だけ頭上でグルリと回し、夜の闇に消えていった。
隣で暗闇に目を凝らすパウラの肩を抱き寄せれば、首飾りを失った身体は生木のように冷たくて。それを悲しむように目を伏せたパウラの額に、体温を移すように自分の額を合わせれば、少しだけ微笑んでくれる。その金色の双眸が優しく細められ、冷たい肌からは慣れ親しんだ濃い土と緑の香りがした。
「……フェデラーはああ言っていましたが、私達は長生きしましょうね?」
難しい顔をして黙り込んだかと思えば、そんな単純明快な発言をしたパウラを前にしてふと思う。彼女の今の発言を、僕はこの先自身の人生が終わる瞬間まで唱え続けることだろう、と。
***
【アイラト】の代替わりが行われてから半年が経った。
最初の一月ほどはフェデラーからの手紙が届かないことを気に病みもしたが、毎日の仕事量がそれを許さない。今やパウラと僕の間では、翌日に調合する予定のポーション表と睨めっこを続ける日々だ。
それに伴い一号店で感動したことといえば、作業場の広さと設備だろう。
初めてパウラと出逢った日、ここで先輩に道具をもらった時は何という気前の良さだと驚いたけれど、これだけの設備が整っていて、尚且つ定期的に支給品をもらえるとあってはそれも頷ける。
火力の調節が簡単に出来る炉と、長時間火にかけてもなかなか割れない大型のガラスビーカーに、火の通りが一律な銅製の大きな鍋。これらが揃うだけで調合が画期的にはかどることを知った。
特にビーカーは色味が変わる見極めもし易くて良いだけではなく、一度に大量に作れる。銅鍋の方は火の通りが良い分、目を離すとあっという間にふきこぼれるのがやや難点だが。
だから「先生、スミレ色のポーションが棚にもう残り四本しかありません!」と泣きそうな表情で息を切らした見習いが駆け込んでそう慌ただしく告げても、まだ何とか心の平静が保てた。
「手の届きやすい値段のポーションは在庫の確認を忘れずに頼む。今取りかかっている分が出来上がるまで、お客様には申し訳ないがその四本が売り切れたら待ってもらってくれ」
正に今そのポーションを仕上げている最中だった僕が、一旦作業の手を止めてそう答えると「分かりました!」と慌ただしく店舗の方に戻って行く弟子のすぐ後から「先生、朝焼け色のポーションはまだあるのかとお問い合わせが」と別の案件が飛び込んでくる。
手許の銅鍋の様子を見たい時に限って……と焦っていたら、すぐ後ろから「それでしたら今私が冷ましているところですから、後一時間程したら瓶詰めにして棚に並べられます」と良く通るパウラの声がして振り返る。
「朝様子を見た時に足りなくなりそうでしたから、まだ余裕があったんですけど、見習いさん達に手伝って頂いて勝手に作ってしまいました」
ふわりと微笑んで「ね?」と若い見習い達を振り返るパウラに、作業を手伝った見習い達が嬉しそうに頷く。パウラの監修で作ったのであれば品質に問題はないだろう。用意された数は大型ビーカーで十五。これならすぐには売り切れる心配もなさそうだ。
ホッとして「そうか、ありがとう助かった。ではすぐに瓶詰めの作業を頼めるか?」とパウラと見習い達に頷き返せば、横並びになった見習い達が一斉に“天地の礼”をとる。その光景に未だ慣れない僕がぎこちなく頷くと、そんな姿を見たパウラの唇が笑みの形に持ち上がった。
年が明けてすぐに【アイラト】就任してから、ここ半年ですっかり一号店の中は賑やかになり、天地の礼以外のこうしたやり取りにもようやく慣れたけれど、就任直後にどうしても慣れなかったのは、店舗の奥でゆっくりと調合が出来ないことだ。新しい調合を思い付いても試せるのは閉店後。
そうなると自然に調合している最中に仕事を終えた見習いや弟子達が、周囲に集まってきて緊張する。古参の弟子達はともかく、まだ見習いに過ぎない者達の技術は未熟で、育てる必要があるのだが……それでも慣れないものは慣れないのだ。
しかも二号店と、三号店の二人は弟子達に指示を出して量産するノウハウを持っていたが、生憎とずっと弟子の一人も持ったことがなかった僕は、当初指示を出すことが出来ずによく棚の商品を空っぽにした。
それを見かねて元から一号店に在籍していた数名いる古参の弟子達が、ポーションが切れそうになる前にそれとなく指示を仰いでくれるようになり、段々とリズムが掴めるようになった。そんな風に感慨深く感じている間にも「先生! ギルドからの大口注文が――」と次の案件が飛び込んでくる。
一息吐く暇もなくバタバタと指示を出していた背後か「うお、すげぇ繁盛してるじゃねぇか。ったく、生意気な奴だぜ」と聞き慣れた声がして、工房の入口を見やればコンラートが皮肉屋な笑みを浮かべて立っていた。見習い達には古参の弟子達についてもらい、コンラートの方へと歩み寄る。
「だったらそっちでも同じポーションを作って、四号店でも売ってくれれば良いだろう。その方が僕達も助かる」
「いや、無理言うなっつうの。うちで今の倍以上のポーションを作る羽目になったらオレが死ぬわ」
「何を情けないことを言っているんです。今までロミーがやってくれていたことを、サボってきた分働くだけでしょう」
「そうだぞ今までは朝帰りの背中しかロミーに見せていなかったんだ。しっかり働いて格好良い背中を見せられる“夫”になれよ」
「あーあー、喧しい。それよりもだ、今日はお前のとこから数人良さそうな見習い借りに来たんだよ。適当なのいるか?」
適当なのがどういった人材を指すのか分からないので「それこそ自分の目で“適当に”選んでくれ。見習いとはいえ粒揃いだ」と返せば、背後から妙な圧を感じて振り返る。
他店の手伝いに行けるという期待に目を輝かせる見習い達を見て、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべたコンラートが「だな。そんじゃちょっと見させてもらうぜ」と肩を叩いて見習い達の方へと歩いて行く。
その後ろ姿を見送ってからパウラと休憩の為に執務室へ向かったのだが、その途中で周囲より頭一つ抜き出た長身を見つけて足が止まる。頭一つ分高いということは、相手からはすでに見つかっているということだ。
溜息をついて立ち止まれば、やはり相手が眉間に神経質な皺を刻んで近付いて来る。
「今日の店の在庫確認と弟子達への指示は何だ? あれではいつどのタイミングでポーションを仕込めば良いか、工房の人間に伝わらんだろろう。店舗の人間と、工房の人間との連携がもっとしっかり取れていないと客を逃がすだろう」
「うぐ……」
半年前に代替わりをしてから、一号店にちょこちょこと顔を覗かせるようになったヴェスパーマンから飛んだ的確な指導内容に一瞬口を噤む。隣ではパウラも同じように唇を引き結んでいた。
ヴェスパーマンの性格からは決して言い出さないものの、二号店の店主である彼がこの場に顔を見せてくれるのが、まだ人に指示をすることが不慣れな僕の為だとは分かっている。
その不器用な気遣いに感謝すると同時に苦笑してしまうのも、良い歳をした男性相手に持つ感情でもないが、シェルマンさん曰わく『そこが可愛らしいのよ』という発言にも頷いてしまいそうだ。
「それに一号店の店主で今や工房代表者のお前が指示を出せんと、下にいる者も困る。奥で調合したい気持ちは分かるが、お前はもう一号店の店主だという自覚を持つことだ。五号店の後任者は三号店の店長と相談して近く出す。それと……お前達は存外良くやれている」
眉一つ動かさずに痛いところを突いたヴェスパーマンは、最後に居心地悪そうにそう言い残すと足早に表玄関から帰って行った。
一瞬パウラと二人してポカンとしてしまったものの、見習いの一人が近付いて来て「先生、手紙が届いていましたよ」と言って封書を差し出してくれたことで正気に戻った僕は、短く礼を述べて受け取った封書を裏返す。
そしてそこに書かれた差出人の名前に思わず頬が緩んだ。
「パウラ、これを見てごらん?」
そう伝えた直後にその金色の双眸に閃く喜びの色は、完成間近のポーションが見せる最後の揺らめきに似て。僕が得られた心浮き立つこの幸福が、彼女と同じであれば良い。




