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9-6   君と見たい、夢があるんだ。


 ――――目覚めて真っ先に目に入ったのは、真白い天井。


 まるでつい今し方まで、堅く冷たい床の上に横たわっていたと思ったのは、錯覚だったのだろうか? 背中を包み込むように支えるベッドの感触は、工房の自室にある僕のベッドよりも随分と寝心地が良くて。


 ともすればあまりにも寝心地が良すぎて、再び闇に身を任せてしまいそうになる。目蓋はもうすでに下りたがっているのに、けれどそれは出来ないと、今にも途切れそうな意識の中で訴える自分がいる。


 僕の葛藤からくる微かな身動ぎに、隣で何かが動く気配がした。ウツラウツラと気を抜けば溶け出しそうになる意識を、ゆっくりとその気配がした方に向けると、そこには――。


「お早う、ございます、私のマスター」


 僕の良く知る優しい金色の双眸が、水の膜を湛えて揺れている。パウラがここにいて僕もこうしているということは……もう、あの“ひと”は。


「……アルミラ、と、フェデラー、は……?」


 それは人間のものとは思えないほど聞き苦しい、割れた硝子が集められる際の音のような声。それですらやっとのことで絞り出したというのに、それだけで渇いた喉は酷く痛んだ。


「フェデラーはアルミラと……彼女のマスターを弔うと言っていたのですが、あの部屋で行われていた実験を気取らせるような痕跡も、全て処分して姿を消しました。ですが、置き手紙に《終われば帰る》とだけ記してありましたから、今は信じて待ちましょう」


 そこでふっと視線を床に落としたパウラは、何か言い出し難いことを言おうとしているのか、なかなか次の言葉を口にしない。


 雑音のような声で「どう、し、た?」と先を促せば、パウラは意を決したのかベッドの中に手を潜り込ませ、僕の手を握りしめたまま辛そうに眉根を寄せた。ほんのりと温かいその手を握り返そうと指先に力を込めるのに、情けないかな、僕の指先はピクリと微かに動いただけだ。


 その手を毛布の中から持ち上げたパウラは、僕の手を慈しむように一撫ですると頬を寄せ、小さく息を吐く仕草・・をした。その唇から零れる吐息は存在しない。けれど、確かに。確かにその吐息が、僕のこの手を温めるような気がするのだ。


「マスター……もしも貴男がどれだけこの先ご自分を責めようとも、あの場であなたが生きていて下さったことが、私には何よりの幸運でした。どれだけ身勝手なことを口にしているのかは、理解しているつもりです。それでも……生きていて下さってありがとうございます、マスター」


 くしゃくしゃの泣き笑いのような表情を一度。すぐに哀しげに眉根を寄せたその表情だけで、僕が今どんなに情けない顔をしているのかが分かった。パウラに対する申し訳なさと、その言葉で救われた気持ちになる己の浅ましさがない交ぜになって身体が震える。


「――――そう、か……」


 戦慄く唇からやっとそれだけ紡ぎ出した僕の手に、うなだれるように俯いたパウラが一枚のレポート用紙を掴ませる。そのレポート用紙に踊るのは、随分と昔に見た記憶の中と同じ文字。



 “もうすぐ一号店店主のヘルムート・ロンメル殿。仕上げが雑で効き目も思ったよりも緩やか過ぎる。ぼくのマスターが精製した物の改良型だと言うにはお粗末だ。従ってぼくの弟子のくせに誠に遺憾だが、今回の最終評定は+45相当と認定する。これからも引き続き精進されたし……なんてね。チビ、ありがとう。あの人はとても寂しがり屋だったんだ。だけどこれで――……ようやく一緒に眠れるよ”



 徐々に乱れていく文字が、僕の能力の至らなさを物語るのに。最後の旅路が穏やかでなかったことすら、貴女は責めもしないのかと思うと。


「う、あ、ああ、あぁぁぁ――!!」


 その瞬間、まだ自由に動かない身体をパウラとは反対の方へと向け、吼えた。喉が裂けて鉄の味が込み上げてくるが、そうでもしないともうどうしようもない想いが溢れて、身体を突き破りそうだった。


 声を上げて泣くことなど人生で一度もなかった僕の不器用な慟哭どうこくに、同じくらい不器用に背中を撫でる掌の感触が重なる。パウラの声帯で慟哭しようものなら、僕の身体はこの場で弾けてしまうだろう。


 けれど、それくらいのことをされない限り、僕は自分の不始末を赦せそうになかった。恩人に穏やかな死すら贈れなかった無能な自分がこのまま誰に裁かれることもなく、またアルミラという恩人の死に立ち合うことすら出来なかったという事実が。


 彼女の中で僕はいつまでも教え、守り、導く対象であり続け、そうして二度とその評価を覆すことも出来なくなった。認められないまま、不肖の弟子として死した彼女の中で生き続けるのか。


 死して尚も師を安心させられないことが情けなくて、申し訳なくて、失敗の許しを乞う子供のように泣いた。パウラはそんな情けない僕の背中を呆れることなく撫で続けてくれる。


 ――……どれくらいの時間をそうしていただろう。


「僕は、マスターに……最後まで、何も返せなかった。それどころか命の恩人である彼女を忘れて、のうのうと生きていた。その証拠が、君達マンドラゴラの研究だったのだから、質の悪い、冗談だ」


 ここ二年で事態が好転したのは、パウラという得難いパートナーを得て、長年の研究が報われた結果だと……そう無様にも思いこんだ。


 五号店から昇級出来なかった理由も今なら分かる。立地や客層を言い訳に惰性でポーションを精製したからだ。そこに【アイラト】の教えなど、かつてアルミラから教わった職人としての在り方など、何一つなかった。


 一号店に上がれなかったのは全て、勝手な思い込みで立ち止まり踏み出さなかった、臆病なくせに自己承認欲求の強い愚かな自分のせいだ。そうしてその悪循環の中から踏み出せたのは、皮肉にも長年記憶から消え失せていたかつての初恋の人を彷彿とさせるパウラとの出逢いだった。


 結局のところ、僕は自分では何も成長してはいなかったのではないか? そう今さら思い知ることが、アルミラという絶対的な崇拝対象を失った僕は恐ろしくて堪らなかった。……以前の、僕ならば。


「それでもパウラ……君と過ごす今が、僕にはとても、大切なんだ」


 身勝手なその思いを吐露した途端、一度は治まりかけた目の奥が再びジクリと熱を持ち、視界が歪んだ。枕に頭を預けたまま見上げるパウラの輪郭がぼやけて、上手くその像が結べない。そのことに苛立ちを感じ、一度瞳に張った水の膜を取り払おうと目蓋をきつく閉ざす。


 視界を滲ませていた水はそんな僕の思惑通り、眦から滑り落ちて耳へと流れ込んだ。その不快な感覚に思わず眉間に力を込めた僕の唇に、ふと何か柔らかいものが触れた。


 その感触に閉ざしていた目蓋を持ち上げると、そこには淡く微笑むパウラがいて。僕の目蓋が持ち上がったことを確認したパウラは、もう一度唇を重ねてくる。パウラの落とした触れる程度の口付けは、カサカサ渇いた僕の中に森の香りを吹き込んだ。


 そうして、呆然とする僕を見下ろしたまま、パウラは言った。


「私もです、マスター。私の方こそ、そうなんです。マスターと過ごす時間がとても大切なんです。初めてマスターが私を工房へ連れて来て下さったあの日からずっと。ずっとヒトではない身でありながら、お慕いしておりました。素材としてお役に立ちたいと思いながらも、その時が来る日が少しでも遠ければ良いなどと、浅ましいことを考えるほど――……」


 (けぶ)る金色の双眸が、瞬く間に水の膜を湛えて揺れる。その瞳から堪えられなくなった一滴が落ちて、僕の頬を冷たく濡らした。どれだけ見た目は近くとも、彼女の目から温かな滴が零れ落ちることはない。


 そんなことは、とっくに分かっていた。あの日、植木鉢を落とした中から現れた彼女を見た日から。それでも諦めきれないのは、この手を伸ばしてしまうのは――その“心”の温もりを知ってしまったからだ。


「……私はマンドラゴラ失格の雑草です」


 パタパタと、二滴、三滴と零れ落ちる冷たい滴が頬に弾けて流れる。深い緑の波打つ髪に半分ほど覆われた顔がクシャリと歪められた。その小麦色の肌からはいつでも濃い森と水の香りがする。


 “マンドラゴラ”でも“ヒト”でもなければ、彼女は一体何なのだろう?


 そう自問してみれば、とてつもなく簡単に自答してしまう自分がいる。


「パウラ、もしも、君さえ嫌でなければ」


 手を伸ばしてその頬に触れれば、首飾りから伝わる偽りの体温を感じて。けれどそれを偽りとは感じられない気持ちを、もうずっと以前からパウラに対して抱いている。


 “ヒト”にはなれないパウラと“植物”にはなれない僕。だけどそれでも離れがたいものが二人の間にあると分かったのだとしたら――もう、離れることは出来ない。頭の中を過ぎるのは、レヴィーにその夫、マホロとジジ、アルミラとそのマスター。


 彼や彼女が望み、そこから得たもの、そうして失ったものを天秤にかけてみる。すると自分でも驚くほど少ないような気がしたのだ。彼や彼女達は誰もが自ら望み、選んでそうなったのだと。


「――……君が生きる時間を、僕に合わせてくれないか? これは、マスターとしての命令じゃない、僕の言葉だ。選ぶ権利は君にある」


 狡い言い方だとは知っている。パウラがその場合捨てるのはマンドラゴラとしての長寿と帰る場所、そして寿命を同じくする仲間達。僕が失うものは何もない。


 これは彼女にとっては酷く得る物の少ない取引で、僕はアルミラの聖人のようなマスターとは違って狡い人間だ。



 だけど、ただ、一緒にいたい。

 だけど、やっぱり、一緒に生きたい。



「パウラ。僕と一緒に生きて、一緒に滅んでくれませんか」



 浪漫の欠片もない殺伐としたその求婚(プロポーズ)に、パウラは僕が見たくてたまらなかった、あの日のように輝くような微笑みをくれた。

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