四話 カタスミの住人
「そう言えばさ、この中で、昨日の流星群、会場に行って見た人いる?」
窓の外では土砂降りの雨が振っていた。給食後のざわつく教室。外に行けない原因の雨を睨んでいた巧の後ろで、ずれた眼鏡を直しながら隼人がそう口にした。
巧が窓から目を離して振り返る。孝太の机の周りには、巧と隼人と明と、いつもの三人が集まっていた。
「僕、行けなかったな。急に妹が熱出しちゃってさ。父さんも母さんも帰り、遅くなるって言ってたから、全部僕が世話しなくちゃいけなかったんだ」
そう言って小さくため息を吐いたのは、巧の向かい側に座る明だ。明は少し悔しそうな表情をすると、行きたかったなあ、とぼやいた。
「明の妹って、そんなに体弱かったっけ?」
巧は前にもそんな話を聞いたような気がして、明にそう尋ねる。明は困ったように微笑むと、小さく頷いた。
「うん。栞のやつ、すっごい体弱い。何にもないのに急に風邪ひくこと、結構よくあることなんだ」
「大変じゃんか」
机の主が少し驚いたように声を上げた。まあね、と答えた明に、孝太は優しいんだなと声をかけた。
「妹だからね、僕がしっかりしないと」
「ふーん。じゃあ明は、あの会場にいなかったわけなんだ」
「じゃあ、って。え、巧は行ったのか、昨日の会場に?」
「まあ、ね」
「マジか!」
途中から割り込んできた隼人が目を輝かせる。巧はちょっと得意になって頷いた。どうでもいいことなんだけど、何かに選ばれた人物になったような気がして巧は嬉しかった。見ればそんな巧の目の前に座る明も、羨ましそうに巧を見ていた。
「なあ巧。それってさ、なに、オレたちに対する自慢なわけか?」
巧の右側から、そんな抑揚のない声がした。巧が振り向くと、目の据わった孝太がひじを突いて巧のことを見ていた。
「自慢って、そんなわけじゃないけどさ……。あ、もしかして、孝太も会場行けなかったのか?」
「好きで行かなかったわけじゃねえよ。でも、昨日オレん家の親父とばばあ、何だか機嫌悪くてさ、とてもじゃないけど見に行きてえ、なんて言えそうになかったんだよ」
「うへー。それ最悪じゃん」
そう言った巧を、孝太はじろりと睨んだ。
「いいよな、行けた奴は。あーあー、そうですよ、行けませんでしたよ、オレは」
「ちょ、孝太、すねなんなよ。たかが会場行ったくらいだぞ? 人ばっかりだったし、うるさいし、正直昨日は疲れただけだったんだよ。……なあ、怒んなよ。悪かったって」
巧は自分から目を背けて無視を決め込んでしまった孝太を見て、しまったなあと、後悔した。孝太の機嫌を損ねるしまうと厄介なことを思い出したのだ。
まずったなあ。どうしよう。巧の頭の中は、孝太をどう扱おうかで一杯になってしまった。
「な、な。とにかく巧は会場で見たんだろ、流星群」
「え、ああ、うん。まあ、一応ね。ははは」
不意に身を乗り出してきた隼人に、巧は空笑いで返事をする。ちらりと孝太を盗み見た。燃えるような目がじっと巧のことを見ていた。すぐに視線を外す。巧は隼人と話すことにした。熱い石には水などかけず、自然に冷ますのが一番安全だという話を、巧は思い出していた。
「ところで、隼人はどうしたんだよ。そんなに身を乗り出してきちゃってさ。昨日の会場に行ったのがそんなに気になるのか?」
「なあ、巧。お前さあ、昨日、例の現場見た?」
「例の現場? 例の現場って何のことだよ」
巧の質問などお構いなしに質問で返してきた隼人に少し腹がたったが巧だったが、気になる言葉があったので、まずはそれを隼人に尋ねていた。
そんな巧の反応が予想外だった隼人は、目を大きく開いて続けた。
「あれ、もしかして巧、知らないのか? 昨日会場で、突然消えちゃった女の子が失踪していた犬と一緒に戻ってきたっていう話だよ。何でも、いきなり人ごみの中に現れて、感動の再会を果たしたっていうじゃないか。え、本当に何も知らないのか?」
巧は首を横に振った。昨日、そんなことがあったなんて初耳だったのだ。ちょっと見たかったかな。巧はそんな風に思った。
期待していた返事がもらえなかった隼人は、あからさまに肩を落とすと、一緒に眼鏡もずらして心底残念そうにうな垂れてしまった。
「えー。本当かよー。あーあ、折角新しいオカルトを聞けると思ったのになあ」
「オカルトって、隼人。まだそんなのにはまってるのか?」
「え? そうだけど? 明も知ってるだろ、ぼくのオカルト好きは。あれ、なんかおかしいかな」
隼人の言葉に、食いついてきた明を当の本人は不思議そうに見返していた。明が頭を振る。巧は苦笑いを浮かべる。孝太はまだ機嫌が直ってないよう表所をしていた。額に手を当てて、明は盛大なため息を一つついた。
「おかしいもなにも、いい加減そんなこと卒業しなよ。僕たち、もう六年生なんだからさ」
「む。六年生が何さ。そんなの関係ないよ。ぼくはただ、そこに不可解な事実がある限り、ミステリーを追いかけるんだ」
明の言葉に少し気分を害した隼人は、そう一方的な宣言をして会話を終わらせてしまった。そんな隼人に、巧は弱々しい苦笑を浮かべる。隼人のオカルト好きに、呆れてしまうのも通り越して感心さえしてしまいそうだった。
まだ四年生だった頃、同じ塾に通っていたのを理由に交流が始まった四人。その時分から隼人はすでにオカルトマニアだったし、明は誰かの面倒をよく見ていたし、孝太はすぐに拗ねる奴だった。変わらないなあと、巧は目の前の三人を見て思った。
そんなみんなの特徴が顕著に現れた出来事を巧は急に思い出した。まだ忘れもしない、一年前の夏休み。学校の七不思議を暴くとか何とか隼人が言だして、四人は真夜中の学校に忍び込んだことがあった。暗い校舎にしまい込まれていたじめじめとした空気と気持ち悪くなるほどの静寂。
「あの夜の学校は怖かったよなあ」
思わず、巧はそう口にしていた。
「ああ、去年のあれかあ。確かに、気味が悪かったよね。……でも、結局何もなかったと」
思い出した明がそう反応する。そこに、どうやらようやく怒りが治まったらしい孝太が乗ってきた。
「へっ。結局ただ暗いだけでさ、すっげえつまんなかったんだよな、あれ。もうオレはぜってえやんねえな、あんなの」
「そう言う孝太が一番怖がってたんだもんね」
「うっせえぞ、隼人。お前はオレの後ろに隠れてただけだったじゃねえか」
「オレが先頭を歩くって言ったの、孝太だったじゃないか」
「あれはお前たちが中々先頭を決めなかったからだろ。オレは早く終わらせるために言ったんだよ」
「怖かったんだ」
「この、隼人っ」
掴みかかろうと立ち上がった孝太をなだめるように、素早く明が二人の間に割って入った。
「まあまあ、落ち着きなって。もう、いいじゃないか、過ぎたことなんだしさ。隼人も孝太をからかうのやめろよな。あの日はみんな怖がってたんだからさ」
ことの次第を冷や冷やしながら見守っていた巧は、上手いこと止めに入った明に感心してしまった。案外、明がいなかったら、俺たちは仲良くやっていけないのかもしれないな。巧はそんなことを思った。
と、唐突にあることを巧は思い出した。あの日、巧たちは確かに七不思議を調べに学校に行った。けれど、七つ全てを調べたのだったろうか。七つ全てを知っていたのだろうか。巧の記憶はあやふやになっていた。そこで、巧は浮かんだ疑問を口に出して三人に聞いていた。
「なあ、あの日見て回った不思議って、七つあったっけ?」
そんなちょっとした疑問に、まず明が答える。
「いや、確か六つだった思うよ。七つ目は場所が分かんなかったんだ。な、そうだったよな、隼人」
「うん。七つ目の不思議を知るには、六つの不思議のなぞを解かないとダメだったんだ。六つのなぞを解き、七つ目の不思議を明らかにせよ、なんて噂では広まってたからね。結局全然分からなかったけどさ」
「解くも何も、不思議なとこなんて一つもなかったじゃねえか」
最後にそう言った孝太を、隼人が睨んだ。まあまあと、再び明が間に入る。結構微妙な関係で俺たちは繋がっているんだなあと巧は思った。
「七つ目の不思議、教えてあげよっか」
そんな中、声が巧の後ろから響いた。四人が一斉に振り返る。そこには、にっこりと笑う一人の女の子が立っていた。
「誰?」
「知らない」
「明も?」
「知らないなあ」
巧は後ろからした三人の声を聞いた。本当に誰だろう。巧自身もそう思った。
その女の子は近くの椅子を引いてくると、半ば強引に巧と孝太の間に割り込んできた。肩が互いに触れてしまいそうな距離だった。なんだこいつ、と巧も孝太も、残りの二人も不審に思い、場の空気は一気に変わってしまった。
変えてしまった空気に気が付かないのか、はたまた気付いていながら無視しているのか、その女の子は浮かべた笑みを絶やさずに、誰かが話しかけるのを待っている。窮屈になっていた巧と孝太は、仕方なく座っていた椅子を横へずらすことにした。
その行動に、女の子はようやくは両手を合わせてこう言った。
「ごめんね、何だか突然入ってきちゃって。あ、あたし、片倉美穂って言うの。よろしくね」
まるで久しぶりに会った親友に声をかけるかのような気軽さで、美穂と名乗った女の子は四人に挨拶をした。それに巧たちはぎこちなく会釈を返す。そんな様子は全く気にも留めず、美穂はいきなり話を始めた。
「ね、七番目の不思議について知りたいんでしょ? あたし、ちょっと知ってるんだけど。何か聞きたいことってない?」
「え、え、え、ちょ、ちょっと待って。それは、その、六つの不思議のなぞを解いたってことなの?」
隼人が急に変化した空気に何とかしがみついて、美穂にそう問い掛けた。
「ううん。そうじゃないよ。六つの不思議はただあるだけ。飾り物なんだ。だからなぞもへったくれもないの。あんなの嘘っぱちだよ」
「え、そうなの。本当に? うわー。なんだよ。ぼくすっごい悩んだのに。……こんなのってないよ。バカみたいじゃないか」
「やっぱり何にもないんじゃないか」
そう言ってかけていた眼鏡がずれた隼人に、孝太のつまらなそうな声が投げかけられる。隼人は脱力したように天井を仰いでしまった。そんな様子を美穂は薄っすらと笑みを浮かべながら眺めていた。
「でも、七つ目はあるんだよね」
明がそう美穂に尋ねた。美穂の言い方が気になった巧も、そうなんじゃないかと思っていた。案の定、美穂は深刻そうな表情をして明を見つめ返すとしっかりと頷いた。
「うん。七つ目は本当だよ。本当に、本物のこの学校の不思議なんだ。資料室ってみんな知ってる?」
その問い掛けに四人は頷く。知ってるも何も、巧たちはこの学校に六年間も通っているのだ。教室を出た廊下の突き当たりにある資料室を知らないほうがおかしかった。
そろって頷いた四人に満足したのか、美穂は一度微笑むと、両肘を机に突き、組んだ両手に顎を乗せた。周りの四人はその仕草に、顔を机の中央に寄せる。いきなり現れた密会のような空間で、美穂はまるで囁くように七つ目の不思議を語り始めた。
「この学校の七つ目の不思議……。それはね、カタスミの住人っていうお話なの。ほら、資料室ってちょうどこの教室の半分くらいの大きさの部屋に、たくさんの棚が並んでるじゃない。だからみんなすぐにその棚に目がいっちゃうんだけどね、その部屋の隅に、いつしか忘れ去られてしまった子どもの怨霊がうずくまっているんだって。その子はね、とっても寂しがり屋なの。いつもいつも、誰かが自分のことを思い出してくれることを待っているの。長い長い間、あの閉ざされた部屋の片隅にうずくまって、誰からも忘れ去られているんだもん。当然だよね。その子は、まるでずっと孤独な旅を続けて疲れきった旅人のように、人が恋しくて恋しくて堪らないの。……だからね、時々、資料室に入って来た子を捕まえちゃうんだって。部屋の片隅にうずくまったまま、にゅうっとその手を伸ばして、資料室に入ってきた子の足を掴むの。待って、行かないで、わたしのことを思い出してって。そうやって引き擦り込むんだって。そして、引き擦り込んだ子と入れ替わるの。もうひとりは嫌だからね。で、入れ替わってしまった子はもう二度と帰ってくることは出来ない……カタスミの住人となって、じっと資料室の隅で孤独を味わうことになるんだって」
言って、美穂はゆっくり巧たち一人ひとりの顔を見た。そこにはもう、先ほど浮かんでいた笑みはなかった。感情のない瞳に見据えられ、四人はごくりとつばを飲んだ。
「だから、資料室の隅は気をつけてね。いつカタスミの住人に足首を捕まれるか分からないから。捕まったら、もう帰ってこられないんだから」
そう、静かに美穂が話を終えると、巧たちの間に重い沈黙が訪れた。巧も、隼人も、明も、孝太も、みんなが互いの顔を見合わせて、一様に言い知れぬ不安を感じていた。するりと、机の下の足の近くを何かが通っているような気さえしてくる。巧は急に教室の温度が下がったような気がした。
突然鼓膜を裂かんばかりの雷の音がして、俺たち四人はそろって椅子から飛び跳ねた。校庭のど真ん中に雷が落ちた。
「あはは。みんなしてびっくりしてる。おっかしい」
声を上げて、椅子から飛び上がった四人を指差して、美穂はお腹を抱えて笑った。そんな美穂の反応に孝太が憤然と美穂に詰め寄った。
「お、お前、笑うな! お前があんな話するからびびったんじゃねえか、バカ」
「ごめんごめん。だって、みんなすっごく真剣に聞いてくれてたんだもん。ついつい大袈裟に言っちゃった」
「大袈裟にって、嘘も混じってたのかよ」
巧がそうぼやいた。しばらくの間、美穂は笑い続けていた。
机の上に漂っていた緊張がすっかりなくなった頃、巧はふと教室の時計に目をやった。あと五分で昼休みは終わろうとしていた。
「あーあ。またつまらない歴史の授業かよ。人が地球から移住してからどうとかさ、別にどうだっていいんだよね」
「僕も。て言うか、あの先生の授業よく分かんない上に眠たくなるんだよね。昼一番の授業だと辛すぎるよ」
巧の言葉に明が反応した。巧と隼人と孝太は、全くその通りだと思った。給食を食べ終わって、一息入れて、一番眠たくなってくる時に、一番眠たくさせる授業を入れるなんて、効率が悪くなるし、何よりもひどい。また今日も拷問のような睡魔があともうちょっとで襲ってくるのかと思い、巧はは大きくため息をついた。
「あーあ、帰りたいなあ。こんなに雨降ってるんだからさ、帰らせてくれたらいいのに」
椅子から立ち上がり伸びをした巧に、同じく立ち上がり、自分の席に戻り始めた明がしょうがないよ、とだけ言った。
「そう言えばさ、巧、何か言われたなかったけ?」
唐突にそう隼人が巧に言った。はて、何かあったっけ。巧は首を傾げる。
「ああ、そう言えばあったなあ。なんか資料を持って来いって。この前の授業で先生に言われてたぜ、お前」
そう、孝太にまで巧は言われた。腕を組んで、巧は記憶の糸をたどる。少しの間思い出して、巧はああと声を上げた。歴史係なんてクラスの係りになんてなるんじゃなかった。巧は四月、この係りに立候補した自分恨んだ。
見れば、もう後ちょっとで授業が始まろうとしている。
「やっべ。早くしないと怒られる」
巧は全速力で教室から駆け出した。どうしてあんな時間まで教室にいたのか、巧は自分に怒りを覚えた。同時にそれが美穂の話のせいなのかもしれないと考え、また美穂が話した内容まで思い出してしまった。
少しだけ廊下を走る巧のスピードが落ちた。だが、走っているのだ。自分の教室と同じ階にある資料室へはすぐに着いてしまった。立ち尽くす、資料室の扉の前。廊下の反対側からはまだたくさんの声が聞こえてきてきた。
巧は少し心細くなった。
『カタスミの住人はね、時々、資料室に来た子を捕まえちゃうんだって』
美穂が言った言葉が耳の奥で響く。閉じられた白いスライド式の扉を見て、巧は入るのを躊躇ってしまった。
でも、と巧は思う。もし手ぶらで帰ったりしたら、あいつらにバカにされそうだ。きっと先生に怒られるし……。考えて、巧は心を決めた。手をアルミの
取っ手にかけて、ゆっくり力を込める。音もなく資料室の扉は開き始めた。隙間から溢れ出す、こもっていた埃っぽい空気が巧の鼻を突いた。
扉を全部開いて、巧はおっかなびっくり部屋の中に首を突っ込んだ。中の様子を確認する。まず一番初めに見ることが出来る、入り口の左手のある一つ目の部屋の隅を確認した。
大丈夫。何にもいない。そう自分に言い聞かせて、巧は部屋の中へ入った。怖いから、戸は開いたままにしておくことにした。
レースのカーテンがかけられた資料室の中は薄っすらと仄暗くて、巧は気味が悪くなった。電気をつけようにも、スイッチは部屋の一番奥にある。ちょうど、目的の地図が閉まってある場所の近くにあるのだ。簡単に付けられはしない。整然と整列する棚の間を進みながら、巧は美穂に腹を立てていた。
棚の中にはいろんなものが入っていた。内容がよく分からない冊子の数々や中身の分からない段ボール箱、算数で使う大きな三角定規や分度器なども、開いた棚のスペースで無造作に積み上げられている。巧はそんな棚の間を目的の地図を求めて部屋の奥へと進んでいく。もちろん、部屋の隅の確認も怠りはしない。大丈夫。まだ何もいない。巧はゆっくりと部屋の中を進んでいった。
部屋の中には巧の足音だけ響いている。巧は妙に大きく聞こえる自分の心臓の音を耳にしながら、どうして廊下ではあんなにも聞こえていたみんなの声がしないのか不思議に思っていた。部屋の奥に近づく。何だか変に汗をかいているような気がする。伸ばし始めた巧の手は、丸められ壁に立てかけられた地図を掴もうとしていた。
「ねえ」
聞こえた声に、巧は息を呑んだ。
呼吸が止まる。心臓の音がさっきまでの倍以上に聞こえてくる。身体中に石になってしまったように、伸ばした腕はピクリとも動かない。でも、それなのに、巧の首だけはゆっくりと後ろを振り向き始めた。
見たくない! 巧は全力で首を止めようとする。でも、そんな意思に反して、首はどんどんと後ろに振り向いていく。やめろ。やめろ。やめろ! 止まってくれ。心の中で叫びながら、巧は目を閉じようと思った。開ききった目は、しっかりと変化していく視界を捉え続けていた。
そしてとうとう、巧はそこに立つ人物の姿を見た。
「遅いから、心配でここまで来ちゃったよ」
穏やかに笑う美穂が固まったままの巧に話しかけてきた。
「か、勘弁してくれよ、もう」
そう大きく息を吐き出すと、巧は全身から一気に力が抜けていくような気がした。美穂だったのかよ。ほんと、誰かと思ったよ。……俺、すっげえかっこ悪ぃ。かっと、巧の頬が熱くなった。
「あ、もしかして、さっきの話思い出して怯えてたりしたの?」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて、そう美穂が巧に話しかける。
「ば、バカ言うな。そんなんじゃねえよ。その、お前がいきなり声なんかかけるからびっくりしただけだ」
「ふっふーん。格好つけちゃってえー」
「やめろよ。ほんとに違うんだからさ」
小突いてくる美穂の攻撃を後頭部に受けながら、巧は地図を取った。よし、これで大丈夫。早く帰らないといけないな。そう思い、巧は背後の美穂に振り返った。
「もう帰る……」
そこに、呼びかける人物は誰もいなかった。
さっと、巧の顔から血の気が音を立てて退いていった。
「美穂……」
そう呟く巧。声は震え、視線は素早く辺りを見て動いていた。
そして視線に入った部屋の片隅。俯いた女の子が膝を抱えてうずくまっていた。その顔がゆっくりと持ち上がる。巧は地図を落とすと一目散に駆け出した。
出ないと。早くここから逃げないと!
焦る巧は棚の間を一気に駆け抜けて入り口へと向かう。目にした扉は、開けておいたはずなのにいつの間にか閉まっていた。どうして。そんな疑問を抱きつつも、巧はすぐに取っ手を掴み力一杯開けようとする。だが、いくら力んでも、扉はびくともしなかった。
「あああああああああああああ!」
叫び、がむしゃらに開けようとする巧。その左足首が誰かに掴まれた。
「なあ、巧ちょっと帰ってくるの遅すぎねえ? 資料室って廊下の突き当たりだろ? もう授業始まっちゃうじゃねえか」
「も、もしかして、カタスミの住人に捕まっちゃったんじゃないかな」
「隼人、よせよ。そんなこと言うのはさ」
「で、でも明だって思ったでしょ。あの話、なんかすっごく本当っぽかったじゃん」
「……作り話に決まってるよ。たぶん……」
「それにしても、あの女子どこのクラスの奴だったんだろうな。俺、あんな奴見たことねえよ」
「美穂って言ってたっけ、あの子。なんかずっとにこにこしてたけど、ちょっと変な子じゃなかった?」
「あ、案外、あの子がカタスミの住人だったりして……」
「隼人、てめえいい加減にしろって。そんなわけあるはずねえじゃんかよ」
「あ、先生来たね。授業始まるよ。巧、ほんとに、どうしちゃったんだろうね」




