D お隣さんも旅人【フィア】
D お隣さんも旅人【フィア】
「このベッドで寝るのかぁ」
手荷物をベッドの下に置いたあと、フィアはヘッドボードの前に並ぶ二つの枕を見ながら、しみじみと呟いた。
――慣れない船旅で、お互い疲れてる訳だし、罷り間違っても、そんな展開にはならないに決まってる。でも。もしも、グレイが良からぬ悪戯を仕掛けてきたら……。ウン。そのときは毛布だけ渡して、容赦なく床に蹴落とそう。乙女の睡眠を邪魔する者に、慈悲は無い。
フィアが穏やかでない考えを巡らせているとき、廊下に通じるドアをコンコンとノックする音が聞こえる。
――帰ってきたのかな。
「はーい。――あら、どちらさまですか」
フィアがドアを開けると、ワインボトルを持った黒髪の男が立っていた。男は、エチケットをフィアに見せながら言う。
「こんばんは。隣の部屋に泊まっているシワスという者です。明日には旅立つのですが、良いワインが手に入りましてね。一緒に飲みませんか」
男は人懐っこそうに、フィアに向けて目を細めて屈託なく微笑む。
――誠実そうだし、笑顔に含みは無さそうだし、酔わせて荷物を盗もうって感じでは無さそうね。たしかに、悪くない提案だけど。
「もう少ししたら、彼が帰ってくるの。せっかくのお誘いですけど、お断りするわ」
「あぁ、そうでしたか。それは、邪魔しちゃいけませんね。では、失礼します」
そう言って、男はフィアに一礼すると、ドアの前を通り過ぎ、更に隣の部屋へと向かう。フィアは、そっとドアを閉める。
――気のせいかな。どことなく、ヤヨイに似てる気がしたんだけど。ひょっとしたら、彼もニホンって国から来た人なのかな。……まさかね。髪が黒いから、勘違いしただけよ。ウン。他人の空似ね。そうよ。そうに決まってる。
フィアは、頭の中で想像を現実的に否定すると、ベッドの前を通り過ぎ、目線の高さにすりガラスがはまったに扉へ向かって歩く。
「まだまだ帰ってくる気配が無いから、先に手早くお風呂に入ってしまおう」
行き掛けにサイドテーブルに置いてあるバスタオルを一枚手に取り、フィアはガラス扉の向こうに行く。
――グレイが帰ってくるまでに、上がって着替えなきゃ。急ごう。グズグズしてると、買い物を終わらせて戻ってきちゃう。
シワス:年齢不詳。旅人。濃褐色の瞳。黒髪。