5-6 “歴史的”と“落ち着き”は無関係だった。
「あのさパウラ、もう良いから……頭を上げてくれないか?」
朝日の入る宿屋の一室。その片隅で僕は眠い目をこすりながら、浅い眠りから目覚めたばかりの第一声を発した。
「いいえ、そういう訳には参りません。私、マスターに何てお手間をおかけして……もう、本当に穴があったら戻りたい――」
彼女の声には羞恥の色が濃く滲んで、いつもはしっかりしているパウラの性格からも、昨日の一件を本当に悔やんでくれているのが分かる。でも本当は昨夜ここへ戻ってからの絡みぶりの方が酷かった訳だが……いまの彼女にそんなことを言ったら、ショックのあまり間違いなく地面の中に帰ってしまうことだろう。
けれど僕はいまパウラに地面に戻られては困る。しかもこんな小さい案件で失うなんて冗談じゃない。
「今から戻られては僕が困る。それに今日の晩にはオットー達とこの宿屋の食堂で合流することになっているのだから、それまでにもう少しこの街を調べに行こう」
まだ謝り足りなさそうなパウラを何とか説き伏せ、僕達は昨日のリベンジをはかる為に街へ出た。
街に出てからは「あの素材屋さんから美味しい匂いがしますよマスター」と張り切るパウラを微笑ましく眺めながら、のんびりと一店一店を覗いて回る。どの店も専門的な分野が違っていて、貴重な物も見つけやすい。
昼になって太陽が真上にくる頃には、僕とパウラの間に流れていた朝の気まずい空気もすっかり薄らいでいた。何の気なしに横切ろうとした通りの一角に、ふとパウラの夕食を購入した園芸店が見える。
どうやら僕は無意識のうちにパウラの夕食を買いにこの道を選んでいたらしい。
そんな自分に苦笑しながら「二倍買わなくても良いのか?」とパウラを振り返って訊ねれば、彼女は金色の瞳を輝かせてサクラのスモークチップ を買い求めに行った。店内は狭いので、僕は外の通りで待つ間、次はどこに入ろうかと物色する。しばらくするとほくほく顔のパウラが店から出てきた。
「うん? 二倍買うと意気込んでいたのにそれだけで良いのか?」
パウラが抱えている袋の大きさでは、前回僕が買って帰った時よりも少ないくらいだ。急に値上がりしたのでもなければ渡していた金額で充分購入出来たはずなのに――と。
「ショップカードを頂いてきました。今日はまだまだ回るんですから、荷物を増やすのは得策ではありません」
「……なるほど、それで次回から直接工房に取り寄せする気なのか?」
僕の言葉に「ちょっとずつ、ですよ?」と嬉しそうにショップカードを手渡してくるあたり、パウラはもう買い物で言うなら僕よりずっと上級者だ。
そこで僕も次からパウラを真似て、気になった素材屋にショップカードがあればそれを取っておく。カードがなければウォークウッドにある自分の工房の住所と交換で、目当ての店の住所をもらい受ける。
このやり方はかなり有効で、各工房の店主相手に商談と趣味の話題に花が咲いた。欲しい物を常に採取だけで用意するのは難しい。けれどそれをその本職がやってくれるのであれば、ポーションは年中調合が可能になる。
いまは冒険者ギルドの一部のメンバーに頼り切りな採取も、彼等、彼女等が暇な時でなければ手に入らない。そんな需要と供給のアンバランス感を解消するのに、このフェデルの素材屋達は一躍買ってくれそうだった。
医食同源の精神を掲げるポーション工房も多く、フェデルは時間がいくらあっても足りないくらいに興味が尽きない街だ。結局物は試しにとついつい色んな工房の調味料ポーションを少量ずつ購入してしまった。自炊はあまりする方ではないが、帰ってからしばらくは何か作らないと到底捌けそうにない。
尤もフェデルに限らず他の街や土地にも、もっと興味を惹く物は溢れているのかもしれないが。どちらにせよ、まだ本店主催の品評会にも出席出来ない僕が外の世界に思いを馳せるのは早計だろう。
冬の弱々しい日光が雪に降り注いで、街を淡く儚げに彩る。
こうしてみるとフェデルの街はウォークウッドよりも伝統的な建造物が多く、明るい時間にゆっくり眺めながら歩いていると街全体が古めかしい絵画のようだと気付いた。彩りの少ない季節ならではの伝統的な街並みがみせる美しさは、どこか過去の旅行記を読みふけるのと似ている。
フワフワと心許ないのに不快ではない――そんな感覚だ。
「マスター、次はどこに入りましょうか?」
ぼんやりと街並みに目を奪われていた僕のすぐ隣から、弾んだパウラの声がして現実に引き戻される。ほんの一瞬自分の中の時間が現在の時間軸からズレて、感覚が曖昧になった。すると二、三度瞬きをする内に「ご気分が優れないのですか?」と、心配そうな表情で覗き込んでくるパウラの金色の双眸と視線がぶつかる。
「――いや、大丈夫だ。少し街並みに見入っていただけだから。それよりもさっきから僕の行きたい店にばかり立ち寄っているから、次はパウラが選んでみると良いよ」
「え……ですが、それではマスターの研究のお役には……」
「役に立つとか立たないじゃなくて、せっかくこうして二人で出かけているのだから、僕ばかりが楽しんで連れ回すのはフェアじゃないだろう? だから次はパウラの番だ。君の楽しそうだと思う場所に僕を連れて行ってくれないか」
ポーションの入った紙袋を抱えていない左手をパウラに差し出せば、彼女は僕の手をまじまじと見つめて……微笑んだ。
「では、あの、こっちですマスター! あっちから仄かに良い香りがするんです」
そう言って僕の手を力強く握ったパウラはその身を軽やかに翻す。クンッと引かれる腕の強さに思わず笑ってしまった。パウラの言う“良い香り”の源を探して歩く街並みは、不思議と先程までとは違って鮮やかに見える。冬の色が少ない世界に彼女の深緑の髪が揺れて僕を誘った。
仄かな香りを頼りにフラフラと、まるで蝶が誘われるように僕達は街角の住所もろくに見ずに進む。やがて大きな道から幾つかの路地を経由して抜け出したのは、意外にも雑貨を扱う通りだった。
「……見つけました! 香りの元はあそこですマスター」
はしゃいだ声をあげるパウラの肩越しに見えたのは、パッと見ただけでは営業しているのかも定かではない古びた外観の工房だった。周囲の可愛らしい雑貨屋とは一線を画した、どこかアンティークな佇まいとでも言おうか……時代を遡った気分になる。
やや不安になった僕の手を「行ってみましょう」とパウラが引いて。促されるまま近付いて見ると、やはりかなり年期の入った店であることが分かった。大きく取られたショーウィンドウから薄暗い店内を覗けば、小瓶の並んだ棚が壁一面にある。
どうやらここは僕が調合した擬き商品とは違い、本格的な香水の工房らしかった。正直パウラが目指したのが素材屋でなかっただけでも驚きなのに、まさかの香水工房。いやでも、医食同源を謳う街なのだし、もしかすると飲用なのか?
どうにもここ数日の行動のせいか、僕の中でパウラ=食欲という形式が出来上がりつつある。そんなことを考えながらパウラが押し開いたドアから店内に足を踏み入れた。
「――ん」
「ふわぁ……」
一歩踏み込んだだけで、この香りの空間に魅了される。どの商品も瓶から少しずつ漏れる仄かな香りの種類は違うのに、不思議と悪臭にならない。絵の具の色を一定の数以上混ぜれば醜く濁るのと同じように、香りも単体で良い香りのものだとしても、混ざり過ぎればとんでもない悪臭になることはままある。
なのに……この工房の中はそんな不協和音を一切感じさせない。春の野に咲く花々の香りが喧嘩しあうことがないように、自然に折り重なって造られた香りの薄衣のようだ。
「はぁ……良い香りですね、マスター」
棚に顔を近付けていたパウラがうっとりとした表情で僕を振り返った。そのふわりと緩んだ表情を見てふと合点がいく。
すなわち“すぐそこに昨日の二の舞の危険性が近付いて来ている”と。
そのことに気付いて背筋が冷たくなる。
「あ、あぁ……そうだな。だけどパウラ、この香りは――」
僕がしどろもどろになりながらも、何とか適当な口実を考えてパウラを一旦表に連れ出そうと口を開きかけた時だ。
「あらあら。緑と土と水の香りがするわねぇ……それに、ふふ。楽しそうな若い声だこと」
それは、波打つ水面の声だった。高くも低くもなく、風の走る水面の音。その僅かにエコーのかかった年配女性の声は、店の奥を仕切る衝立ついたての影から聞こえてきた。
「このお店の方ですか? 騒がしくしてすみません」
衝立の奥を覗くわけにもいかないので、相手が僕達の前に現れる前に騒がしくした謝罪だけでも口にする。
「いいえぇ、構わないですよ。このところお客様が少なくて退屈してたくらいですからね」
僕とパウラが見守る中、衝立の影から現れたのは品の良さそうな老婦人だった。老婦人は年代物の車椅子に腰掛け、肩からは若草色のショールを羽織っている。
美しいプラチナブロンドから、若い頃はさぞ鮮やかなブロンドだったのだろうと推測された。しかし両の目蓋は下ろされており、僕達を見つめる為に持ち上げられる気配もない。そんな優しげな風貌の老婦人の後ろには、車椅子を押してやるふっくらとした若い女性が一緒について来た。
「あぁ、やっぱり――懐かしいこの香り。あの人が今朝教えてくれた通りよ」
そう言って空気をかき混ぜるような仕草をする老婦人に困惑していると、車椅子を押してきた若い女性が僕達を見て苦笑した。焦げ茶色の髪と同色の瞳が好奇心に輝いている。
「あ~ごめんなさいね、お客さん。びっくりさせちゃったでしょ? 先生もまたそうやってせっかくのお客さんをからかうのは止めて下さいよぅ。逃げられちゃいます」
ふっくらとして見るからに明るい性格をしていそうな女性の抗議の声を、丸っと無視した老婦人は車椅子に座ったままそのか細い両手を僕達の方へと差し伸べてくる。
「わたしはこの通り、彼がいるあちらの世界を見られる代わりに、こちらの世界のものはからっきし駄目なのねぇ。宜しかったらこの手をとって下さらないかしら?」
断るような申し出でもなかったので、僕とパウラは片方ずつその手をとる。
老婦人の手は見た目のか細さからは想像できないほど掌の表面が硬く、彼女もかつては僕と同じように、乳鉢と乳棒でポーションの材料をすり潰してきた手だと分かった。
「はい、ありがとう。そしていらっしゃい。特に右手の貴女のように若い妖精さんのお眼鏡にかなうだなんて、光栄ですよ」
歌うようにそう言う老婦人の言葉に、僕とパウラは虚を突かれて思わず顔を見合わせてしまう。
「もー、言った端からまたぁ……あ、お客さん、うちの先生はよくこうやって人をからかうんで。あまり気にしないで下さい」
ふっくらとした女性はそう言うが僕とパウラは、はっきりとこの老婦人が“精霊”やそれに準ずるものを感知出来るのだと確信した。
「あら、あら、ごめんなさいねぇ。うちの弟子はこの通り大らかすぎて、繊細なものを感じ取るのがからきし苦手なの。ね、お二人さん、ここにいらしたのもきっと何かのご縁だわ。宜しかったらこのお婆さんとお茶していかない?」
クイッと親指で店の奥を指し示す仕草は、品の良い老婦人がとるにはいささかどころではない違和感がある。
「先生ってばすぐそうやって若い子ぶるんだから。せっかくのお客さんが引いちゃってますってば」
「あらー、本当? 若いうちに老成しちゃうと後の人生つまらないわよ?」
「先生はそろそろ見た目通りに老成して下さいよぉ……」
目の前で繰り広げられる師弟の面白おかしいやり取りに警戒心を抱くことは難しくて、僕とパウラは密かに顔を見合わせて少し笑った。
同時に自分達は特別なのだとどこかで感じていた僕達の遥かに先輩である
この老婦人の“彼”との話が聞いてみたくて。
「では……よろしくお願いします。ミス――」
僕が腰を折ってお辞儀をしながらそう言葉を続けようとすると「あら、わたしはミセスよミスター? 彼の妻ですからね」と。不思議な含みを持たせて車椅子に腰掛けた老婦人は、まるで往年の少女時代のような微笑みを浮かべた。




